足跡を残しに

「おめでとう。これで我々は太陽系最速となった」


【太陽系地球近傍 火星往還船】


急速に重力が弱まっていった。

船を押し出すエンジンのパワーが低下しているからだった。予定通りの行程である。何ら異常はない。今後は、慣性に従って航行していくのだった。

「……お疲れ様。とりあえず第一関門は突破だね」

リスカムはぐったりと。無重力環境下で脱力したため、自分の座席から浮かんだのである。シートベルトがあるから実際には飛び出さないにしても。

小ぢんまりとしたブリッジだった。

そこは航海に乗り出した火星往還船の中枢である。リスカムを含めて六名。共通の(リスカムのは尻尾と頭部形状に合わせたヘルメットからなる知性強化動物用だが)スリムな宇宙服を身にまとった乗員が詰めているそこは、最新テクノロジーの集積体にしては驚くほどすっきりした構造である。制御は高度に機械化され、タッチパネルで主な操作は事足りた。

もっとも、乗員がやるべきことは当分、あまりない。地球からの離脱・加速フェーズを無事に終えたからである。後はしばらく慣性航行になる。

宇宙船は太陽系で最も優れた乗り物だが、基本的には投げたボールと同じである。太陽の重力に引っ張られながら放物線を描いて、目的地まで飛んでいくだけだ。止まれないし目的地の変更もできないのである。今回の場合は火星間近で反転、減速し、火星の重力に捕まるまではメインエンジンの出番はない。

もし最初の加速の段階で事故が発生していたら大変なことになっていた。明後日の方向に飛んでいくということだから、救助を待たねばならないところだ。火星往還船は二隻あり、万一に備えて片方が待機してはいたが。

「まだ先は長いのに、今から疲れてたら大変だぞ」

「はぁい」

船長の言に苦笑するリスカム。宇宙は広い。秒速三百キロメートルでも太陽系を出るには膨大な時間がかかる。隣の惑星に移動するのも、昔ほどではないにしろ命がけだ。

「まあアポロ計画の時よりは恵まれてるよね。私達」「違いない」「ベンチ並みのスペースに宇宙服を着たまま三日間よりは確かにな…」

人類が初めて月に足跡を残した事例を引き合いに出す一同。火星有人探査は、おおよそ八十年ぶりの他天体へ足を運ぶ事業である。前回はすぐそこの月だった。その次にたどり着くまで、それほどの時間がかかったのだ。いや、まだたどり着いてはいないが。

「遺伝子戦争のおかげで宇宙開発予算も滅茶苦茶増えたおかげだな。この言い方はあれだが」

「一か所に住んでたら一発で全滅しちゃうからね……」

宇宙開発が加速した根本的な原因は遺伝子戦争である。神々以外の異種知的生命体を探すのも理由のひとつだし、将来的には他星系への人類の播種と、それによる絶滅の危険の低減も目的とされていた。そして、宇宙戦闘能力の獲得。

神々は、宇宙からの致命的な攻撃を実行するだけのテクノロジーを持っている。先の戦争でそれが行われなかったのは、彼らの目的にそぐわなかったからだ。

いや。人類も徐々にだが強力で致命的な攻撃能力を獲得しつつある。宇宙を渡るには巨大なエネルギーが必要だ。将来、太陽系を核融合動力の船が行きかうようになったとき。些細な事故で何万と言う死者が出るかもしれないのだ。高速を得た宇宙船の激突は、それほどの威力がある。

リスカムが今回の計画に参加できたのも、軍事的な理由は非常に大きい。知性強化動物は、兵器なのだから。

「さて。じゃあ、重力区画を動かすぞ」

歓声が上がった。細長い船体の中央部。有人ブロックの外側にある、リング状構造物の機能がこれから活性化するのだ。居住区画が。喜ばずにいられようか。

パネルがタッチされ、一拍。がこん、と振動が伝わり、そしてモニター上でも居住区画が動き出したことが表示された。

「さ。当直以外はしっかり休んでおいてくれ。これから何か月もかかる航海と、火星での一年間の調査研究が待ってるんだからな」

船長の言葉に皆が頷き、そして動き出した居住区画に散っていった。




―――西暦二〇四三年。人類が初めて他天体の土を踏んでから七十四年、火星有人探査が実行された年の出来事。

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