第3話 罪と罰
(1)花とニコチン
頁の半ばまで眺めて文章がまるで頭に入ってきていないことに気が付いた。手元にあるのはロシアの文豪が書いた小説だ。地歴の授業で先生が紹介していたので試しに図書室で借りてみた。知らないひとがいないほど有名な作家だそうだが僕は知らなかった。神坂さんは中学の読書感想文で読んだらしい。でも内容は覚えていないそうだ。文量が多く、翻訳が迂遠で、物語が欝々しく、登場人物の名前がややこしい。これでは記憶に残らないのも仕方がないかも知れない。今読んでいるところなんか、特に。
昼休みの教室を眺めてみる。
扉近くの席で三人の女子が姦しく喋っている。神坂さんと南久保さん、そしてバスケット部の大滝麻耶さん。いつも一緒の三人だ。机に腰かけた大滝さんが何かおどけた仕草をすると、神坂さんがからからと笑った。南久保さんもくすくすと口許を隠す。何の憂いもなさそうに。無邪気に。
頁を閉じて、外の景色に目を向けた。
六月が終わる。キャスターは梅雨明けを宣言していたけれど、こちらではまだしとしとと雨が降り続いている。窓の水滴を見上げながら、僕は二か月前のことを思い出していた。
「あの娘が記憶を喰べる理由?」
ベンチに腰かけた秀玄さんは煙草を片手に空を仰いだ。ビルの隙間の、狭い空だった。
ガーデンクリニックの裏手には、ガーデンと呼ぶにはあまりに慎ましやかな庭がある。四方をコンクリで囲まれ、申し訳程度に草花が植えられている。建設当時は街のオアシスのようなものを期待していたのかも知れない。けれど今は喫煙所のマークが貼ってあった。利用しているのは秀玄さんだけらしい。
指先の煙草に火は灯っていない。吸わないのだろうかと疑問符を浮かべてから遠慮してくれているのだと気が付いた。彼は「私も詳しくは知らないが」と座るように促してきた。
「あの娘が言うには文字通り食事のようなものらしい」
どこか近くに樹があるのか。座面に桜の花びらが張り付いていた。摘まんで掌に乗せてから隣に座った。
「摂取しないと餓えて死んでしまうってことですか?」
「正確にはね、自我が保てなくなるそうだよ」
秀玄さんは、煙草を指先で器用に回転させる。
「根拠になる話が三つ」
左手の指を一本立てた。
「ひとつ。彼女の一族には昔からそういう話が伝わっている。ふたつ。実際に発狂者の記録が残されている。……能力の発現の仕方が個人によって異なるという話をしたことは覚えているかな?」
「白亜さんは強い部類に入る、という話ですよね」
秀玄さんは「そう」と眼鏡に指を添えた。
「接触によって他者の記憶を読み取り、奪い取ることができる。これは五段階で言えば四程度の強さに位置するらしい。だが中にはそれよりも遥かに弱い個体もいたそうなんだよ。他人の感情を察知できるぐらいで、あとは普通の人間と変わらないというタイプだ。そういう個体は概ね幼少期、遅くとも若年期には自我が保てなくなることで早世している。これは情報を摂取する機能が上手く働かなかったため栄養不足に陥ってしまったのではないかと考えられる。興味深いのは全く能力が発現しなかった個体も存在していて、そうした者は一転して長命を保ったという記録が残っていることだな。一族の歴史からすれば、むしろそちらのほうがマジョリティだ」
「三つめは?」
「あの娘自身の感覚。何となく分かるそうだよ。情報を長期間摂取していない状態が続くとマズいってことがね。平たく言えばお腹が空くらしい」
屋上で彼女が言っていたことを思い出していた。
私には協力するだけの理由がある。
「でも……それって制限とかあるんですか?」
「制限?」
「そうです。たとえば、その」
「苦しみの記憶でなければならない、とか?」
彼は素っ気なく返してきた。淡白な反応だったけれど二枚のレンズは欝々とした庭に注がれ動かない。それで分かった。秀玄さんも僕と同じことを気にかけていると。
掌の桜に、視線を落とした。
「……彼女が食事をしているところは二度見ました。そのどちらも苦しそうで……あれが自我を保つために必要な行為だとは、とても思えないんです」
彼女は記憶を喰べたとき、それに付随する感情も一緒に読み込んでしまうという。小西くんと佐々木先輩。二人は共に親しいひとを亡くしている。そんな感情を取り込むなんて自分の胸にナイフを突き立てるようなものだ。好き好んで喰べるものじゃない。
秀玄さんは、火のない煙草の先端を見つめた。
「……さあ、私にはそのあたりのことはよく分からんね。健康の害悪だと承知しながらニコチンをやめられん馬鹿だっている。彼女のそれも似たような嗜好かも知れん。以前、理由を訊いたこともあるが、あの娘の口からは教えて貰えなかった」
彼は、尾を引くような息を吐く。見えない煙が、目の前を覆ったような気がした。丁度そのとき風が吹き、桜がひらりと宙に舞った。逃げるように飛んだ花びらは、やがて草葉の陰に消えた。
彼は、白衣のポケットから煙草の箱を取り出し、弄んでいた一本を仕舞った。
「風間くん」
立ち上がり、続ける。
「先日、君にこう言ったね? あの娘と仲良くしてやって欲しいと。私はあの娘の保護者であって管理者ではない。君と親しくなることが彼女の意志ならば、それは尊重しよう。だから今から言うことは私個人の想いであると同時に、君の身を慮っての忠告だということをどうか理解して欲しい。風間くん」
次の一言は冷徹だった。
「これ以上、あの娘には近付くな」
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