若夫婦

あべせい

若夫婦


「旦那さん。あなた、お目が高いわ。同じ値段でも、こっちの柿のほうが断然おいしいンですよ」

 青果店「八百茂(やおしげ)」の若い女将が、男性客に釣り銭を渡しながら、やさしく言った。しかし、男性客は聞こえなかったのか、素知らぬふりで帰っていく。

 商店街の昼過ぎ。客足は絶えない。女将は、ちょっとガッカリしたように天を仰いで、すぐに気を取り直す。

 と、次の女性客が、野菜の入った店内用バスケットをレジ前に置いてから、

「ダメよ。いまの男の人に声をかけちゃ」

「エッ!?」

 女将は、マジマジと目の前の客を見た。

「あのひとの奥さんはひどいやきもち焼きだから。旦那は外で、見ず知らずの女のひとに、道を尋ねることも出来ない、って評判だよ」

 女将は感心したように、

「ヘエー、そうですか。いい男なのに、勿体ない……」

 と言いながら、去って行く男の背中をジーッと見送った。

「オイ、なにをぼんやりしているンだ」

 八百茂の主、谷尾茂(たにおしげる)が、段ボール箱を担いで奥から出てきた。主といっても、まだ29才。妻の咲恵(さきえ)は28才だから、商店街一の若夫婦だ。

「いま帰っていくあの旦那、あなた知っている?」

 咲恵は、夫を振り仰いで尋ねる。

「あァ。つい最近、越して来られた大学の先生で、英文学を教えておられるえらい方だ。女子学生にも人気があって……」

 茂は急に声を落とした。

「どうしたの?」

「いや、これはあまり大きな声では言えないが、その女子学生といろいろあって、トラブルも多いそうだ」

「へーエ、もてる男はそれなりに苦労してンだ。その点、あなたは苦労がなくていいわ」

「なにヌカす。おれだって、外に出れば、いろいろ忙しいンだ。ヨッちゃん、ミッちゃん、サッちゃん、と誘いがある」

 咲恵は聞いていない。

「教え子にちょっかいを出すから、奥さんがやきもちをやくのか。あんなにいい男なンだから、女子学生でなくても……」

 咲恵は、まだ遠くに見える男の背中を、いまは背伸びして見ている。

「わたしも、たまにはやきもちをやいてみたいな」

 茂が段ボール箱の中のサツマイモを店頭のプラ皿に盛りながら、

「何か言ったか?」

「ううん、うちのサツマイモはどうして見栄えがよくないのか、って。もう少しきれいだったら、って」

「イモのつらの話か。おれはてっきり、去年みたくサツマイモを焼いて焼きイモでひと儲けしよう、って言ったのかと思った」

「なに言ってンの。去年は焼きイモで大損したのよ。忘れたの。あなたが、つぼ焼きがいいっていうから、焼きイモが焼ける大きな壷を買ってきて、店の前に置いてサツマイモを焼いたじゃないッ。そうしたら、焼きイモを売る軽四輪がきて、拡声器でヤキイモ!ってやるもンだから、あなた腹を立ててケンカしたじゃない。『商売するなら、あっちへ行け。営業妨害だ!』って」

「相手が悪かった」

「元プロボクサーだっていうンだもの。あなた、一発アゴに食らって、病院に直行だった。おかげで1ヵ月仕事にならなくて。大量に仕入れたサツマイモがお釈迦になった」

「あれは、雨にあたったからだ。おまえがちゃんと覆いをしておかなかったからだ」

「もういいわ。とにかく、焼きイモはダメだから」

「じゃ、ことしは何をやるか?」

「いいよ。何もしなくて。地道にやっていればいいンだから」

「おまえはいつもそれを言うが、つまンないだろうが。野菜や果物を売っているだけじゃ。おれは八百屋をやりに生まれてきたわけじゃない。代々の家業を継ぐつもりはなかったが、ふた親が自動車事故で亡くなったから、仕方なくサラリーマンをやめたンだ」

「わたしはあなたがサラリーマンだったら、結婚はしなかった」

「八百屋がそんなにいいか」

「日銭が入るもの。病気したらいつだって休める。一国一城の主だもの、自由きままに商いができるじゃない」

「おまえはそんな気持ちでおれと一緒になったのか。おれの働く姿がカッコいいと言ったのは、ウソだったのか」

「結婚して5年もたてば、女は変わるのよ」

「こんにちは。おふたりはいつも仲がよくていいですね」

 交番の若い巡査・平野が通りかかった。

「お巡りさん、パトロールですか」

 茂が声を返す。

「最近、痴漢が出るのでパトロールを強化しろと言われていて。奥さんも気をつけてください。おきれいだから……」

 咲恵が平野を見て、目を細める。

「ありがとう。平野クンみたいなカッコいい痴漢だったら、わたし……」

「おい、亭主の前で何を言うンだ」

「冗談よ。ねェ、平野クン」

「そ、そうですよね。奥さん、からかわないでください。じゃ……」

 平野は顔を赤くして立ち去った。


 その日の夕刻。

 初冬のことで辺りはすっかり暗くなっている。八百茂の店先は明かりが灯り、咲恵がひとりで店仕舞いをしている。

「ごめんください」

「はい」

 咲恵が顔をあげると、昼間のいい男だ。

「お買い物でしたら、どうぞ。ここにないものは、言ってくだされば奥から出してきます」

「もうお店は閉じられるのですか?」

「いいンですよ。ご主人のような方に買っていただけるのでしたら、まだまだ営業いたします」

 男性は困った顔付きになり、

「買い物ではなくて、ちょっとお聞きしたくて……」

 咲恵は手を休めて、男性と向き合った。すると、急に気恥ずかしくなり、自然と頬が赤くなった。こんなことは何年ぶりだろうか。胸が熱く、息苦しい……。

「な、なんでしょうか」

 咲恵は、やっとそれだけ言った。すると男性は、

「お昼にこちらでいただいた柿ですが……」

「刀根早生(とねわせ)ですね」

「あの柿はどちらの柿でしょうか。家内が気にしていますので……」

 咲恵は、男性の口から「家内」という言葉が出てきたことから、冷静さを取り戻した。

「あの刀根早生は、和歌山です」

「和歌山ですか」

「はい。もう少しすれば、平核(ひらたね)が出てきます。柿はお好きですか?」

「はい。わたしより家内が大好物で。とくに、渋抜きした柿がおいしいと言って、秋になると毎日いただいています」

「そうですか……」

 咲恵はちょっと考えてから、

「お待ちください」

 奥に一旦消えると、紙袋を手にすぐに戻ってきた。

「これは愛媛県で『ふじ柿』と呼ばれています。これも渋抜きした柿です」

 紙袋から一つを取り出して示す。釣り鐘の形をした縦長の大きな柿だ。

「どうぞ。奥さまにお持ちください」

「エッ、それは……」

 男性は戸惑っている。

「これは味見するために自家用に市場で仕入れてきたもので、売り物ではありません」

「そうですか。家内はこんなにたくさんいただけませんから、枕元に置いてやります。柿の香りだけでも喜ぶでしょうから」

 咲恵は、

「奥さん、お加減がお悪いのですか?」

「先月から寝込んでいて……」

 男性は急に気付いて、

「失礼しました。ひとさまにお話することではなかった。では、遠慮なく頂戴します」

 男性は紙袋を受け取り行きかけたが、立ち止まって振り返ると、

「私、神矢師朗(かみやしろう)といいます。奥さまは?」

「咲恵。谷尾咲恵です。神矢さんは大学の先生とお聞きしましたが……」

「はい。ただ、月に一度、市のカルチャースクールでも教えています。もし、よろしければお来しください」

 2人の交流はこうして始まった。


 その月の最後の日曜日。咲恵は池袋のデパート7階に設けられたカルチャースクールに初めて出かけた。午前10時から1時間半、神矢はそこで「英国ミステリー」と題した講座を受け持っている。文学というよりアガサ・クリスティなど有名な推理作家の解説といったものが中心だ。

 教室は、中学校の教室ほどの広さで、20数人のさまざまな世代の男女が、メモをとりながら神矢の講義を聴いていた。

 咲恵は満足した。あれ以来、神矢は八百茂には姿を見せていない。久しぶりに顔を見た神矢は、穏やかな笑みを浮かべ、咲恵に気がついたようすだった。しかし、その日はそれだけ。咲恵は講義が終わっても教壇に行こうとしなかったし、神矢のほうからも声はかからなかった。

 店では夫の茂がひとりで忙しく働いている。そのことを思うと、咲恵は浮ついたことをする気持ちになれなかった。

 ところが。

 その頃、茂は神矢家のダイニングで、師朗の妻摩子(まこ)とテーブルを挟んで向き合っていた。体力の弱っている摩子に代わって、柿の皮をむいているのだ。茂が神矢家を訪れるのは、これが初めてではない。

 5日前。神矢師朗から八百茂に電話があった。八百茂の電話番号は、店の大看板に書き添えてある。

「家内が柿を食べたがっているので届けて欲しい」

 というものだった。八百茂では、昔から時間が許す限り商品の配達をする。配達は運転が出来る茂の役目だ。茂は受話器を置くと、電話があったことを咲恵に伝えてバイクにまたがった。茂が神矢家に着くと、師朗は急用が出来たらしく、出かけたあとだった。

 妻の摩子は茂が来ることを承知しており、すぐにドアを開けた。咲恵は、顔色はすぐれないものの、美しい顔立ちをしている。茂は、少年の頃のように心がときめくのを感じた。

 茂は紙袋に入れた柿を手渡し、そのまま玄関で辞するつもりだったが、摩子が呼びとめた。

「生憎主人はしばらく帰宅しません。わたくし柿をいただきたいのですが、手が自由になりません。皮をむいていただけないでしょうか?」

 こんなことを頼まれるのは初めてだ。茂は一瞬困惑したが、美しい摩子を拒絶する勇気はなかった。

 2回目の配達になるこの日、茂は、摩子とダイニングのテーブルで一緒に柿を食べながら、摩子の話を聞いた。摩子は重い心臓病を患っていた。歩行も困難でふだんは車椅子で室内を移動している。この日はいくらか体調がいいと言った。

 摩子の生まれは山形。庄内柿の産地だ。庄内柿は渋を抜いた種無し柿の一種であり、摩子は渋抜きの庄内柿を食べると、いつも故郷を思い出すと言う。

 病気のせいもあるのだろうが、摩子の肌は透き通るように白い。茂は、その肌を見ていて、邪まな考えがふと頭をよぎった。

 そのとき、玄関のチャイムが鳴った。

「どなたかしら?」

 摩子が首を傾げる。

「奥さん、私が出ます」

 茂が立ちあがる。

「すいません」

 茂は玄関に行き、

「どなたですか?」

 すると、

「駅前交番の平野です」

 茂はそれならと、深く考えずにドアを開けた。

「失礼します」

 平野が入ってきて、茂を見て驚く。

「八百茂さん、どうして、こちらに?」

 茂はゴルフ用のシャレたズボンに、セーターを着ている。店先にいるときの薄汚れた作業衣ではない。前回の配達のときは作業衣のまま来たが、今回は遊びに行くときのラフな格好だ。

 茂は、ようやく平野の不審の意味を理解した。

「し、仕事です。配達に来て……」

 と、まで言ったが、あとが続かない。

「そういえば、八百茂は開店しているのに、だれもいなかった」

 茂は店を出るとき、商品棚にシートを被せ、葦簾を店先に立ててきた。こんなことをしたのは初めてだ。

「摩子さんはおられますか?」

「摩子!?」

 茂は平野が摩子と呼んだことに違和感を覚える。しかし、平野は茂の違和感が理解できない。

「巡回連絡です。神矢さん宅の……」

 茂は長居していることに気がつき、ようやく恥じた。

「待ってください。奥さんにお話してきます」

 茂はダイニングに戻ると、平野巡査が来ていることを告げた。摩子は車椅子に乗ると言い、茂は介助して摩子を車椅子に乗せ、玄関まで連れて行った。

「奥さん、私はこれで。ご注文いただければ、またすぐ配達にうかがいます」

「八百茂さん、いつもありがとうございます」

 茂はドアを出るとき、平野に会釈して去った。


 茂が、摩子ひとりの神矢家に30分近くいた事実は、たちまち噂になって近隣に広がった。噂の発信源は平野ではない。八百茂の前掛けもつけずに神矢家を訪れ、30分もしてから帰っていく茂のようすが、近所の住民に目撃されていたのだ。

 八百茂に買い物に来て、お節介にもそのことを咲恵に告げ口する客もいた。

「ご主人に注意したほうがいいわよ。大学の先生の家に、配達するのはわかるけれど、美しい奥さまがひとりでおられるときに、長時間居続けていたンですって。ヘンに誤解されるだけ、損だものねェ、奥さん」

 咲恵は、

「うちのひとに限って、そんなこと。第一、もてないもの……」

 と言って平気を装ったが、内心は穏やかではない。咲恵自身が、摩子の夫の師朗に、淡い恋心を抱いているのだから。茂が摩子に好意を持っても不思議ではない。ただ、摩子は体の具合がよくないと聞いている。一線を越えることはないだろう。

 茂と咲恵が、遅い夕食をとっている。明日は咲恵が2度目のカルチャースクールに行く日だ。

「咲恵」

「なァに?」

 咲恵は、食卓テーブルの2メートルほど前にあるテレビを見ながら答えている。

「おれたちにはどうしてこどもができないンだろう?」

「エッ!?」

 咲恵はハッとして茂を見た。茂は咲恵の心の中を推し量ることもなく、

「おれたち、足りないのか?」

 と、つぶやいた。

 咲恵は思わず、赤面する。体に問題はない。咲恵は茂には伏せているが、前の男のこどもを流産したことがある。茂も咲恵には内緒だが、結婚する前、同じような経験があった。

「あなた、こどもが欲しくなったの?」

 咲恵はうかがうように夫を見た。2人は結婚するとき、稼業に精を出して、子作りは30になってから考えようと決めた。

「先月、神矢さんちに柿の配達に行ったとき、おまえがカルチャースクールに行っている間だ。神矢さんの奥さんに言われたンだ。『お子さんをおつくりになるのでしたら、早くおつくりなさい』って。神矢さんのところは、35才になるまでこどもはつくらないでおこうと決めていたが、35になる前に、奥さんが重い心臓病にかかり、子作りを断念せざるを得なくなったと言うンだ。だから、もしこどもが欲しいのなら、早くつくったほうがいいとアドバイスされた」

 咲恵は茂の話を聞いていて、もっともだと思った。そして、同時に、よからぬことを想像した。


 翌日。咲恵は前回通り、池袋の駅前デパートの7階のカルチャースクールで、神矢師朗の「英国ミステリー」講座を受けた。この日の講義は、ロバート・ルイス・スティーブンソンの「ジキル博士とハイド氏」だった。

 講座が終わったのが11時半。咲恵はカルチャースクールの廊下に面した関係者出入口に行った。師朗がそのドアから出てくると聞いていたからだ。

 ドアが開き、師朗が現れた。咲恵はそそくさと歩み寄った。

「先生……」

 と呼びかけた途端、師朗の背後から、はるかに若い女性の声で、

「師朗ちゃん、待ってェッ!」

 師朗は咲恵を見て妙な表情をしたが、すぐに後ろを振り返って、

「アッ、そうか。きょうはランチをご馳走する約束だったね。ごめんごめん」

 師朗の背後から現れたのは、22、3才と思われる美形の女性。師朗の講義中、何度か教室に現れ、出席者をチェックしていたカルチャースクールの職員だった。

「いやだわ。師朗ちゃんって、忘れっぽいンだから。さァ、行きましょう」

 彼女は後ろから師朗の右腕に自分の手を差しいれ、グイグイと引っ張るように師朗を先導していく。

 咲恵はただ呆然としている。師朗はそこに咲恵がいる理由をなんとなく理解しているようすだったが、若い女性の強引さに負けて、

「失礼します」

 とだけ言って、咲恵に会釈して去っていった。

 咲恵は、師朗と食事をして、お酒を飲んでもいいと思っていた。そして、自分の思いを打ち明け、師朗がどんな反応を示すか、確かめたかった。それだけだ。茂を裏切るつもりは毛頭ない。ないが、なりゆきで、その先はどうなるかは、わからない。咲恵の心の中は、なりゆきでいい、という思いが強かった。

 しかし、摩子が病気のことを考えれば、師朗の気持ちが外に向いても仕方ないことだと思った。若い女性に誘惑されれば、それを断わる理由はないのかも知れない。しかし、その相手が、咲恵ではいけないのだ。八百屋の女房では、近所の噂になる。大学の女子学生やカルチャースクールの職員なら、適当に誤魔化せると考えているのだろう。それでいいじゃないか。

 咲恵は、昨夜床の中で考えたアバンチュールが、泡と消えたことに少しも後悔はなかった。むしろ、茂を裏切らずにすんだことに安堵した。

「でも、このさきはわからない……」

 とつぶやくと、チロッと舌を出した。

                     (了)

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若夫婦 あべせい @abesei

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