(7)罪と罰
空気が肺を圧迫し、水の底に沈んでいるみたいに苦しかった。息を継ごうと空を仰いだけれど、そこもまた雲で覆われていた。どこにも逃げ場などないのだと感じた。
改めて、彼女に問いかける。
「喰べるの?」
言外に言葉を滲ませたつもりだった。
彼女にもそれは伝わったはずだ。けれど彼女は黙ったまま男の手を握っている。慈しみすら感じられるその手つきが彼女の答えなのだと分かった。頭のどこかが熱を帯びた。
「記憶を喰べれば、このひとのなかから苦しみや罪悪感が消えてなくるんだよね?」
「知っての通りよ」
短く言葉が返ってくる。もう一度問いかけた。
「それで良いの?」
彼女は、こちらを見ようともしない。焦りが募った。
僕は、眠る男に手を向けた。
「このひとは自分のしてしまったことを後悔してるんでしょう?」
「ええ、心の底から反省している。犯した罪を悔いているの。これ以上苦しませる必要はないわ」
「だからって――」
続く言葉は、鋭い眼光で遮られた。
彼女の瞳に映る光――街灯の光が、微かに揺らいでいた。
姫神さんは、僕を振り払うように視線を戻した。
「風間くんは、このひとがずっとこのまま苦しめば良いと言うの? 自業自得だから……永遠に罪の意識に苛まれてしまえば良いと、一般常識と、貴方のなかの崇高な正義感に照らし合わせて、そう言うのね?」
「……そういう気持ちがないとは言えないよ。このひとは取り返しのつかないことをした。それで反省したからお咎めなしなんて」
「咎めなら、あるわ」
姫神さんは、ポケットに右手を差し込んだ。引き出した手にはスマートフォンが握られている。真っ黒なディスプレイを突きつけ、言った。
「私が通報する。彼の実名も。『箱』の場所も。何もかも告発する。彼は社会的に罰せられる。これで貴方の義憤も満足するでしょう?」
「それでも、このひとは、先生を大切に想う気持ちを忘れてしまうんでしょう? その先生を裏切ってしまったことも、何もかも全部忘れてしまうんでしょう? それは罪がただのミスになってしまうってことじゃないの?」
そうだ。罰じゃない。罪だ。
彼が、生きて背負っていかなければならない、罪。
「それって本当に忘れて良いことなの?」
眠る男。その頬が涙で濡れていた。
彼女は、そこから目を逸らした。まるで彼女自身が咎めを受けているかのような、そんな貌だった。堪えるように呻く。
「……どんな悪人だって更生の余地はあるわ。このひとは根っからの悪党じゃない。家族のために仕方なく犯罪に手を染めたの。仕方がなかったのよ。更生の余地は充分にある」
「記憶を消してしまったら、それだってわからないじゃないか」
「わかるわよ! 記憶を読んだんだもの!」
もはや耐えられない。そんな叫びだった。肌を刃で裂くように眉間に皺を刻み付ける。その剣幕に今度は僕がたじろいだ。そして同時に――とても場違いに感じたのだけれど――こう想った。怒る彼女は、とても美しいと。
「どうして、そこまで……?」
納得できなかった。彼女にとってはたった一回の食事に過ぎない。たとえ苦しむひとを救いたいという熱意があったとしても、理由を問わないなんて話はないはずだ。
彼女はやはり答えなかった。庇うように男のひとの肩を抱く。哀れで、胸が締め付けられるみたいに苦しかった。
「君は、感情的になっている」
「ええ、貴方もね」
彼女は、男の頬に指で触れた。
「勘違いしないで、風間くん。別に貴方の許可が必要なわけではないの。私は、私の理由でこのひとを苦しみから解放してあげたいだけ。邪魔をするなら眠って貰うわ」
そして、止める間もなく、男の額に、自らの額を押し当てた。その白い髪が蛍のように夜を照らした。引き離すこともできなかった。儚い光に包まれる二人を、唇を噛んで眺めることしかできなかった。
やがて、ふっと景色が暗くなった。
姫神さんは、男を強く抱きしめたまま、嗚咽を漏らしていた。
「ごめ……んなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。……許して……お願い、許して」
私を許して。
それが彼の言葉なのか、彼女の言葉なのか。僕にはもう分からなかった。
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