だから俺はここで終わらせたくないんだって

@machida_JX

第1話 だから俺はスタートラインに立ちたいんだって


「オファーレターも貰ってないのに先に辞めていいの?」


「……?!」


目の前に座っている面接官の一言に、俺は言葉を詰まらせながら、今日幾度となく感じた背筋が凍る感覚をまた味わっている。


今、俺が座っている場所は、ニューサークルビル77階の独立系ヘッジファンドの会議室だ。

そして目の前の面接官はこのヘッジファンドのCEO、ビラックマン氏。

今日の面接が何次面接かは思い出せないが、内定獲得まであと少しのところであることは間違いない。

面接開始から今までの雰囲気は間違いなく良好だった。良好だったのだが、先の一言で雰囲気が180度変わった。


(え?どういうことだ?ここまできてまさかお祈り??)


新卒で証券会社に入社して3年が過ぎた俺は、入社当初から憧れていたバイサイドへの転職がもうすぐ、あと少しで現実になるとばかり思っていた。


(いやいやいやいや、なんで?どうして?どうする?ここから俺に何ができる?)


俺は凍りついた背筋の感覚を無視して、可能な限り脳みそをフル回転させる。

なんとしてでも、この場を凌いがなければ。


しかし、対人コミュニケーション経験が圧倒的に不足した人生を送ってきた俺は、残念ながら言葉を詰まらせ、数秒の沈黙を作ってしまった。


ラジオでは5秒沈黙が流れたら放送事故というが、なるほど、5秒の沈黙で場の空気がこれほど凍てつくのならラジオでなくてもそれは事故だ。


「いいでしょう。オファーレター用意するから、来週サインしに来て。来週の…木曜日11時。大丈夫?」


(お?おお?おおお!)


「はい!もちろんです!来週木曜日11時。よろしくお願いします!!」


(っしゃあああ!!あぶねー!!やっと終わったあああ)


5秒の沈黙で凍りついた空気を感じていたのはどうやら俺だけだったようで、先方はただ何かを考えていたようだ。

あるいは向こうも場の空気を感じたのだろうが、欲しい言葉をいただくことができた今の俺にとってはそれはどうでも良い。


(これが春というものか)とイミフなことを思いながら俺は会議室から出て、エレベーターに乗った。


オフィスビルを出て、俺はすぐにスマホを取り出して、ハリオさんにLINEした。

[ハリオさん。面接終わりました。]

[おっ]

[今電話いいですか?]

[ちょっと待ってね]

[ありがとうございます!]


俺は電話で、今さっき起こった面接の内容を事細かに話した。

「・・・というわけで、来週の木曜日にオファーレターにサインすることになりました!」


「いいじゃん。おめでとう。お祝いしないとな。」


「ありがとうございます!どれもこれもハリオさんがアドバイスしてくれたおかげです!本当にありがとうございます!」


「じゃあまた会社でね。」


「はい!」


「そんじゃねー。お疲れー。」


「失礼します!」


電話を切り、俺は深く息を吸って、数秒止めてから吐き出した。


「ふーーーーー」

(これでやっと。やっと。スタート地点に立てる!)


ーーーーーーーー


「はい。じゃあここと、ここにサインして。」


俺の前には、サイン箇所のページが開かれたオファーレターが2部、置かれていた。


俺は、(慎重に、丁寧に)と念じながら、しかしそれを表情に出さずいかにも冷静にサインしようと試みたが、ボールペンを持つ手はしっかり震えていた


(どんだけチキンハートなんだよ!)


「じゃあこの1部はあなたがもっといてください。」


CEOから渡された2部あるオファーレターのうちの1部を、俺は両手で受け取った。


「改めて、これからよろしく。入社日はまだ先だけど今から仲間だから、入社までに必要な商品知識を学習しておいてね。」


「はい!もちろんです!」


「それと、あなたの上司になるのはイートンさんだから、あなたの方から入社までに何をしたらいいのかメールで聞いてくれる?」


「はい!もちろんです!」


俺は同じ言葉を2回発し、言われたことはすべて実行します、という気持ちを前面に出るように大きく相槌をうった。


自分の語彙力を恨んだが、ここは元気があれば何を言おうが特段問題ない。


「本当に期待しているから。よろしくね。」


CEOは笑みを浮かべながら席を立ち、ドアに向かった。


「これからお世話になります!よろしくお願いします!絶対に儲けます!」


90度のお辞儀と礼を言っているうちに、CEOは部屋を出て行った。


ビルを出て、俺はハリスさんにオファーレターにサインした旨のLINEを送り、人材エージェントに電話でサインしたことを伝えた。


初回の面接から約3ヶ月。期間が長かった分、オファーレターを貰えた嬉しさが予想以上に込み上がってきた。

俺はこれまでの面接で起こった出来事を振り返り、達成感に浸った。


(これでやっとスタート地点に立った。これからが本当の勝負だ!)


そう思うと、束の間の達成感が緊張感に変わり、嬉しさより焦りが生じ始めた。


(負けない。絶対に勝つ。絶対に、勝つ!)


そう決心し、俺は帰りの地下鉄に乗った。


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