取り戻す代償
「――――?」
【イタリア共和国カンパニア州 ナポリ市内レストラン】
「問題はリスクだ」
魚介スープを冷ましながら、ゴールドマンは呟いた。
街角のレストランで昼食をとっているときの事である。
真正面に座っているモニカは怪訝な顔。
「リスク?」
「ああ。目途は立った。ペレの言語機能を、脳の機能を損なわずに回復することは可能だろう。彼女の言語野を元通りに復元する必要はなくなった。彼女の脳全体の配列をほんの少しだけ変えて、機能を肩代わりしてやればいい。この二十年あまりの研究の成果だよ。知性強化動物と、神格の脳の相互作用のね。人間の脳の構造を踏襲した第一世代。ドラゴーネをはじめとする第二世代。そして今、世界中で研究中の第三世代に用いられる仕組みを少しばかり応用してやればいい。
だが、簡単じゃあない」
深刻そうな顔で話すふたりの横では、気配を感じ取ったか。ペレも食事の手を止め、ゴールドマンへ視線を向けている。
「まず脳に手をつけることのリスク。だがこれはかなり小さくできる。技術も相当進歩してきたからな。とは言えはじめての事例だ。そしておそらく唯一の事例になるだろう。
これがまずひとつ」
「他にもあるの?」
ある。と頷いて、ゴールドマンは続けた。
「それより問題なのは、ペレにとって非常に辛いリハビリになる。ということだ。言語野を代用する領域が出来たからと言ってそれではいおしまい。というわけにはいかない。本来言語能力は幼少期に鍛え上げられるものだ。それを時間をかけて一から鍛え直していかないといけない。相当な根気と集中力をもってね。一度完全に失われた機能を元に戻すには、それだけの努力が必要になる。そしてそこまでやっても完全には戻らない。あるいは戻るとしても、何十年という努力が求められることだろう。幼少期の子供ほどの可塑性と学習能力はもう、ペレの脳にはないし、迂闊に持たせるわけにもいかない。人格に著しい悪影響を及ぼしかねないからだ」
「似たような話があったわね。あれは視覚障害だったかしら」
「マイク・メイの話がちょうど該当するな。彼は三歳の時に失明し、二〇〇〇年に四十六歳で手術を受け、部分視力を取り戻した。包帯が外された瞬間のことを彼はこう評している。「目に光がビュンビュン当たって、いろんな像の砲撃を浴びせられている。突然、視覚情報の洪水が襲ってくる。どうしようもない」と。
マイクの目は期待通りの性能を発揮したが、彼の脳は得られた視覚情報を理解できなかった。それ以降に目にするものもすべてだ。彼は優れたパラリンピックのスキー選手だったが、視覚が回復してからの方がその能力は低下した。物体とは何かが分からず、奥行きの観念もなかったからだ」
「失明していた四十年間に視覚系の領域の大半が、聴覚や触覚。その他の感覚に乗っ取られていたからね」
「その通り。結果としてマイクは、目でものを見るための能力に大きな悪影響を受けていたわけだ。手術から十五年経っても新聞の文字や人の表情を読み取るのに苦労していたそうだよ。必要なら手で触ったり耳を傾ける必要があった。0から視覚野を鍛え直さないといけなくなったわけだ。
ペレの言語機能についても同様の事が想定される」
ふたりは、ペレを見た。真剣にこちらを見つめている、褐色の肌を持った少女のことを。
「そしてこれはペレ当人の問題にはとどまらない。リハビリには家族をはじめとする周囲の理解と協力も不可欠だ。まず彼女自身にリスクを含めて理解してもらう必要があるし、君の家の人たちにも話して貰わないといけない。
モニカ。最初に君に話したのはそれが理由だ」
しばし、静寂が場を支配した。
次にモニカが口を開いたのは、自分のスープ皿を空にしてからの事。
「うちは大丈夫。リスカムの時だってそうだった。しゃべれないペレを連れて帰った時も。みんな助けてくれる。次に帰った時に、みんなには話しておくわ。
それに―――」
「?」
視線を向けられたペレは、怪訝な顔をした。
「ペレは強いもの。辛いリハビリになっても、きっと投げ出さない。何十年かかっても言葉を取り戻そうとするはずだから」
「同感だ」
ゴールドマンは、微笑んだ。それを見たペレも笑みを返した。
―――西暦二〇四三年。ペレの推定年齢が七十代に達した年の出来事。
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