第4話 悲しい悲しい物語

(1)懐かしい物語

 気付いたらベンチに座っていた。

 そう表現すると大袈裟かも知れない。でも一瞬どこにいるのか思い出せなかった。ペタペタと座面に触れ、硬いという当たり前の感触を確かめる。霞んだ視界に映る赤色は自販機の筐体だった。無機質な稼働音にじっと耳を傾けていると、そこに空調の音が混ざっていることに気付く。肌をさすり玄関を見やった。硝子戸の向こうは目が眩むほど明るい。

(眠ってしまっていたのか)

 眠ってしまいそうだから、下に降りてきたはずなのに。

 座面にはコーヒーの缶が置いてある。持ち上げるとまだ重みがあった。よく溢さなかったものだと感心し、口に含む。すっかり温くなっていた。残りを一気に飲み干して気怠い身体を起こした。空き缶がゴミ箱で跳ねる音に心地良さを覚えながら、階段を昇った。

 夏休みの図書館。午後はそこで参考書を広げていた。課題もあるし、休み明けにはテストもある。先を見据えれば受験もある。頭の痛くなる話だけど遊んでばかりもいられない。程度の差こそあれ他の皆も同じだろう。来館者の大半は同年代の学生だった。どこか見覚えのある眼鏡の女生徒とすれ違いながら奇跡的に確保できた自席に戻る。椅子を引いて腰を下ろすと体重よりもずっと重いものが全身に圧し掛かってきた。

 疲れていた。

 精神的なものじゃない。純粋に、体力的な疲労だった。しかも誰に苦情を言えるわけでもない。単に遊び疲れているだけだから。遊んでばかりいられないと言いつつ、夏休みだからやっぱり遊びに行ったりもする。

 友達と旅行に出かけていたのだ。予てから計画していた通り一泊二日で海辺の町へ。メンバーは、神坂さん、南久保さん、同じクラスの西尾くん、剣道部の山崎くん。そして大滝麻耶さん。海水浴場で泳いだり、史跡を散策したり。船に乗って鯨を観たりもした。炎天下でたっぷりと体力を消耗したから疲れが残るのも当然だった。

 ノートを開いてペンを握る。カチカチと不必要に伸ばした芯の先を、紙面に押し当てて引っ込める。無意味な動作を繰り返したあと、溜息を吐いた。

 疲れていた。

 それでも目覚ましをセットして午前中は美術室に行っていた。作業らしいことは何もしていない。サウナみたいな教室でキャンバスと睨めっこをしただけだ。春頃から描いていた、あの一枚だ。実は、旅行中も絵のことが気になって仕方がなかった。梅雨明けの頃から、もうずっとそんな調子だ。

 作品自体は既に仕上がっている。少なくともそんな状態にはなっている。けれど、これで完成と言ってしまって良いものか? それが自分でも分からなかった。

 桜の下に佇む少女。モチーフにしたのは部屋の引き出しにある一枚の写真……畦道の側で川遊びをしている女の子だ。

 僕は、あの娘のことを何も知らない。名前も、素性も分からない。どうしてそんな写真が手元にあるのか。理由は一緒に写っている少年にある。。あの写真は、一緒に遊ぶ僕たちを母親か誰かがカメラに収めたものだった。でも僕自身、女の子のことはちっとも覚えていない。撮影場所が生家の近くだから近所の子だろうとは考えている。けれど裏付けるものが何もない。もしかしたら偶然一緒に遊んでいただけかも知れない。

 それでも、あの一枚は僕の心を満たしてくれる。

 という感情で胸が一杯になる。

 その想いを作品として膨らませたかった。僕は、彼女が成長し、同じ空の下にいるところを想像した。同じ高校に通い、同じ時間を共有しているところを。もちろん、神坂さんがと笑っていたみたいに一見して判別できるようには描いていない。どこまで象徴的な表現だ。けれど間違いなくイメージ通りに仕上がっていた。構図も色彩も狙い通り。狙い通りの、そのはずなのに……。

 意識が現実に引き戻された。

 目の前には真っ白なノート。頬杖を突き、ぼんやりと紙面を眺めてしまっている自分がいた。誰が見ていたわけでもないだろう。それでも気恥ずかしくなって参考書をめくる。重要だと教わった箇所、重要だと見込まれる箇所をノートに書き移していく。特別なコツなど何もない、ごく普通のやり方だ。でも、ふと不安になる瞬間がある。このやり方は正しいのだろうか、と。

 あの絵も同じだ。

 空白を埋めたかった。隙間さえ埋め合わせれば、それが満たされるのだと信じていた。けれど描けば描くほど分からなくなる。正しい答えが分からなくなる。

 本当の色あい。本当のかたち。

 一体何が真実なのか?

 真っ白なキャンバスに向き合っているのと変わらない。

(知りたい)

 その想いで胸が一杯になっているのだ。

 旅行中も何度神坂さんに注意されたことか。あたしの話を聞いてるの、と。

 自嘲の浮かぶ口許を隠した。そのときだった。

「あ……」

 奇遇だった。バッグを提げた神坂さんが、きょろきょろと館内を見回していた。きっと彼女も課題の遅れを取り戻しに来たのだろう。大声を出すわけにもいかないから、目立たない程度に手を振ってみた。彼女も同じように振り返してくれるはず。そう呑気に構えていたから、こちらに気付いた彼女が、ぎょっと貌を強張らせたことに困惑した。神坂さんは、逃げ場を探すみたいに目を泳がせていたが、やがてぷいと視線を逸らすと、踵を返してフロアから去ってしまった。

 呆気に取られた僕は、上げた手を下すこともできなかった。


 何か、まずいことをしてしまったのだろうか?

 自室のベッドに寝ころび、スマホの画面と睨み合った。最後に彼女とメッセージを交わしたのは昨日の午後だ。旅先で別行動を取ったとき『どこにいるの?』と短い一文が届いている。居場所だけを簡単に伝え、それに対して『OK』というスタンプが押されている。以降、彼女の機嫌を損ねたという記憶はない。出発の日から手繰ってみても険悪だった場面は一度もなかった。電車のなかで女子たちから「デリカシーがない」とひんしゅくを買っていたのは西尾くんだし、彼女たちの水着に余計なことを言って集中砲火を浴びせられていたのも西尾くんだ。海で遊んでいたときは終始ご機嫌だった。夜の花火で少しだけ感傷的になっていたようだけど、それは夏の終わりを意識してしまったからだと苦笑交じりに話してくれた。二日目は沖で鯨を観た。それから海沿いの喫茶店でお昼を食べて、紅葉で有名な神社を参拝して……帰りの電車はみんな静かだった。ひとり、またひとりと駅を降りて、最後に神坂さんと二人になって、別れて……それだけだったはずだ。

 スマホから指を離した。謝罪の文面を送ろうにも理由が思いつかない。尋ねてみるべきかも知れないけれど火に油を注ぐことになりかねなかった。結果、何度も旅行のことを思い返しては頭を抱えるという流れを繰り返している。

 そして、もう幾度目かの寝返りを打ったときだ。扉がコツンとノックされた。「はい」と返して身体を起こすと、ドアの隙間から悠さんが顔を覗かせた。

「ねえ、想太。明日は何時に出発するの?」

「明日?」

「ほら、明日」

 何か予定があっただろうか?

 悠さんは、困ったふうに笑った。

「夏休みだから日にちの感覚がなくなっちゃうのかしらね」

 目で机を指し示した。

「明日が命日でしょう?」

「あ……」

 卓上カレンダーには、赤いペンで『お墓参り』と記されていた。

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