(3)春の思い出
「姫神さん。そんなに緊張しなくても大丈夫だよ」
「う、うん」
「もっと自然に。リラックスして」
そう語りかけるほど彼女の姿勢は自然から遠ざかっていく。モデルを引き受けてくれてから随分経つのに、まだ慣れてないらしい。背もたれと同じ角度で伸びた背筋は中学校の卒業写真みたいで、ぎゅっと結ばれた唇が可笑しさを誘った。
そんな彼女の強張った肩に、白いものがふわりと落ちる。姫神さんは、傍らにある幹を見上げた。
姫神家の庭を覆う、満開の桜の木。
あれからさらに半年が経った。姫神さんは自宅での療養生活を続けている。記憶は未だに戻らないけれど、彼女自身、特にそれを求めてはいないようだった。
「だって、とても楽しいんだもの」
彼女はそう笑っていた。
目に映る景色が、移ろいゆく季節が、風の音が、小鳥のさえずりが、何もかも新鮮で心躍るのだと。
僕も同じ気持ちだった。
「ほら、笑って」
僕は、改めて姫神さんを絵にしている。
彼女も、気恥ずかしそうにしながらも律儀に付き合ってくれている。
どうしてまた彼女を描こうと思ったのか?
そう秀玄さんに尋ねられたけど理由なんて別にない。ただ単に描きたかったのだ。そして、この一枚で終わらせるつもりもなかった。これからも、ずっと、何枚も描こうと想っている。彼女が僕に付き合ってくれる限り。
描くというのは空白を埋める作業だ。キャンバスの空白を埋めて行けばいつかは作品が完成する。かつての僕はそう信じていた。それを埋めようと必死だった。でも今は違う。今は、空白が在ることが楽しくて仕方がない。色を重ねることが嬉しくて仕方がない。
明日のこと。明後日のこと。一年後のこと。十年後のこと。
先のことは知らないし、知らなくたって構わない。
それは、二人でゆっくりと描いていけば良いのだから。
「うん、笑って」
白い花がちらちらと舞い落ちる。まるで春に降る雪のように。
麗らかな陽射しに包まれた庭で、彼女は柔らかに微笑んだ。
(了)
想喰姫 大淀たわら @tawara
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