(9)強く儚い者たち
「友達を亡くしたのよ」
姫神さんは、夕焼けに望みながらそう言った。
堤防の上に人影はない。さっきまで小学生ぐらいの女の子が二人いたが、いつの間にか笑い声も聞こえなくなってしまった。今は僕たちの影ばかりが伸びている。とても静かで、何となくここにいてはいけないような後ろめたさを覚えた。
今回、姫神さんは気を失ったりはしなかった。しばらくは先輩を抱きしめたまま泣いていたけれど、やがて自分の脚で立ち上がると、南久保さんの記憶を奪い取った。佐々木先輩と南久保さん。二人を階段の踊り場に寝かせ、僕たちは学校を後にした。放っておいてもすぐに目を覚ますという。
僕は、彼女の背中に問いかけた。
「友達って……? 南久保さんも、相沢先輩も、そんなことは一言も」
「学校が世界の全てではないでしょう? クラスでも、部活でもない人間関係を彼女は持っていた」
思案し、すぐに気が付いた。
「剣道道場」
彼女は首肯した。
「道場を通じて知り合った、別の高校の友人がいたの。正確にはかつて同じ道場に通っていた友達……かしら。名前は芦原瑠璃さん。恐らく佐々木さんの今の生活圏内では誰も知らない存在よ。おとうさんとおかあさんだって覚えてないと思う」
芦原さんは中学三年まで先輩と同じ道場に通っていたらしい。同い齢だった二人はすぐに仲良くなった。活発な佐々木先輩と違い、どうして剣道を習い始めたのか不思議なくらい大人しい女の子だったそうだ。本人は意識していなかっただろうけれど、佐々木先輩の振る舞いにはかなりの部分で芦原さんの影響が見て取れるという。
でも、そんな優しいところが勝負事に向いていなかったのかも知れない。中学の頃から既に全国トップレベルだった佐々木先輩と違って芦原さんは部活のレギュラーすら取れずにいた。思うように力は伸びず、彼女は高校進学と同時に剣道を諦めた。
「けれど、私との……」
姫神さんは言いかけて、頭を振った。
「ううん、佐々木さんとの交流はずっと続いていたの。親友だったと言っても良い。だから土曜の夜……いつまで経っても返信のないスマホに瑠璃ちゃんのお母さんから電話がかかってきたときは……本当に、どうして……って、そう思ったの」
自殺だった。ニュースで繰り返し報じられていたあの事件だ。市内のマンションで女子高生が転落死したという、あの。
亡くなった女子高生。それが芦原瑠璃さんだった。
「……どうして、私に相談してくれなかったの……? いじめられてるって言ってくれたら絶対に助けたのに。一人にしなかったのに。……でも、すぐに気が付いたの。友達だから。瑠璃ちゃんは私に迷惑をかけたくなかったんだって。玉竜旗を前に張り切ってる私の邪魔をしたくなかったんだって。でも……それで、瑠璃ちゃんが、誰にも助けを求められなかったのだとしたら、私が、瑠璃ちゃんを……」
「姫神さんっ!」
肩を掴んだ。振り返った彼女の目には涙が浮かんでいた。
まるで知らない誰かを前にしたみたいに、困惑の貌で僕を見つめていた。
(記憶が、混濁してる……)
ややあって姫神さんは額に手を添えた。疲労を滲ませながら「ごめんなさい」と呟いた。
「……風間くん。藤宮さんの指摘は的確だったのよ。佐々木さんは完璧だった。周囲の期待に応え、自分にも厳しい修練を課してきた。裏打ちされた強さと、絶対的な自信。そこから生まれる精神的な余裕で他者を慈しみ、それを義務とすら感じていた。けれど……」
「先輩は、親友のために何もしてあげられなかった。そのとき彼女は、自分の強さに意義を見出せなくなった……」
追い求めてきた理想。積み重ねてきた努力。それで手に入れたはずの強さが大切なひとを救えない。それどころか追い詰める原因になっていたかも知れない。
「芦原さんの真意は分からないわ。けれど……その責任感ゆえかしらね。佐々木さんは自分に原因があると考えた。自分の強さが親友を殺したのだと。本来守るべきはずだった、大切なひとを死に追いやってしまったのだと」
姫神さんは、重たく言葉を吐き出した。
「強さとは彼女自身だった」
屋上で見たものを思い出していた。意識を失った佐々木先輩。その掌は分厚い皮膚で覆われていた。彼女の全てが、そこに凝縮されている気さえした。
鉄橋を電車が駆け抜けて行く。その力強さが、傍らに咲く桜の花を散らした。車輪が線路を踏み潰していく音が、鼓膜に刻まれて離れなかった。
僕は、慎重に尋ねた。
「佐々木先輩の記憶を、喰べたの?」
「喰べたわ」
「芦原さんに関する記憶を?」
姫神さんは「そうよ」と頷いた。
「すべて喰べた。幸い日常における彼女と佐々木さんの接点は少ない。違和感を覚えることはあってもすぐに順応していくでしょう。今頃はもう元の佐々木さんに戻っているはずよ」
「それって今まで芦原さんと一緒に過ごした時間も全部忘れてしまっているってことなんだよね? 想い出も、全部」
「前に道場にそんな娘がいた、という程度の記憶は残っているでしょう。けれど彼女に対する想いはもうない。佐々木さんは苦しみから解放されたの」
「それって……」
いくらなんでも。
二の句を告げずにいると、彼女はじっと瞳を覗き込んできた。
「ねえ、風間くん」
じわりとシャツが汗ばむ。
「これは貴方が望んだことではないの?」
責めるような調子ではなかった。怒りを孕んでいるわけでもない。ただ事実を確認するように訊いてくる。僕は「でも」と口ごもった。彼女はことりと首を傾けた。
「でも……何? こんなにも深刻な問題を抱えているとは思わなかった? 嫌な気持ちを少しばかり晴らしてあげれば、それで済むと思っていたの?」
答えられなかった。答える勇気がなかった。
肯定しても、否定しても、情けないところを曝すしかなかったから。
姫神さんは、諭すように首を振った。
「喪失の悲しみを癒せるのは忘却だけ。苦しみなんて忘れたほうが良いに決まってる。どんなに大切な想い出だろうと、それが自身を引き裂く牙になるのなら、忘れてしまったほうが幸せなのよ」
そして彼女は空を仰いだ。結局雨が降ることのなかった、空を。
雲は引き裂かれ、目を背けたくなるほど赤く染まっていた。雲だけじゃない。夕陽は全てを平等に照らしている。川面も。草花も。鉄橋も。情けなく口を歪める、僕の姿も。
けれど何故だろう。何よりも姫神さんを見ることが辛かった。苦しかった。それは自分の浅はかさを指摘されたからではなく、彼女の、その妖精みたく白い髪が――
(燃えている)
静かに、静かに、燃えているように見えたから。
姫神さんは、自らの両手を見下ろしたあと、散っていく桜に目を向けた。
「それが……たったひとつの冴えたやりかたよ」
彼女の、白い髪が燃えていた。
鮮血と炎の色に塗れて、静かに燃えていたのだ。
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