(4)レテと夜の街

「うん、友達と。……いや、そんなんじゃないよ。友達。うん……急にごめん」

 スマホを耳から離す。姫神さんがぽつりと尋ねた。

「……御身内の方?」

「うん。そんなとこ。同居人って言うか」

 僕は、苦笑し、ポテトを摘まんだ。

 僕たちはアーケードにあるファストフード店に移動していた。夕方は学生で溢れているイメージがあるけれど七時を過ぎれば客もまばらだ。窓際のテーブル席に陣取った僕たちの他には、スマホをいじっている会社員がひとり。文庫本を広げている女子高生がひとり。そして親子連れが一組。父親と、母親と、小学校一年生ぐらいの男の子。

 僕は、シェイクの入った容器を掴んだ。

「小学生のときに火事で両親を亡くしてるんだ。それで……博貴さんと悠さんっていうんだけど、その二人が僕を引き取ってくれて。今は三人で暮らしてる」

 ストローに口を付ける。甘く、冷めた感触が口のなかに溢れた。ちらりと対面を窺う。横顔は無表情に夜景を見つめていた。黒い硝子の表面を小柄な男子学生が横切った。彼女の虚像が重たそうに瞼を閉ざした。

「ごめんなさい」

「え?」

「……不躾なことを訊いてしまって」

 僕は「別に構わないよ」とハンバーガーの包み紙を剥いた。母親に笑いかける男の子を眺め、心のなかで繰り返す。

(別に構わない)

 嘘じゃない。気を遣ったわけでもない。本心から別に構わないと思っている。その頃のことは記憶にないから。だから僕のことで姫神さんにつらい過去を思い出せてしまったのなら、それこそを申し訳なく感じる。

 この娘も、お父さんとお母さんを亡くしている。

 同じ境遇なのだ。共に両親を亡くし、別の誰かに引き取られている。奇妙な偶然だった。それは本来とても珍しいことのはずだ。詳しく話を訊いてみたいけれど、それこそ事情が事情だった。不用意なことを口走らないようハンバーガーを喉に押し込んだ。

 彼女もまた丁寧に剥いた中身を口に含むところだった。二段重ねになったパンと牛肉は彼女の口には大きかったらしく端から少しずつ齧っていた。何だか小鳥みたいだった。

「なに?」

 小鳥が怪訝そうに眉を寄せる。僕は「ごめん」と笑った。

「姫神さん、ジャンクフードとか食べるんだね」

 彼女はきょとりと瞬いた。「何を馬鹿なことを」と呆れられた。

「風間くん、私のことを何だと思っているの?」

「姫神さん、ちょっと不思議な雰囲気があるから。それに、あのお屋敷でしょう? 俗っぽいものを食べてるイメージがなくて」

「ハンバーガーも食べるし、パンケーキだって食べます」

 ひょいとポテトを口に放り込んだ。

「記憶だけが私の食べ物じゃないんですから」

 そしてストローに唇を付ける。

 記憶。その単語が彼女の口から出たのは丁度良かった。

 僕は声を潜めた。

「でも今日は記憶を食べに来たんでしょう?」

 彼女の動きがぴたりと止まる。けれど一瞬だった。姫神さんは「ええ」と頷くとカップをトレイに戻した。頬杖を突き、ハンバーガーを手に取った。

「身体に必要な栄養はこうしたものから摂取できる。けれど記憶は別腹なの」

「秀玄さんから聞いたよ。定期的に摂取しないと、その、自我が保てなくなるって」

 彼女は、目だけをこちらに動かした。

 つまらなそうに息を吐く。

「二週間に一度ぐらいかしら。こうして食事に足を運ぶのは。もちろん摂取した量や種類にも拠るし、何も食べなくても一月ぐらいは耐えられるでしょう。けれど、その結果どうなるかは試したくはないわね」

 そして、ぱくりとハンバーガーを齧る。その指の腹にケチャップが付いていた。彼女は不快に顔を顰め、紙ナプキンで拭き取った。丁寧に折り畳んでトレイの端に置く。

「不便な家系なのよ。この力のせいで自滅した人は数知れない。私だって……欲しくなんかなかったわ。こんな呪いみたいなもの」

 僕は「そうなんだ」と相槌を打つしかなかった。その曖昧な反応が気に喰わなかったのか、彼女は、じいっと半眼で睨んできた。

「風間くん、今『よくいたずらに使ってるじゃないか』って思ったでしょ?」

「や、そんなことは」

「いいじゃない別に。何をしたって消えてくれるわけじゃないんだから。それに私がこの力をあんなふうに使うのは風間くんと兄さんぐらいのものよ」

 秀玄さんはともかくなぜ僕が。そう苦く笑ってから思い出した。彼はこう言っていた。姫神さんは他人と関わることを避けてきたと。そもそも、からかえる相手がいなかったのかも知れない。学校での彼女は孤高そのものだ。

(……でも、それっておかしくないかな)

 どうして、この娘は他人と関わるのを避けてきたのだろう?

 秀玄さんは理由を二つ挙げていた。一つは境遇。もう一つは能力。その二つがあるから他人を避けることも仕方がないのだと。でも理屈に合わないのではないだろうか? 少なくとも能力を理由に他人との交流を断つ必要はないはずだ。

 特殊な力を秘密にしたいから他人を遠ざける。確かに理由は尤もらしい。世間に知られたら奇異な目で見られるだろうし、もしかしたら実験動物にされてしまうかも知れない。でも仮にそうなったとしても対処の仕方はいくらでもあるはずだ。。ネットに広く喧伝するわけじゃない。個人の付き合いの範囲であれば充分に隠し通せるはずだ。

 余程他人を信用できない環境で育ってきたのだろうか? かも知れない。けれど、それを正面から尋ねるのは流石に憚られる。ただ彼女の不自然な行動にヒントが隠されている気がした。

 僕は、シェイクを喉に通した。

「姫神さんは、どうして苦しい記憶ばかり喰べているの?」

 潤った喉は、瞬く間に渇いていく。もう一度それを癒そうにも手元が強張っていた。

 彼女の貌からは快も不快も読み取れない。只々推し測るような沈黙が返ってくる。思い出したのは数年前のことだ。一度悠さんに尋ねてみたことがある。どうして僕を引き取ったのかと。あのときの悠さんもこんな貌をしていた。

 ややあって、彼女はぽつりと言った。

「それも兄から?」

「いや」

 と一端否定する。続く言葉が浮かんでこなかった。「ええと」と首に手を当てているうちに段々と思考が整ってきた。

「これは僕の推測。でも分かるよ。あんな苦しそうなところを見てしまったら。それにどんな記憶でも構わないのなら、わざわざこうして街へ足を延ばす必要もないでしょう?」

 彼女は表情を変えない。ただ視線をテーブルに下げた。それは躊躇や拒絶の反応ではなく説明の順序を思案しているふうだった。やがて整理が付いたのか、長い睫毛が窓へ向いた。

「私たちは自我を保つために記憶の摂取を必要とする」

 硝子には彼女の像が映り込んでいる。鏡に語りかけるように続けた。

「メカニズムはよく知らないわ。兄さんは調べたがっているけれど世間体が邪魔をしているみたい。血の繋がらない妹とは言え、身内をモルモットにするのは気が引けるようね」

 彼女は「まあ、どうでもいいことだけれど」と皮肉っぽい貌を作った。

「自我を保つためにどんな記憶を摂取すれば良いのか。詳細な記録が残っているわけではないから経験でしか語れないけれど、私は単純に量が必要なのだと認識していたわ。どんな種類の記憶でも量を摂取すれば飢えは満たせるのだと。それは恐らく一面では間違っていない。大量の情報を摂取すれば、その分空腹も満たされるから。けれど、あるとき別の見方があることに気づいたの」

 それは何か?

 彼女は、ドリンクの容器を持ち上げた。

「感情よ。情報量の大きな記憶には必ず強い感情が伴っているの。花が開くような喜びの記憶。身を焦がすほど激しい怒りの記憶。……深い、深い、悲しみの記憶。それらには無味乾燥の記号的なそれより遥かに凝縮された情報が詰まっている。たとえるなら、そう。この珈琲」

 語りながらカップを揺らす。

「粉が多ければ味は濃くなるでしょう? 砂糖を溶かしたら甘くなるし、ミルクを混ぜればまろやかになる。同じ一口でも含まれる情報量はまるで違う。記憶だってそう。同じ一秒の記憶を喰べるにしても、何も考えずに過ごしたそれと、強い感情を宿してそれとでは、情報の密度が全く違っているの」

 テーブルの脇を人が通り過ぎた。例の三人の親子だった。満足そうに両親を見上げる男の子と、彼を見つめる優しい眼差し。きっとこの世界で一番幸せな光景だった。

 姫神さんは、瞼を閉ざした。

「そして一度混ぜ合わせた珈琲から砂糖とミルクを分離することができないように、記憶から感情を切り離すこともまたできない。人間が感情の生き物である以上どんな記憶にも感情は宿っている。違っているのは濃淡だけ。そのことに気付いたら段々と見え方が変わってきたの。私たちに必要なのは記憶そのものではなく、その裏側に在るものなのかも知れないって」

 そこまで言って彼女は――彼女のなかに既に答えはあったはずだが――はたと真実に辿り着いたかのように、ぽつりと呟いた。

「私たちはひとの想いを喰べているのかも知れない」

 そして珈琲を一口含んだ。物思いに耽るような、ゆっくりとした動きで。

 説明はそれで終わったらしい。僕は口許に手を当てた。彼女の話を順番に咀嚼し、最初の疑問に立ち返る。そこには思いのほかあっさりとした感覚があった。

「つまり栄養価が高いから、悲しい記憶を喰べてるってこと? それが理由?」

 彼女は「ええ」と珈琲を置いた。左手首をそっと掴む。

「そんな記憶であれば喰べられてしまったひとも悪い気はしないでしょう? 自分を苦しませるつらい思い出が消え去ってくれるのだから。私にも相応の覚悟が必要だけど、人助けになると思えば、我慢できるし、それに」

「それに?」

「多いの。そんな人間が。夜の街には」

 物憂げな瞳が窓を見つめた。意識が自然とそちらへ向かう。

 窓の外。夜の景色。硝子に映る彼女の姿に、いくつもの貌が重なって消えた。

「誰もが、何かを忘れたがっている」

 あるいは、私も。

 そう呟く彼女もまた、虚像のように儚かった。

 その手をしっかり掴んでおかなければ。

 そんな漠然とした不安に焦りを覚えた。

 勿論そんなの無理だから、僕はただ思い付きを口にする。

「でもっ、危ないよ。夜にひとりで出歩くなんて」

 彼女は、目をしばたたかせた。ややあってくすりと口許を隠す。

「別に? 案外誰も気にしないものよ。特に、私のことなんて」

 気にしない? そんなはずはない。

 姫神さんは綺麗なひとだ。神坂さんだって同じ意見だった。目立たないはずがない。目立たないはずなんてないのに……ああ、そうだ。これは何度も感じたことだ。

(記憶を食べる力が、何か関係している……?)

 姫神さんは、紙ナプキンで丁寧に指を拭った。

「それに、どうとでもできるもの」

「どうとでも?」

「そう、どうとでも」

 胸元に手を当てる。

「仮に誰かが私をしようとすれば相手は私の身体に触れる必要があるでしょう? 後ろから抱き付くにしても、無理矢理押し倒すにしても」

 その仮定は否応なしに想像力を掻き立ててきた。露わになった鎖骨と、滑らかな素肌。それらを一瞬観察してしまってから、途轍もない罪悪感に襲われた。

 彼女は、こちらの羞恥を見透かした目つきをする。

「相手が私の身体のどこに触れたとしても、私は数秒でそいつの全人格を喰らい尽すことができる」

 ぞくりとした。喉元に刃物を当てられたみたいに。

 寒気が浸透するのをじっくり待ってから、彼女は唇の端を持ち上げた。

「風間くんが紳士で本当に良かったわ。私は貴方を廃人になんかしたくないもの」

 乾いた笑いを溢すしかなかった。

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