神話という鎧

「人権とは強力な武器だ。それは知性強化動物を人類から守るが、逆に人類を知性強化動物から守ってもいる」


【イギリス 捕虜収容所】


空を行く巨体を見上げ、ドワ=ソグは呟いた。

飛行機雲を残しながら航空を横切っていくのは、馬の頭部を備えた巨人たち。そしてそれに続く、巨大な犬の彫刻が複数。まるで生きているかのような———実際に生きている―――躍動感を備えた一群は、見る者に凄まじい圧迫感を覚えさせる。

振り返り、そちらへと手を伸ばす息子へ向けた彼の視線は優しい。

「この子は巨神が好きなようだ」

「こういうところは男の子ですものね」

妻の言にこの科学者は苦笑。人類製神格は確かに勇壮だ。デザイン面では最初の時点で既に完成の域にあった。よほど神々の神格への対抗意識を燃やしたのだろうか。

ドワ=ソグは中断した作業を再開。洗濯物を干していく。良い天気だ。速やかに乾くだろう。

作業を続けながら、彼は妻子へと語った。

「彼らは、神格に対して我々とは異なる態度をとっているように見える」

「それが、人権の話に繋がるの?」

「ああ。人類製神格は思考制御が施されていない。彼らには人権がある。人間と同等に扱われているそうだよ。少なくとも建前上はだが、実際も大切にしているだろうな。我々が、我々自身のクローンをベースにして建造した神格に対してしていたように」

神々が建造した旧型の神格は、神々自身のクローンを肉体としていた。彼らは思考制御を受けず、神々からも同胞として扱われていた。人間で言う人権に相当する権利が認められていたのである。それゆえに極めて高価で、かつ建造までにかかる時間も非常に長期間に渡るものでもあった。知性強化動物とは異なり、自我の成熟と肉体の成長に大変な時間がかかったからである。戦況がひっ迫した遺伝子戦争後半には相当数が実戦に投入され、その多くが還らぬ者となった。

「考えてみれば、驚くべきことかもしれないわね。異種の生物を兵器としてじゃなく、同胞として認めるだなんて」

「彼ら自身思考制御をリスクとみなしていたのかもしれない。先の戦争では24体も離反した。自分たちで使おうと考えなくても当然だ。その代わりに持ち出したのが、人権という神話なわけだ」

「知性強化動物に、神話を信じ込ませたというわけ?」

「たぶんね。ここで読める書籍類をひっくり返した限りでは、そう推測できる。元々神話とは秩序を構築するためのツールだ。それも非常に有用な。本質的にはそれは幻想でしかないが、多くが共有することで幻想ではなくなる」

風が強くなった。シーツが大きくはためく。

「我々同様、人類もその歴史の大半において、秩序を作る神話は不平等の肯定のためにあった。搾取と迫害のツールだったんだ。ローマ。古代中国の幾つもの王朝。エジプト。中東でも。紀元前のハンムラビ法典では人間は男女の性と三つの身分によってその権利が分けられていた。その3500年後、北アメリカにあったイギリスの植民地群の住民たちは、普遍的で恒久的な正義の原理を謳った。それは万人に平等な権利が与えられるというものだ。アメリカ合衆国の独立宣言だな。この二つは内容に差こそあるが、理念は同じだった。神の名の下に多くの人民が協力して、公正で繁栄する社会を作り上げるというものだ。ただ、公正への考え方が異なるだけだった」

「そして、どちらもヒトの想像力の中にしか存在しない。そうでしょ?」

「その通り。どこにも客観的な正当性はない。彼ら自身の神話だけが、その正当性を担保する。しかし多くのヒトはそれに従う。その方が効果的に協力し合えるからだ。だが、そのためには多くの人間はそれを信じていなければならない。

『神などいやしないが、私の召使には教えないでくれ。さもないと、彼に殺されてしまう』というわけだ。

興味深いのは、このような人権の概念を全人類が真に共有し始めているらしい。ということだ。

人権は人類自身にとってさえ、普遍の思想というわけではなかった。開戦まで世界各地で独裁国家は存在したし、部族社会も多かった。人権思想を奉じる民主主義は世界を席巻していたわけではなかった。それを主な柱としていたアメリカ合衆国が強大な勢力だったから、重要な思想ではあったけれどね」

そこでとてとて、と歩き出した息子を見守るふたり。どうやら昆虫に興味を惹かれたらしい。

「今は人権思想は人類にとって非常に重要な基本原則ドクトリンとなりつつある。それは我々との接触によって、彼ら自身をまとめ上げる支柱が必要だったこともあるだろう。けれど、最も大きい要因は知性強化動物じゃないか、と私は考えている」

「人類製神格が?」

遥か地平線の彼方へと飛び去った巨神群に目をやり、ミン=アは問い返した。ドワ=ソグはそれに頷き。

「どの程度の性能かは私にも分からないが、それでも人類製神格は強力な兵器だろう。どこの国家も導入しようとしたはずだ。だが、知性強化動物は人間以上の知性と自由意思を備えている。そしてここが重要だが、人間ではない。そんな生物が、力による支配を単体でひっくり返す事ができるだけの破壊力を持っているんだ。彼らを納得させ、抑制できるだけの思想が必要だった。知性強化動物を人間と同等の地位に押しとどめる事の出来る大義名分が」

「それが、人権という神話なわけね」

「おそらくね。おかげで、神話を信じていなかった者たちもそれを信じるようになりつつある。こういうものは多くの人が真剣に信じている必要があるから。

私たちにも無関係な話じゃない」

ふたりは、飛び跳ねる虫と戯れる子へと目を向けた。

「人権思想には好悪は存在しない。今やあらゆる知的生命体はその恩恵にあずかる資格がある。私たちがここに隔離されているのは異種族だからではなく、人類に対する犯罪者だからだ。少なくとも、現在主流の考え方では。

この子は違う」

ドワ=ソグは。この神々の科学者は、息子を抱き上げた。

「息子よ。グ=ラスよ。お前はここから外に出ていける。彼らの神話を共有する限りは」

「そと?」

理解できていないらしい幼子に対し、ドワ=ソグは首肯。

「そのためにも、学びなさい。色々な事を。人権は、お前を守る最大の鎧となってくれるはずだ」

「……?」

「じきに分かるようになる。さ。風が強い。母さんと一緒に家の中へお入り」

幼子がムウ=ナと共に家へ入るのを見届けると、ドワ=ソグは作業を再開した。




―――西暦二〇三七年。アメリカ独立宣言から二百六十一年、ハンムラビ法典が成立してから三千八百年あまり経った日の出来事。

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