(5)暴力と天使
客足はまばらでも途絶えることはなかった。誰かが席を立ったかと思えば、誰かが店に入ってくる。テーブルに向かってずっと何かを書いているひともいる。そんな景色を一時間ぐらい眺めている。姫神さんは、じっと通りを観察していた。喰べる相手を探しているのだ。強い感情を抱いていれば離れていても分かるそうだから、それを目印にしているのだろう。僕も試しに倣ってみたけれど表情以上のことは読み取れなかった。だから姫神さんが仲睦まじそうなカップルを指して「今の女のひと、相当怒ってたわね」と囁いたときは「えっ」と驚いてしまった。姫神さんは、愉快そうに笑っていた。
そうしているうちに徐々にあの考えが頭をもたげてきた。
海に誘ったら来てくれるだろうか、と。
一緒にいると徐々に意識が変わってくる。この娘は決して特別じゃない。妖精でも、妖怪でも、女神でもない。よく笑うし、よく食べる。どこにでもいる女の子だ。みんなとだって上手くやれそうな気がする。
神坂さんなら、この娘のことだって喜んで受け入れてくれるはずだ。彼女は姫神さんに興味津々だったから。どんな男の子がタイプだとか、好きなひとはいるのかとか根掘り葉掘り訊いてくるに違いない。姫神さんが戸惑ってしまっても、きっと南久保さんが上手にフォローを入れてくれる。彼女のことは姫神さんだって知っているから、すぐに打ち解けられるはずだ。もうひとりの彼女だって明るくて冗談が好きなひとだから、いたずらが好きな姫神さんとも……。
……もうひとり?
(あれ?)
もうひとりって、誰だ?
もうひとりの彼女。神坂さんたちといつも一緒にいる、あの。
僕は、額に手を当てた。
(疲れてるのかな)
顔と名前が思い出せない。神坂さんといつもふざけ合っている彼女。神坂さんに好きな人がいると教えてくれたクラスメイトの女の子。性格も、声もすぐに思い出せる。なのに顔と名前だけが抜け落ちている。
よくあることだ。知っているはずの漢字が出てこなかったり、俳優の名前が思い出せなかったり。悠さんもしょっちゅう齢だ老化だと騒いでいる。よくあることだ。何とも言えないもどかしさと、気持ち悪さがあるだけで。
対面を見た。彼女は変わらずに往来を観察していた。その舌先がちろりと唇を舐める。何気ない仕草だった。普段なら気にも留めなかっただろう。けれど、どうしてだろう。その口許から目が離せないでいる自分がいた。
そのときだった。
「いたわ」
彼女の双眸が微かに煌めいた。
「彼にする」
言った傍から立ち上がり、入口のほうへ足を向ける。僕は呆気に取られ、彼女と窓を交互に見比べた。硝子の端を紺色のスーツが横切った。慌てて追いかけ店を出る。姫神さんは既にかなり先へ進んでいた。駆け寄って隣に並んだ。
視線の先にはスーツを着た男性の背中。こちらには気付いていないようで淡々とした足取りでアーケードを歩いている。伸びた背筋と髪型を見る限り、まだ若いひとのようだった。
「あのひとがそうなの?」
口に手を添え尋ねる。彼女は黙って頷いた。
すぐにどうこうする気はなさそうだった。ここは人が多い。触れるだけで済むとは言え、それはそれで目立つ行為だ。人気のない場所へ移動するまで尾行するつもりだろう。けれど、そう都合よく動いてくれるだろうか? 訝しんだが杞憂だった。彼が曲がった先は灯りの消えたオフィス街だった。人通りはない。姫神さんは、足音を抑え、されど歩調を速め、男との距離を詰めた。
「あの、ちょっといいですか?」
男はびくりと肩を震わせた。身構えるように半身で振り返る。その反応に違和感を覚えた。
(何だろう……?)
変だった。考えすぎかもしれないけれど、どこか変だった。
そのひとはやはり若かった。二十代のどこか。それも後半ということはないだろうし、もしかしたら僕たちと大して変わらないかも知れなかった。だから……なのだろうか? 縁の太い眼鏡も、ワックスを塗りつけた髪も、スーツも、微妙に似合っていなかった。不慣れなものを無理して着ているような、そんなちぐはぐな印象を受ける。一番不自然だったのは彼が警戒する素振りを見せたことだ。夜道で知らない人間に話しかけられたら怖いのは分かる。それでも反応が過敏だった。彼は、僕たちを見てから視線を左右に巡らせた。周囲を警戒したのだ。普通するような反応じゃない。
男は不機嫌そうに応じた。
「……何か用ですか」
姫神さんは臆することなく、両腕を広げる。
「私たち、人間の記憶と精神に関する実験を行っているんです。少しだけ協力して頂けないでしょうか? お時間は取らせませんので」
「……宗教の勧誘か何かですか。だったらすみません。他を当たって貰えませんか」
「いえ、そんなものでは。ただ貴方のような方の協力が欲しいんです」
「? ……どういう人間の協力が?」
「そうですね」
姫神さんは、気遣うような笑みを作った。
「何か、つらいことがあったのではないかと」
「……お前ら、水嶋の関係者か?」
男の口調が、がらりと変わった。
水嶋。その名前を聞いてもピンと来なかった。姫神さんも同じだろう。互いに顔を見合わせる。けれど少し記憶を辿ると、あるひとの顔が浮かんできた。まさかと思う。
確かめるより早く、男が姫神さんの胸倉を掴んだ。
「おい、教えろ! あいつ、まさか俺のことを……」
「ちょっと!」
僕は、咄嗟に男の身体を突き飛ばしていた。そんな反撃を受けるとは予想していなかったのだと思う。襟元を掴む手はあっさりと離れた。彼は、後ろによろめいてから、こめかみに太い筋を浮かべた。
「てめえ……」
恐ろしい形相だった。これだと思った。違和感の正体はこれだと。
日常を生きていくうえで関わることのない気配。暴力の臭気。男はそんなものを纏っていた。真面目そうな眼鏡をかけていても、きっちりとスーツを着こなしていても、ひとを威圧する気勢が隠せていない。この男は、まともに会社勤めをするような人間ではないはずだ。
僕は、男と姫神さんの間に立った。手を出してきたのは向こうなのだから腹を立てられる筋合いはない。しかし、そんな道理が通じるとも思えない。どんな反応をするのかも。
足が竦んでどうしようもなかった。けれど、この娘だけは。
そうして水平に上げた腕に……情けなく震えている右腕に、そっと手が添えられた。僕は、微かな力に従って腕を下した。
「バカね。風間くん」
姫神さんが一歩前へ踏み出した。まるで舞台に登壇するように。その動きがとても優雅で自然なものだから、僕は――恐らく目の前の男も――魅入ってしまっていた。
彼女はキャップを脱ぎ、その純白の髪を、羽のように広げた。
そして、ゆっくり振り返る。あまりに、無防備に。
「言ったでしょう? どうとでもできるって」
「!? な……んだ? てめえ」
そう呻いた瞬間だった。男が前のめりに崩れ落ちた。唐突に、右手だけを彼女に差し出したような格好で。武骨な手は、白く小さな手でしっかりと握られていた。
「でも、ありがとう」
這いつくばる男を一瞥もせず、彼女は柔らかく微笑んだ。
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