(6)写真
「ただいまー」
マンションの扉を重たく開いた。中から「おかえり」と返ってくる。荷物を置いて靴を脱ぎ、リビングの引き戸に手をかける。悠さんがフライパンに火を入れたところだった。
「おかえり、想太。お友達が倒れたって。大丈夫だったの?」
「うん、ちょっと気分が悪くなっただけだったみたい。ごめんなさい。遅くなってしまって」
「それは別に構わないけど。野菜炒めしかできないけど良い?」
「うん、ありがとう。博貴さんは?」
「今日も遅くなるって」
「最近続くね。大丈夫かな」
「この時期はこんなものよ。そのうち落ち着いてくるわ」
悠さんはキッチンボードから茶碗と小皿と湯のみを取り出す。僕は洗面所でさっと手を濡らして台所へ戻った。しゃもじを掴んで炊飯器を開けると、隣の悠さんが苦笑した。
「別に良いのに。テレビでも見てて」
「そういうわけにはいかないよ。悠さんこそ座ってて。今日は片付けも僕がやるから」
「そういうわけにはいかないわよ」
二人で準備をして、二人で晩御飯を食べた。片付けは僕がと言い張ったが最後は悠さんに根負けした。代わりにお風呂を沸かして、後が痞えないようにさっと済ませた。湯船から出て、身体を拭き、ルームウェアに着替えた頃、博貴さんが帰ってきた。悠さんは夕飯の準備をしようとしたけれど、博貴さんは「いいから」と笑い、先にお風呂に入っておくように促した。片付けは今度こそ僕が引き受けた。洗った食器を乾燥機に並べ、濡れ手をタオルで拭ったとき時計の針は十時を示そうとしていた。
自室に戻りベッドに倒れ込んだ。
天井に向けて、ふうと息を放つ。
疲れていた。正直なところ。
姫神さんが倒れたこと。彼女の家に招かれたこと。不思議な能力。その境遇。いずれを取っても神経を擦り減らすには充分だった。このまま瞼を閉じて眠ってしまいたい。誘惑は強力だった。けれど無抵抗も良しとできなかった。理由は簡単。週末に小テストがある。復習はしておかなければならない。
起き上がり、机の椅子を億劫に引いた。教科書を取り出しノートを開く。シャーペンの頭をカチカチと押したところで芯が切れていることに気が付いた。筆箱の中のケースも空。でも買い置きがある。引き出しを引いたところで自然と目に留まるものがあった。
手が、無意識にそれに伸びた。
写真立てに収められた、一枚の写真。
写っているのは二人の幼い子供だった。青空と緑の映える畦道。その脇の用水路で足首まで水に浸かっている。真ん中に陣取っているのは白いワンピースの女の子で、あどけない笑顔でピースを向けていた。一方、隣の男の子はカメラそっちのけで水の中を覗き込んでいる。二人で虫や小魚でも捕まえていたのだろう。女の子は片手に網を持ち、男の子は紐の付いた飼育ケースを肩から提げていた。
女の子の白いワンピースを見つめ、ぼんやりと思った。
(姫神さんに、似ている気がする)
肩で切り揃えられた真っ黒な髪に、快活な笑顔。受ける印象は程遠い。なのに写真のなかの女の子の姿が、どうしてか彼女と重なった。
気が付けば、僕の網膜は写真を映してはいなかった。
白い髪の少女。記憶を喰べるという、不思議な力を持った少女。
触れ難いが、恐ろしくはない。彼女の存在は僕に不思議な温もりを与えてくれる。忘れてしまった過去を、思い出させてくれるような。
写真を仕舞い、ノートを見つめた。
描くというのは空白を埋める作業だ。絵具で白を埋めていけばいつかは何かが完成する。
今までの僕にはそれができなかった。けれど、もし一つでも何かを描き切ることができたなら、僕は大切なものを思い出すことができるだろうか。
「……そう言えば、傘忘れてきちゃったな」
疲労と眠気と満足感を胸に、僕は机に頬を預けた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます