夢のスローライフ

来津三太

夢のスローライフ

 若い男が座席の窓側の壁にもたれかかって、手のひらほどの大きさしかない小さな窓から憂鬱げな目を外に向けている。ミツハシを乗せた極超音速旅客機は、音の五倍の速度で成層圏を飛行し、出張帰りの彼を速やかに運んでいる。

 ミツハシは窓から地上のほうに目をやる。雲の地平がはるか下に白く平たく広がって、そのところどころの隙間からは地上の緑や海面の青が見える。その白い地平の果ては地球の輪郭にあわせてゆるやかな弧を描いていて、宇宙との間でぼんやりと青みがかかっている。視線を上のほうに持っていくとそこは澄んだ暗闇が広がって、極超音速で忙しげに移動するミツハシとは対照的に、星たちがおだやかな光を放っている。

 携帯端末に目をやると、到着地である母国の時間で午後を少しまわったくらいの時刻が表示されていた。

 

 昼間に星を見るような非日常的な風景も、ミツハシにとってはここ数年で日常的なものになった。彼は世界中の果物や野菜を扱う商社で働いていて、商談に日々いろいろな国に飛ぶ生活を送っている。

 彼は、今日はじめて食べたバンレイシのでこぼことした形と独特の食感を思い出した。バンレイシは本来、食べごろの果肉が非常にくずれやすく運搬が難しい果物だが、遺伝子編集により日持ちする品種ができたこと、また超音速空輸のコストが下がってきたことで、このたび彼の商社で扱うこととなったのだった。

 今の世の中、商談などわざわざ地球の裏側の現地まで赴かずとも、採れたてのサンプルを新鮮なまま超音速で空輸してもらい、電子空間で会議と契約を済ませることはできる。それでも彼の上司が言うには、現地の気候と土、農場主の人柄を直に感じることは大事らしい。ちなみにそういう説教には必ず、昔の海外出張は機内で十数時間も狭い座席に押し込まれてそれは大変でね、という昔話がおまけでつく。

 極超音速機の普及は、太平洋を二時間で横断することを可能とし、地球上のほとんどの都市に日帰りで出張ができるようになった。一日に何カ国かを転々と移動することもある。しかし、ミツハシがどれだけ速く移動できようとも、地球の自転の速度は変わらず一日は二十四時間であり、客先が起きている時間に到着するためには真夜中に出発することも珍しくなく、おかげでミツハシに定まった生活リズムはなくなっている。


 窓から射す朝日に目を覚まし、夕暮れの空に忙しかった一日の疲れを癒やす、そんな当たり前の時間の流れとは違うところにミツハシはいる。とはいっても今の世の中、だれにとっても自分の時間は自分だけのものでなく、多かれ少なかれ、何かにコントロールされ急かされながら生きているのだ、と彼は思う。

 そんなことを考えるようになったのはなぜだろうか。一年や一ヶ月、一日が過ぎるのがどんどん早くなっていっているように感じる。そんな考えを巡らせているうちに、少し気分が悪くなってきた。最近、こういった乗り物酔いのような浮遊感のあるめまいを覚えることがときどきあるのだった。

 ミツハシは外を眺めるのをやめて仮眠をとろうとした。しかし目を閉じた直後、機内アナウンスは着陸が近いことを告げて機体は減速を始める。超音速から亜音速への乱暴な減速はシートベルトを彼の体にきつく食い込ませる。眠れそうにないことを悟った彼は仕方なく目を開け、また窓の外でみるみる近づいてくる地上を眺めるほかなかった。


  #


 翌朝、ミツハシは八時ぴったりに起床する。今日の出張はない予定だ。

 寝る前に飲んだ睡眠調整剤のおかげで、起床時間になったら自然に覚醒し、疲れも時差ぼけもない完璧な質の睡眠が得られた。それなのに、めまいのような気持ち悪さはまだ少し残っていて、今日も気分はすぐれない。

 洗面所に向かうと顔を洗う。数年前から朝のひげ剃りの必要はなくなっている。体毛が伸びなくなる遺伝子治療を受けたおかげだ。リビングに戻ると、ちょうど自動クリーニング器から飛び出してきたスーツ一式に着替え、ネクタイをしめたと同時に、軽やかな音楽とともに調理器から完全栄養流動食が提供されて、それをさっと飲み干す。

 玄関から出るとマンションの屋上に向かう。屋上では、ちょうど到着したバスが空からゆるゆると降りてくるところだった。ミツハシはそれに乗り込むと、九人乗りの車内を見渡して、空いていた窓際の席につく。バスは左右それぞれに三つづつつけたローターを回転させると、ふわりと浮き上がって乗客を勝手に運んでいく。窓の外では、車やバスやタクシーが、空中に浮かぶ見えない道路を忙しげに飛び交っている。

 職場に着くとデスクにつき端末を立ち上げる。届いた無数のメールのほとんどを電子秘書に返信を任せて次々にメールをさばいていく。報告書も要点だけ電子秘書に伝えてやると、あとは勝手に体裁の整った資料ができた。

 こういった仕組みのおかげで、めんどうな事務作業はずっと楽になったが、だからといって仕事そのものが楽になったわけではなく、今もまた午後からの海外出張を命じるメールが飛んできた。ほぼ同時に電子秘書が飛行機のチケットと空港までのタクシーを抑え、一五分後に職場を出る必要があることを、優しくも拒否させない口調でおすすめしてくれた。ミツハシは急いで準備をすませると、足早に出張へと向かった。

 ミツハシが出張から戻って帰宅したときにはもう夜になっていた。到着時間に合わせて準備されていた風呂にはいり、風呂上がりと同時に出来上がった完全栄養食を口から流し込みながら、端末で本を読む。家庭用の電子秘書は、小説の要点を抽出し、内容を圧縮してまとめてくれるので、すぐに一冊読み終えることができる。ベッドで横になり睡眠調整剤を飲むと、すぐさま深い眠りに叩き落とされた。

 すべてがスムーズで、速やかだ。


 次の休日、恋人と高山にある別荘地にデートに出かけることにした。


「たまには電車で出かけてみてはどうだろう。そうだ、手動車をレンタルしてもいいかもしれない」


 ミツハシは、携帯端末の画面に手動車、手でハンドルを握り足でアクセルを踏んで運転する昔は自動車と呼ばれていたもの、の画像を出して提案してみた。


「タクシーで飛んで行けば三十分のところじゃない。わざわざ遅い乗り物で半日も時間をかけて行く理由がどこにあるの?」


と、恋人は心底理解できないという顔をしてたずねた。

 確かに、モビリティの発達でどんな辺鄙な地にも手軽に行楽に行けるこの時代、何もわざわざ不便をする必要などない。それでも、と思いミツハシは口を開いたが、恋人を説得できるような理由も浮かばず、その代わりに、開いたままの口を携帯端末に近づけてタクシーを呼んだ。

 タクシーはミツハシと恋人を速やかに別荘地まで運び、彼らは三千メートル級の山々の雄大な景色をお手軽に手に入れた。しかし恋人は景色を眺めるのも早々に飽きたので、またタクシーで速やかに街に戻り彼女の家に向かうことにした。

 

 恋人の家に入ると早々に、彼女は携帯端末を取り出して、その画面をミツハシに向けた。


「はい、婚姻届け」


 ミツハシは、突然のことに画面を見つめたまま何も言えないでいる。彼女は彼の返答を待つつもりはないようで、流暢に言葉を続ける。


「私たち付き合ってもう一か月もたったのよ。まわりの友だちはみんな一、二週間で決めてるし。画面をタッチしてくれたら、指紋認証で手続きが完了だから。そしてこっちは」


 恋人は端末に別の画面を出す。ミツハシはその画面の上のほうに書いてある文字を読み上げた。


「胎児遺伝子デザイン仕様書」

「そう。知ってるだろうけど、子供を作る前に、この仕様書に沿って私達の卵子と精子の遺伝子調整をするから。ここが性別。女の子がいいよね。目の色は流行りの琥珀色で…」


 恋人は、画面にチェックマークをテンポよく付けていく。緑色のチェックマークがひとつ、またひとつと増え、そのたびにミツハシの子供の、髪の色が、好きな食べものが、性格が、得意な楽器が、異性の好みが、性癖が、未来が、設定されていく。スムーズに、速やかに。

 ミツハシは、子を持つこと、ましてやその姿なんて、これまで想像したこともなかった。それなのにいつの間にか彼の脳内では、目鼻立ちの整った、かわいらしくも聡明そうな女の子が、具体的な姿形をもって走りまわっていた。彼女は笑いながらミツハシを追い回しはじめ、彼は理由もよくわからないまま、恋人の色でもなければましてや彼の色でもないその琥珀色の瞳から、必死で逃げているのだった。

 そんな妄想から解放されてふと我に返ったミツハシは、自分の家にいた。恋人に何か適当なことを言って彼女の家から帰ってきたことをぼんやりと覚えている。いまだ早く打ちつづけている心臓の鼓動と、額から滝のように流れる汗が、彼が全力で走ってきたことを教えている。それともこの動悸と汗は、今、心に広がっている漠然とした不安感によるものか。めまいで頭がくらくらする。


  #


 ミツハシはその日珍しく国内の出張に出かけていた。このところ頭がよくまわらず調子がよくないので、近場の出張は助かる。あの日から恋人への連絡はできていないし、あちらからの連絡もない。

 取引先であるりんご工場につき、そこで改良された新しいりんごを手にとった。手のひらくらいの大きさの赤い。すべての辺の長さがきっちりそろっている。いつからか、箱に隙間なく詰めることのできるこの立方体のりんごが一般的になって、自然種の球形のりんごはめっきり見なくなった。

 工場長はミツハシの横に立って、遺伝子編集への技術投資など、いつものように得意げに宣伝している。ミツハシはそれをぼんやりと聞き流しながら、ガラス張りの向こうの部屋を眺めていた。

 その部屋はこちらと反対側の壁が見えないほど広く、中では曲がりくねったベルトコンベアが、いくつものトンネルを通り抜けて延々と続いていて、ベルトの上ではりんごの木が一定の間隔で並んでいる。木は、遺伝子編集により自然の種類よりずいぶんと背が低く、わずかな葉と四角い果実をつけて、液体の張られた容器の中で根を広げている。成長過程に応じて、適当な栄養の液体と適当な周波数の光を与えることで成長を加速させているらしい。りんごの木たちは成長させられながら、止まることのないベルトコンベアに運ばれていく。健やかに速やかにスムーズに。

 そんな様子が、どこか気味の悪い白昼夢のようで、ミツハシはますます気分が悪くなってきた。早々に商談をまとめると、工場長は赤い立方体を隙間なく箱に詰め、その箱を載せたトラックはローターを力強く回転させ飛び立っていった。

 

 ミツハシは会社に戻った。めまいがひどい。自分の席について窓の外を見ると、太陽はほぼ真上に来ていて、ビル街の窓たちが空の青色を反射している。

 課長の席に目をやると、ついさっき契約してきたりんごの箱はすでに届いていて、課長が箱を開けて中身を確認している。目の前の端末では、画面の左隅にメール受信の通知が表示され、一拍おいて、画面の右隅に自動で返信された旨の通知が表示される。隣の席の同僚が声をかける。子供が三か国語が話せるようになったとうれしそうだ。出産祝いをあげたのは、ほんの数ヶ月前ではなかったっけ。デスクの隅に置いてある観葉植物は、やりすぎの成長促進剤と光が足りないせいで茎がひょろりと徒長して、鉢からはみ出した茎の腕を四方八方に伸ばしている。


 めまいはますますひどくなって、目の前の光景は早回しの映像のように流れ出す。


 課長は一つ目のりんごをいつの間にか食べ終えていて、二つめの赤い四角をかじっている。


 端末画面は、左で受信、右で返信。受信、返信、受信、返信。


 同僚の子供は、簡単なプログラミングができるようになったらしい。


 観葉植物は茎を少しずつミツハシに向けて伸ばして、その茎の腕で彼をからめとろうとしている。


 今このときも飛行機は音より速く飛び、車はビルの外で残像だけを残して飛び交い、四角いりんごは片時も止まることなくベルトコンベアを流れ、円滑な未来をデザインされた子供が産み出され続ける。


 窓の外では日はすでに落ちかけていて、ビル街は夕焼けで真っ赤に染まっていた。

 

 ミツハシは気づくとまた自分の家の前に立っていた。背後を彼が乗ってきたらしいタクシーが飛び去っていく。家に入るとそのまま寝室へ向かい、電子秘書が食事や睡眠推進剤や精神安定剤の摂取を執拗に勧めるのを無視してベッドに倒れ込み、眠りに落ちた。


  #


 まぶたの裏に光を感じる。ゆっくり目を開けると、カーテンの隙間から朝のやわらかな陽光が射し込んでいる。ベッドに寝転がったままでいると、家のどこからかパンの焼ける香りがした。起き上がって香りの元をたどってゆくと、台所で恋人が朝食を準備していた。


「おはよう、パパ」


 背後から聞き慣れない声がした。振り返ると、愛らしい笑顔をした少女がミツハシを見上げている。

 四歳になる娘と妻とともに朝食のテーブルを囲み、時間をかけて丁寧にいれたコーヒーを少しづつ飲みながら、娘の幼稚園でのできごとの話に花を咲かせる。おだやかな時間。朝食をすませると、じゃれてくる娘をあしらいながら出社の準備を済ませ、会社に向かった。

 会社に着くと、窓際にある課長席につく。いつ課長になったんだっけ。ロケット旅客機を手配して海外出張に向かう。その日のうちに五カ国を転々と巡り、帰国して会社に戻ると、デスクには「部長」と書かれた札が立っている。隣のデスクでは、よだれかけをつけた同僚の子供が、どこかの国の言葉で早口でまくしたてている。持っていたかばんをあけて中を覗くと、四角いりんごがきっちりと詰まっていた。

 退社して家に着き、玄関の扉を開ける。


「おかえり、お父さん」


 小学生になった娘が、リビングから駆け寄ってくる。

 夕食の席では、娘が、先日のピアノのコンクールでもらった賞のことを何度も誇らしげに話している。ピアノコンクール、そんなものあったっけ。妻が話を変える。


「あの子、新しい恋人ができたんだって」


 もう恋人が?だってまだ


「大学生だものね」


 いつの間に大学生に、と聞こうと隣の席を見たが、娘の姿はもうそこはない。すると、ただいま、という声が玄関のほうから聞こえてきた。慌てて玄関に行くと、小さな男の子を抱えた娘が立っていた。

 混乱した頭を両手でおさえて、よろめきながらリビングに戻ると、妻の後ろ姿を見つけてすがりつく。白髪でいっぱいの妻は振り返ると、にこやかに口を開く。今日はあなたのお祝いね。テーブルには豪華な食事がならんでいる。娘と孫は、還暦おめでとう、と笑顔でプレゼントを差し出す。もう少し待ってくれ。助けを求めてあたりを見回すが、振り返ったところにあった妻の笑顔は、写真立ての中で固まっている。

 自分とその人生が、ベルトコンベアの上を極超音速で運ばれていく。両手で耳をふさぎ、目を固く閉じる。するとふと周りが静かになり、おそるおそる目を開ける。ミツハシはいつの間にかせまい箱の中にあおむけに寝ていて、目の前にある小さな正方形の窓から外を見ると、真っ黒の服を着た人々がこちらを覗いていた。


  #


 夏の日、未だにめずらしく田畑の残る田舎で、男がひとり手と顔を土で汚しながら、野菜を手作業で丁寧に収穫していた。暑さに汗は前髪から滴り落ち、汚れたシャツは汗でぐっしょりと濡れている。男は立ち上がって、慣れない腰の痛みに少し顔をしかめながらも、どこか満足げな表情で空を仰ぐ。夏も終わりかけの紺碧色の空には、大きく成長した積乱雲が遠くに浮かんでいる。夏の強い日差しは、雲の表面に白くまぶしい部分と灰色の影の部分との強いコントラストを作り、雲の輪郭を際立たせている。地上から見る雲は成層圏から見る雲とちがう色をしている。


 ミツハシがこの田舎に住み始めてから半年になる。彼は商社を辞めたのち、急かされ追われる生活を避けて、住み慣れた都会から離れたこの地まで引っ越してきた。

 ここで小さな一軒家を借りた。家の隣には畑が接している。都会的な匂いのしない生活は生まれて初めてではあるが、今のところ大きな不自由はない生活を送っている。人と会わずとも、食べ物や生活用品はトラックで空輸してもらえば問題ない。野菜は、以前の仕事のつてで生育の早い種類を手に入れて作付けし、自分の食べる分の他は、自然土で育てた野菜と宣伝文句をつけてこれも以前のつての販路で売って暮らしている。最近は、大きくはないが日々食べていけるくらいの収入は入るようになってきた。

 畑仕事を切り上げて、下手で簡単ながらも自分で作った夕食をとったのち、家の縁側に腰掛けて外を眺める。ひぐらしの鳴き声があたりに響いて、空にたそがれの幕がゆるやかに降りてくる。畑の野菜たちは、湿気をはらんだぬるい夕方の風に揺れている。ミツハシは、自分が求めていたものがこういったものであることを認識し、またそれを手に入れつつあることに喜びを感じていた。誰にもコントロールされない、誰にも急かされない、自分だけの時間。


 彼は、おだやかに流れる日々と時間を楽しみながら、そんな田舎の生活を続けた。もちろん作物の世話はひまではなく毎日やることがたくさんあるのだが、それでも自分の生きるためのものを、自分の時間で作っていることが大切なのだった。

 彼はそれからも、理想の生活に向けて試行錯誤を続けた。鶏の飼育や魚釣りもはじめたことで、これまで街から取り寄せた栄養剤でまかなっていた、野菜でとれない栄養も得ることができるようになった。栄養は十分な量がとれているわけではなかったが、それよりも街への依存が小さくなることがうれしかった。


  #


 ミツハシが田舎に住み始めてから一年がたった。

 畑の作物の種類は増え、その世話で忙しさは増していた。それ自体は苦ではなく、この先にあるはずの理想に近づいている実感はあった。その一方、何かまだ足りないというもどかしさも常に消えることがなく、小さな焦燥感が胸の中に生まれていた。

 いつからか、遺伝子編集により速やかに育つ野菜に苛立ちを感じるようになり、やがてすべての野菜は完全遺伝子無調整のものになった。それらは育ちが遅いので収穫量が減り、それとともに収入が減った。鶏や魚もいつでも食べられるわけでもないので、体重も減った。街とのつながりが薄れるとともに、健康さは損なわれていった。

 それでも、ミツハシにとっては問題ではなかった。自分の時間に何かが干渉することを許さず、時間そのものを自分のものにすることを目指すようになっていたが、彼自身はそれに気づいていない。そして覚えのあるめまいがまた、彼をときどき襲うようになっていたのだった。

 

 そんなある日、めっきり使わなくなった端末が起動して、思い出したようにミツハシを呼んだ。以前の恋人からだった。ひとり田舎暮らしをする彼を案じて、などということはなく、単に彼女が家の片付けをした際に出てきた彼の私物について、その処理をどうすればよいかという事務的なものだった。別れた日のことは話題にもならず、きっとそんなことを気にしている暇はないのだろう、と思った。

 端末の画面の向こう側の彼女の腕には、美しい女の子が抱えられていた。もちろんミツハシの子ではなく、彼と別れたあとにもうけた子とのことだった。知らない子のはずなのに、その容姿と瞳の既視感に彼はぞくりとした。

 街に置いてきた私物なんて興味はないので、処分してよい旨を伝えたらそれで用件は終わって、後はそれぞれの現在について儀礼的に知らせあった。会話が済んで通話を切ろうというとき、彼女がひとことだけ付け加えた。


「そういえば、あなただいぶ歳をとったように見えるね。あなたの時間だけ過ぎるのが早いみたい」


 彼女は冗談めかしてそう言ったが、ミツハシには意味がよく理解できなかった。通話が切れ、画面が暗転した。すると、つい先ほどまで、以前と微塵も変わらない若さをたたえた女を映していた画面は、今は反射したその黒い表面にひとりの男の姿を映していた。

 眼窩はおちくぼみ、肌は張りがなく不健康そうな土色をたたえ、髪には艶がなくところどころに白いものが混じっている。ミツハシは、それが実際の年齢には明らかに不相応に老いた、自身の姿と認識した。

 その瞬間、彼はめまいの浮遊感の中に投げ出され、視界はゆがみ、上下の感覚は失われ、地面はまわった。足がもつれて床に倒れ込んだらしい。顔を上げたら、畑があるはずのその視線の先は、野菜の緑や赤や黄色の極彩色が、水面に落とした油のように混ざりあい渦巻いていた。彼はよろめきながらそこから離れると、布団にもぐり固く目を閉じた。


 もっとゆっくり暮らさねばならない。雑草が日々健やかに伸びる様子が自分を急かすようでわずらわしいので、成長抑制剤を畑に撒いた。じきに作物も育たなくなり、みな枯れた。鶏は、柵をあけて放っているうちにどこかに行ってしまった。毎日、何一つ変化のない、畑と庭が残った。食事は栄養食を定期的に空輸させ、あわせて老化抑制剤を摂取した。

 日がのぼり、星が巡る。それを見るのが嫌で、常にカーテンを締め切った薄暗い部屋のなかで過ごした。それでも何かに急かされている気がした。髪や爪が伸びるのが早すぎて我慢ならない。時計の秒針が、コチコチと時を刻む音がおそろしくてたまらない。家中の時計を壊した。叩き割られた時計のガラスは床に散らばって、そこに自身の姿が映った。前より、さらに大きく老け込んでいた。


  #


「それでは、始めますね」 


 声がして、ミツハシはまぶたを開いた。目の前には小さな正方形の窓があって、その向こうから白衣を着た医師が彼の顔をのぞきこんでいる。

 ミツハシは、体からいくつか透明な管を生やしてあおむけになっていた。そこは箱の中で、彼はしみひとつない真っ白な壁に囲まれている。人ひとりが入るだけの空間しかなく身動きはほとんどとれないが、これからの生活にはこれでちょうどよい。

 ミツハシの入っている箱は、明るい照明に照らされた清潔そうな部屋の中にある。部屋の壁の一面には、正方形の扉がたくさん並んでいて、それぞれの扉の中には小部屋があり、箱がひとつづつ収められている。今はそのひとつの扉が空いていて、そこから延びるレールの上に彼の箱が乗っていた。


「最後の確認ですが、本当にこれでよいですか?」


 医師の声は、箱の内側のどこかにあるスピーカーから聞こえてくる。医師は窓の向こうから端末の画面をミツハシに向け、そこには彼がサインした契約書が表示されている。人工冬眠の契約書。

 人工冬眠。冬眠する機能は哺乳類に生来備わっていて、それを司る脳の一部を遺伝子編集により活性化させることで、人体の代謝を著しく低下させ、肉体の活動をほぼ停止させる。体温は下がり、脈拍は少なくなり、老化の速度は遅くなる。

 ミツハシは、現在できうる限り老化速度が最も遅くなる契約にした。通常の十分の一の老化速度。百年たっても肉体は十年分しか歳をとらない。冬眠費用を賄うために、冬眠中の彼の肉体を、研究に供したり、不要な部分を適宜売却したりする契約になっている。なお、眠っている間は明晰夢のような状態で夢をみる、といわれている。


「はい、構いません。のんびり生きるのが夢なので」


 それを聞いた医師はうなずくと、箱の外についているスイッチを押していく。透明な管のひとつから、何色ともつかない幻想的な色をした液体が、ゆっくりとミツハシに向かってきて、彼の腕から体の中へ入ってくる。彼は、静かな満足と喜びの中で、その様子をながめた。そのうちに、少しずつ意識はぼんやりしていって、視界にもやがかかり、上下の感覚が失われ、浮遊感に包まれた。いつものめまいのようだけど、今度は心地がよい。

 医師は横目でミツハシを観察しながら、手元の端末でニュースを見ている。スローライフを求める人が急増中、というもの。最近、こういった冬眠の相談が急に増えはじめたんですよね、とつぶやくが、それはもうミツハシの耳には届いていない。

 処置が滞りなく済んだことを見届けた医師は箱の前に立ち、それを押した。箱はレールの上をゆっくりと滑り、壁に空いた小部屋に入っていく。その途中、箱の窓から、求めていたものを手に入れて心から満ち足りた表情で眠る男の顔が見えた。


「それでは、長い長い、よい夢を」


 ミツハシを納めた箱は冷たい壁の中にしまわれ、扉がぱたりと閉じた。



 −終−

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