(2)桜のころ
「じゃあね、風間くん」
「うん、神坂さんも。また明日」
軽く手を振って校門の前で別れを告げた。小走りで去っていく背を見送ってから踵を返す。雲は綺麗な薄紫色に染まっていた。アプリは夜に天気が崩れると予報していたけれど、そんな気配は感じられなかった。不要になった傘を手に、春の香りを胸一杯に吸い込んだ。今の季節はどこを眺めても桜一色だ。街を少し歩くだけでお花見気分を味わえる。満開の並木通りをゆったりと楽しみ、神社から咲き零れる花弁に見惚れた。史跡の傍にある公園。鉄道沿いの街路樹。次第に進路は駅から遠ざかっていく。
心も、現実から遠のいてゆく。
瞳に吸い込まれた春の色は、心のパレットで分解され、新たな色彩として再構成されていく。僕は、生まれた絵具を筆で掬い取り、透明なキャンバスにそっと置いた。
いかに完成に近付けるか。いかに空白を埋め合わせるか。
空想はいつもより鮮やかだった。
調子よく散策しているうちに、やがて拓けた場所に辿り着いた。河川だ。空の色を映した水面は濃厚な群青だった。鉄橋も、対岸に佇むビルの群れも、緩慢に夜に呑まれようとしている。川の風が頬を撫でた。ざあーっと波のような音が響く。堤防で揺れる桜の枝葉が一斉に音を奏で、白い吹雪を舞い散らせた。贅沢な光景だった。ここには僕以外の誰もいない。今この瞬間だけは、春は僕のものだった。
「……」
胸に手を当てた。そこに在るものを塞ぎたかった。
風に舞う花を見送りながら天端のうえを静かに歩いた。そうして鉄橋の側に寄ったとき視界の隅に何かを捉えた。
ひとがいる。
堤防の下、橋桁と高水敷の間に人影が在った。川のほうを向いているので後ろ姿しか確認できない。けれど一目瞭然だ。桜のように白い髪。
(姫神さん……?)
姫神白亜。放課後、桜の木の下に佇んでいた彼女が、今度は橋の下に立っている。
一体何を?
訝しみ、目を細めた。彼女の傍らにはもう一つ影が在った。制服を着た男子生徒だ。その生徒は、姫神さんの前で両膝を着き、彼女を崇めるように手を伸ばしていた。一方の姫神さんも背を屈め、彼の両頬に手を添えている。そして二人の顔が遠目に見ても異様に近い。
(あ……)
見てはいけないものを見てしまった。
漏れる声を、辛うじて右手で押し留めた。次第に速まる鼓動が、早く立ち去ったほうが良いと促してくる。実際そうしたほうが良かったのだろう。けれど狼狽える脚が眼下の光景をまざまざと見せつけてきた。
傍らにあるスポーツバッグ。あれはサッカー部のものだ。
『誰か好きな人がいるんじゃない?』
頭のどこかで、無邪気な声が蘇る。
じんわりと汗が滲んだ。
(……ショックを受けているのか、僕は)
ショックを受けている。
姫神白亜が、他の男子と逢引していることに。
知人ですらない、彼女の交友に。なぜ?
姫神白亜が本物の妖精だと信じていたのだろうか? よく知りもしない彼女のことを、汚れのない、清らかな存在か何かだと?
羞恥に耳が熱くなった。
一刻も早くこの場を離れよう。
逃げるように翻した脚。その動きを違和感が止めた。
(……あれ?)
肩越しに、瞬く。
僕は、二人が唇を重ねているのだと思っていた。
でも違った。サッカー部の男子はあんぐりと口を開け、姫神さんは、彼の額に自分の額を触れさせていた。母親が子供の熱を測るみたいに。あるいは……信奉者を前にした司祭みたいに。そして――流石にこれは錯覚だろうが――彼女の身体が仄かに光を放っているように見えた。
まるで、月の光だった。
(何、なんだ一体……?)
奇妙な光景に只々戸惑う。そして次の事態は一層の混乱を招くものだった。
「!?」
男子が、糸が切れたみたいに倒れた。
彼は、支えられなくなった頭をぐらりと揺らすと姫神さんのお腹に顔を埋めた。そのままずるずると前のめりになる。差し出された手が、額を打ち付けないよう腕を掴んだ。捻り、仰向けに転がす。細い肩は吃逆を起こしたみたく不規則に上下していた。そして、
「……誰?」
姫神白亜は、涙の伝う貌を、僕へと向けた。
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