私と溝口君
吉野奈津希(えのき)
ピグマリオン効果
溝口君が溝口君でなくなっても私は「君」づけをやめたりしない。
私と同じくクラスで隣の席の溝口君がある日突然男子から女子になってしまった。
気持ちの問題ではなくて、ある日突然体が変わってしまった。
ありえないこと、なんて言うけれど、あり得てしまうと日常に変わってしまう。劇的な変化は人権とか他人の目とか、もっというと世間体とかそういうものに抑制されてちょっとした内輪の話題程度で終わる。
人一人の変化なんて、案外世界を変えたりしない。
自分性別が変わっても淡々とした性格の溝口君は「まぁでも、二次成長期みたいなものかもしれないし」なんて言って深刻に考えない。
実際のところ、深刻に捉えたのはそれまで溝口君のことを何も言わないでも教室にいると思っていた先生や得意な教科も知らないクラスメイトたちだ。
それまでは「おい溝口」「溝口君消しゴム貸して」なんて言っていた人たちがあっという間に「溝口さん」とか「溝口ちゃん」とか言い出して、妙に丁寧に扱うようになる。
「急な出来事でショックかもしれないからみんな無神経なことを言わないように」
なんて溝口君の両親が離婚したときに「溝口のこと明日からなんて呼べばいいんだ?」なんて授業中に聞いたデリカシーのなかったはずの担任が言う。
溝口君の気持ちは昨日と連続性を保ったままであるというのに、その連続性に無関心な人たちが私に「気を遣え」なんて指示してくる。
「いや別にいやじゃないよ」
そう溝口君が皆に言う。そのやり取りを繰り返すことほどデリカシーのないことはないじゃないか、と私の心がきしむ。
「私、何も変わらないし、変わる気もないの」
「いいね」
「いいでしょ」
そういって溝口君と教室の隅で笑う。
その笑顔と小さな笑い声に私は溝口君が今も溝口君のままであることを実感して温かいものが胸に広がるのを感じる。
休み時間の騒がしい教室の隅で、クラスでいてもいなくても変わらないような存在だった私と溝口君の小さな笑い声が重なる瞬間が私は好きだった。
溝口君の男子にしては少し高いけれど私とは違う声が一致する瞬間。ずっと世界の異物であるような気持ちが溶けていく。
全然違う溝口君と私が不協和音ではない音になって他の教室の喧騒が聞こえなくなる。
ずっとそうだったらよかったのに。
私は溝口君と変わらず過ごす。
学校に登校したら誰よりも最初に「おはよう」を言うし、「また明日」も必ず言う。
人から「忘れちゃったから貸して」と言われて教科書とか消しゴムとかノートを貸してばかりの溝口君に、何かを貸すのは私だし、お昼休みは二人でたわいもないことを話して過ごす。
でも私の溝口君の接し方は何も変わらないのに、溝口君は変わっていく。
元々中性的だから何も変わらないと思っていたのに色々な人が溝口君を「溝口さん」とか「溝口ちゃん」と呼んでいて、そうして扱っていく。
「何も変わらないよ」なんて溝口君は言っていたけれど、溝口君はどんどん私の溶け込めないグループの女子と話していく。女子になってもズボンだった溝口君の制服がスカートになる。リップを持ち歩いて、女性物のリンスの香りを纏うようになっていく。
いろいろな人が溝口君をちやほやして、私から溝口君を奪っていく。
――溝口、だいぶ話しやすくなったよな。
――溝口さんと遊んでたら面白くってさ。
そんな言葉が教室に飛びかっていて、あんなに私と世界をつないでいてくれた溝口君のことなのに私は何も楽しくない。
放課後の教室で私は不安になって溝口君ととにかく話す。前まではほんの少しの言葉だけで十分に繋がっていた気持ちが不安で揺らいで私は口数ばかり増えていく。
「溝口君、私たち変わらないよね」
「変わらないよ」
「ごめんね。なんか最近変なの。不安で頭がこんがらがる感じ。昨日から体調も悪いし、自分が自分でない感じだってする。そんぐらい落ち着かない」
「変わらない。私は変わらないよ」
少し前までの溝口君は「私」なんて一人称じゃなかったのに。
「なんでも聞くよ。結構愚痴とか言うだけでも気持ちが楽になったりするしさ」
溝口君は言う。
そういう溝口君の優しさはちっとも変わらない。
でも、溝口君のアプローチはそんなスマートではなかったし、そんな前より手慣れた優しさに私はクラスメイトの影を見てしまう。
溝口君のことをどうでもよいと思っていた人たちに影響されて溝口君は変わっていく。
誰もいない教室で変わらない優しさを向けてくれる溝口君の言葉が変わられない私に、刺さって滲む。
笑い声も重ならないで、学校の放課後の騒がしい声だけが強く響いていく。〈了〉
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