幕間03

「そんな…」

後藤は己に愍然たるものを覚えた。

当たり前の事が、何も思い出せない。黒いベールがかけられたかのように。


「この何十年の勤務は、全て#欺瞞__まやかし__#だったってのか…!」


「うわっ!」

嘆く後藤をよそに、大久保が小さく叫んだ。


「見てください、このノートを…」

大久保が差し出したのは、紛れも無く後藤が普段書き付けている勤務日誌であった。

背中を這いずり回る様な悪寒がした。


中に書かれていたのは…

既に字という概念は、そこには無かった。然し、絵とも呼べない奇妙な線の塊とでも言おうか。

乱雑に書き散らかされ、線が群れを成していた。


「何だこれは…!ただの落書きじゃないか!」

線の集合体は、最後のページだけを残して、ノートを食い潰していた。


「嘘だろ…!こんなイかれた落書きを、俺は毎日真剣に書き留めていたっていうのか…?」

大久保が小さく首肯いた。


「俺は一体、今まで何をしてたんだ…?」

後藤の目尻から、涙が噴き出した。

それは、悲しさなどではない。全身を磔にする様な、恐怖だ。


「…どうしたらいいんだ?大久保…」

取り乱す後藤が、蒼白な顔で考え事をしているらしい大久保に問うた。


「ここが異界であるのは確実、ですから…何としてでも、ここを抜け出さない事には…」


「抜け出す…って…お前もあれを見ただろ、聞いただろ。あんな風に、やられちまうんだよ!!」


「落ち着いて下さい、後藤さん。我々はまだ、ここを異常な空間であると認識できたんですから、まだ可能性があると思います」


「本当、なのか…?」


「兎も角、ここから逃げ出す方法を考えましょう」


「それは、物理的な意味でか?」


「いや、例えこの交番から外へ出たとしても、何の意味も成さないと思います。車や人まで外にいなかったと考えると…僕の解釈はこうです。この交番が異界なのでは無く、交番自体が、異界に運ばれてきた。だから、ここでの記憶のみが、正常に機能しているんだと思います」


「じゃあ外に出ても…」

最早交番の前に立ち尽くす怪しい男どころの騒ぎでは無い。

怪しい男…?

後藤の頭が凍り付いた。


「まさか、交番の前に#いる__・__#んじゃ、ないのか…?」

二人がいる奥の部屋からは、交番の正面が見えない。

これまでの話を考えれば、必ず#あれ__・__#が現れる…!


「そ、そんな莫迦な…」

大久保が言葉を詰まらせた。


「どうする?大久保…」


「念の為、確認しましょう。ただ、ひょっとすると、もう中にも、入り込んでいるかもしれません」


「何だと!?」


「ですから、金庫のあれを構えておくべきです」

大久保が示すのは、金庫に仕舞われた拳銃の事だ。

事件が起こらずに、全く使う機会も無く、金庫に仕舞われた拳銃。


「そんなモノが、通用するのか…?」


「分かりません。でも、何もしないよりは…」

後藤は頷き、拳銃を手にドアの前にしゃがみ込んだ。


「お前はそこに隠れてろ」

腐っても上司である自分が、クヨクヨしてはいけない、後藤はそう自戒した。

大きく息を吐いた。このドアの先にはいるかもしれない…

心臓が鞭打つように血を送り出す。


「開けるぞ」

右手をトリガーにかけ、ドアのノブに左手を掛ける。


ドアを少しづつ押していく。生温い風が忍び込んで来る。

何かがいる気配はまだ無い。


ドアが完全に開きかけ、外が顕になろうとしたその時、


バタン!という音。


「うわああああ!」

気が付けば後藤は、ドアを押し開けて、拳銃を何発も発砲していた。


後藤は、目を瞑っていた。

静寂が、広がっていた。


「何も、いないみたい、だな…」


「ええ。窓の外にも、いません」

後藤はまた、大きく息を吐いた。


「こ、これって…」


「え…?」

大久保が無言で、表の部屋の机に視線を送った。


「これは…」

後藤は、絶句してしまう。




机の上に置かれていたのは、分厚く、黄ばみ、古びた原稿用紙だったのだ。





以下の語りは、原稿用紙の内容をそのまま掲載したものである。


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