想喰姫

大淀たわら

第1話 桜のころ

(1)春の妖精

 描く、というのは空白を埋める作業だ。

 そう表現したのは誰だろう。高名な画家の言葉だった気もするし、美術雑誌で見かけたフレーズだった気もする。もしかしたらただの僕の思い付きで、誰の言葉でもないかも知れない。いずれにしても頭に浮かんだその言葉は、僕の現状を静かに皮肉っていた。

 キャンバスに広がる白い空白。その大部分を、僕はまだ埋めることができていない。

 視線が画布から窓へ逃げた。校庭に咲く桜の色はキャンバスのそれとは比較にならない。白く、穏やかに、麗らかな春を彩っている。足すところもなければ、引くところもない、満ち足りた光景。その完全を再現する試みは、歪な素描で止まっている。

 息を吐き、白い画面に目を戻した。

 描くというのは空白を埋める作業だ。絵具で白を埋めていけばいつかは作品が完成する。でもなぜだろう。どれだけ色を重ねても、どれだけ空白を塗り潰しても、どこかに満たされない何かがある。そんな空虚にずっと支配されている。そんな虚しさと、ずっと向き合っている。ずっと。

「風間くん、またたそがれてる」

 背後で、くすりと呆れる声。

 はっとして振り返った。

「神坂さん」

 いつの間に美術室に入ってきたのだろう。神坂恋花こうさかれんかが屈託なく笑っていた。僕の両肩にぽんと手を置きキャンバスを覗き込んでくる。彼女の重みと、掌の熱が制服越しに伝わってきた。

「これ、桜の木?」

 神坂さんは耳元で尋ねてくる。

 見れば分かる……と返したくなる場面だが、見ても分からないことは自分でも分かる。

 キャンバスに落とし込まれた桜の素描は不完全であることを差し引いても、。桜の木を解体し、歪曲させ、変換し、そのうえで再構築を試みている。そういうふうに、僕にしか理解できないように描いている。敢えて写実から外しているわけではないが、心の模様を形にしていくと自然とそんな描き方になっていく。これが一番しっくりくるのだ。

 神坂さんは、肩から手を離すと「すごいね」と感心した。

「君には、世界がこういうふうに見えているんだね」

 はいとも、いいえとも答えられなかった。代わりに、他人の瞳には世界がどんなふうに映っているのだろうと詮のない疑問が浮かんだ。少なくとも木の根が渦を巻いたりはしていないだろうけれど。

 木炭を机に置き、身体ごと振り返った。

「勧誘、どうだった?」

「ぜーんぜん。部長もやる気ないみたいだし。この分だと部活紹介も厳しいかな」

 彼女は苦笑し「こっちは誰か来た?」と肩を傾けた。首を振ると「だよね」とお手上げの仕草をする。

「ま、ほとんど運動部に取られちゃうだろうね。今年は剣道部が激強だし」

「佐々木先輩だっけ? 去年、全国総体で個人優勝したっていう」

「そそ、今年は九州のほうの何とかって大会に出て団体戦で優勝するんだって。ま、あたしたちとは違う世界のお方ですよ」

 神坂さんは、前髪の髪留めに触れた。プリムラの意匠をあしらったもので中学の頃から彼女のお気に入りだった。本物を愛でるように花弁を撫で、訊いてくる。

「風間くんも、やっぱり欲しい? 新入部員」

「神坂さんは、欲しくないの?」

「あたしは、正直、このままでも良いかなって」

 吹き込む風が、彼女の黒髪を柔らかく梳いた。風の肌触りも、すっかり春のそれに変わっている。

 確かに、今年新入生が入らなくても困るわけじゃない。僕と神坂さんと部長の三人で部の要件は満たしている。芸術は飽くまで個人活動だ。部費や、多角的な視点が増えるという意味では人が多いに越したことはないが、人手はなくても作品は創れる。現状三人で回せているのだから、このままでも構わないという意見も一理ないわけじゃない。

「でも、部長も九月で引退だよ。そうしたら僕たち二人だけになってしまう」

「いいじゃん。二人で。来年また増やしたら」

「真面目な神坂さんらしくもない言い草だね」

 彼女は「どーせあたしは不真面目ですよー」と、おどけてスカートを翻した。窓の桟に手をかけ景色を望む。そのまま数秒、遠くで鳥の鳴き声が聞こえた。

 唐突な沈黙。

 不思議に思い、首を伸ばした。

「見て、風間くん」

 神坂さんが、眼下へ控えめに指を向けた。

 美術室は特別教室棟の三階にある。正面にはグラウンドがあり、その区画に沿うようにして桜の木が花を咲かせている。うち一本の幹の袂、本校舎へ続く歩道の半ばで、その生徒は佇んでいた。

 桜の精、と呼べば信じる人もいるかも知れない。そんな空想が頭を過ぎる。それほどまでに彼女の存在は浮世から離れていた。

 憂いに彩られた瞳。雪のような真っ白な肌。陽光を透き通す白い髪。

 幻想的だった。まるで彼女の佇む空間だけが額縁に飾られてしまったかのような。

「ホント綺麗だよね、姫神さん」

「……うん」

 姫神白亜ひめかみはくあ

 桜の化身などではなく歴とした人間……霧代むしろ西高等学校に通う女子生徒だ。学年は僕らと同じ二年生。クラスは別で話したことは一度もない。けれど顔だけは知っている。当然だ。あんな目を惹く容姿をしているのだから。知らないほうがおかしい。おかしいのだが……奇妙なのは、そんな彼女が校内ではさして目立つ存在ではないという事実だ。姫神白亜は物静かで、影の薄い生徒だった。少なくとも男子の間では噂にも上らない。好きな人はいるのか。恋人はいるのか。声をかける奴はいないのか。連絡先は? 俗な興味は尽きないはずなのに不思議と誰も何も言わない。誰も彼女を語らない。

 あんな綺麗なひとなのに。目立たないはずなんてないのに。

「……?」

 違和感を覚えた。知っている誰かの名前が、どうしても出てこないような、もどかしさ。

 そうだ。彼女は目立たない生徒だ。でも、どうして目立っていないのだろう?

 

「風間くんはどう思う?」

「え?」

 もやもやから引っ張り出された。見上げると神坂さんがお菓子を待ち侘びるみたいな顔をしていた。僕が何も言わないでいると、ムッと眉を寄せる。

「『え?』じゃなくて。風間くんはどう思うの?」

「なにが」

「だから、姫神さん何してるのかなって。もうっ、聞いてなかったの?」

 僕は「ごめん」と取り繕った。再び意識を外へ戻す。彼女の視線は、変わらずグラウンドへ注がれていた。その先には練習をするサッカー部。

「サッカーの練習を、眺めてるね」

「それは分かるよ。だから、どうしてサッカー部を見てるのかなって」

「好きなんじゃない? サッカーが」

「その割には全然楽しそうじゃないんだよね」

 確かにそうだ。グラウンドを見つめる彼女の瞳には熱っぽさが欠片も見えない。もしかしたら心の中では楽しくて仕方がないのかも知れないが表面上は無表情だった。尤も熱烈にサッカーを観戦する姫神白亜というものが想像できないのも確かだ。

 ううんと唸ると、神坂さんは「もしかしたらさ」と声を弾ませた。

「誰か好きな人がいるんじゃない? サッカー部に」

「ああ、なるほど」

 そういう話がしたいのか。

 苦笑する僕を余所に、神坂さんは部員の何人かを指で差し始めた。

「一番人気は桐野先輩だけど、高内くんもストイックで推してる娘が多いんだよねー。あの青春をサッカーに捧げてますって顔! 姫神さんのタイプがどっちかってとこなんだけど。……あ、意外と藤本くんとかもアリかも」

「でも、やっぱりあんまり楽しそうには見えないよ?」

「それはアレだよ、風間くん。好きな男の子を見てると? こう胸がぎゅーっって締め付けられるみたいな?」

 神坂さんは胸の前でぎゅーっと拳を握る。

 それからも彼女は、三年の誰それはマニアックな魅力があるとか、誰かと誰かが付き合っているとか姦しくはしゃいでいた。神坂さんはいつもこんな感じで、あまり部活に真面目ではない。僕がひっそりと作業に戻ったあとも、風間くんはどういうタイプが好みなのかと話を振ってきたが適当な言葉ではぐらかしておいた。その質問に答えられるほど異性を意識したことがない。ただ……。

 再び、外の景色を見た。

 姫神白亜。彼女のことを眺めていると、こう感じる。

 僕が描いているものは、なんて不完全で惨めなのだろう。

 自分に足りないものを突きつけられているかのような、そんな気恥ずかしさを覚える。

 そして同時に想像するのだ。あの白い少女がキャンバスに収められた姿を。

 それを前にしたとき、僕は一体どんな貌をするのだろう、と。

「どしたの? 風間くん」

 いつの間にか口元が綻んでいた。「なんでもないよ」と返し、木炭を握り締めた。埋められなかった空白に腕を伸ばし、斜めに振る。

 桜の下で佇んでいた彼女は、いつの間にかいなくなっていた。

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