02

「聞きましたよ。今日、殆ど交番にいなかったそうじゃないですか。お陰でここに直接来た人達が怒って、僕に飛び火したんですから、勘弁して下さいよ」

思わず舌打ちが飛び出しそうになるが、グッと堪えて軽い弁解を述べておく。

私は心が折れてしまったのだ。あれと近くにいながら仕事をする事に。初日は辛うじて耐え忍ぶ事は出来たが、じっくりと見てしまってからは仕事がまるで手につかなかった。

窓やドアなど、直接的に見られてはいなかったとしても、部屋の奥の奥まで見られているような、そんな怖気に襲われた。普段は霊能の類などに恐怖は覚えた事は無い私だが、実体験する恐ろしさとはこういうものなのだろうか。


私は耐え兼ね、時間を大幅に早めてパトロールに向かった。勿論、努力はしたのだ。何度も時計を確認し、今か今かとその時になるのを待った。だが、昨日よりも数倍強い恐怖心が、心身を蝕んだ。

今にも扉を開けて中に侵入してくるかもしれない。そんな事を考えてしまうと、もう駄目だった。


然し、これ以上不審な行動を続ける訳にもいかない。さて、どうしたものか。



「あそこにいる方、どなたなんです?」

そのまた翌日のこと。落し物を捜しに来た老婆に尋ねられた。


「いやいや、昨日もお見かけしたもので」

そんな事、こちらが聞きたい。とは流石に言えないので、それとなく流しておく。


「あまり人相の良い方ではありませんね」

果たして人相であるとか、そういう問題なのか?


「挨拶をしても、うんともすんとも反応がなかったんですよ」

私は腰を抜かしそうになった。

何という恐ろしい事をするのだろうか。先入観がないだけなのか。


夜はいなくなるとはいえ、三日も用もなく交番前に微動だにせず立ち続けている男が普通と呼べるのか?

目的も素性も全く知れない、怪しい男。このままだと、何かに巻き込まれてしまうのではないか。

私には既に、職を辞する考えも浮かんでいた。元々この職に大した思い入れは無い。ノイローゼになるくらいなら、辞めた方がマシだ。現に、私は夜もあの男の姿を想像してしまうのだ。とはいえ、次の職が簡単に見つかるような年齢でもない。私は全身を奮い立たせた。


考え過ぎだ。杞憂だ。ただ単に交番の前に人がいるだけではないか。

そう思う事でやり過ごすしかない。

続けていればいつかは立ち去るだろう。


四日目からは、交番がある筋に入らなくても、男の気配を察知するようになった。今日は三日ぶりに晴れていた。私はその脅威にまだ気付いていなかった。


あの男がフードを被っていなかったのだ。

私は横目で見て、戦々恐々とした。フードがなければ、顔を見てしまうかもしれない。

私は目を瞑り、交番へ駆け込んだ。相変わらず同僚には不思議そうな顔をされたが、そんな場合では無い。この至って平気な同僚に朝晩を替わって欲しいものだ、とも思った。


勤務中は奥の部屋に閉じこもり、正面に背を向けた格好で職務をしていた。

途中、運悪く訪問者が来てしまった。ここの交番は警察官が応対する椅子から、外が見えてしまうのだ。困窮したものの、顔を上げずに応対し、乗り切った。大変失礼ではあるが。


間もなくパトロールの時間だ。心待ちにしていた時間ではあったのだが不味い事に気が付いてしまう。車を出す時に、見てしまうのではないか、あれを。車は丁度、男が見える向きに停めてしまっている。


これも、先程同様に下を向いてやり過ごすしか無いのか。尤も、車の運転を下を向きながら行うのは、相当な難易度であったのだが。然し、そうでもしないと、大変な目に遭ってしまうような気がしてならなかった。

意思というのは怖いもので、私は何とか件の方向を見てしまう事無く、交番前を左に曲がろうとした。

安堵しかけたその時、車の右手からいきなり爆裂音が鳴り響いた。


反射的に私は右を向いてしまった。

そう、あの男が佇む方向を。


私の目は完全に見てしまった。

激烈な、其れを。はっきりとは思い出したくもないが、顔中の肉が引き裂かれたような、形容し難いモノがめりめりと存在していた。これ以上は申し訳ないが、書きたく無い。


刺すような顫動が、私の背中を這いずり回った。全身の震えは、治まるところを知らなかった。


当然まともな運転が出来る筈も無く、私はあろうことか自損事故を起こしてしまった。

頭ごなしに説教を喰う羽目にはなったが、逆に都合が良かった。

これで辞職する理由ができたからだ。

経済的な保身に走っている場合では無い。これは本当の意味での保身だ。




そして、私の後任が来るだろうから、一応これを書き残しておく事にした。

申し訳ないが、対策などは一つとして分からない。

だが、関わるものではない。忠告しておく。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る