ふたりの母と
「子供はみんな冒険家だ。新しい物事に挑戦し、しくじり、時に輝かしい成功をする」
【イギリス 捕虜収容所 集会所】
幼子が、立ち上がろうとしていた。
壁に手をつき、ぷるぷると体を震わせながら。ゆっくりと。観察と経験。模倣。それらを自らの頭脳で統合し、考察し、足りない能力は自ら補いながら。彼は"立ちあがる"というソフトウェアを、自分自身の脳と肉体によって書き上げようとしていたのである。
集会所の隅に設けられた育児スペースで行われる儀式を、数名の大人たちはただ、見守っていた。
やがて、幼子はすっくと立ちあがった。いや、そこまで立派なものではなかったが、兎にも角にも、壁を支えに彼は直立を成し遂げていたのである。
人類と、そして神々だけが持つ能力。本能によらずに立ち上がる手段を自力で見つけ出す、という偉業を、幼子は成し遂げたのだった。
と。
そのまま前に動こうとして、ころん。とひっくり返る幼子。育児スペースの床はよく磨かれた木製の上からカーペットを敷かれているから、怪我はないだろうが。
しばしなにが起きたのかわかっていない様子だった彼は、やがてはいはいで母親の下へと戻った。
「……でっかくなったなあ」
「ええ。毎日、新しい発見がある。ここで一番の人気者よ、この子は」
言葉を交わすふたりの女性は、それぞれが違う特徴を備えていた。一人は銀髪に白い肌を持つ人間。もう一人は、幼子同様の羽毛に覆われた頭部と嘴を備えた鳥相の神。
フランシスとムウ=ナであった。
猛スピード―――あくまでも幼子の基準で―――で戻ってきた我が子を抱き上げ、母親は微笑んだ。
「こんなに子育てが大変だとは思っていなかったけれど。ちょっと目を離した隙が一番危険なの」
「すべての母親の共通の悩みだな」
子供は総当たり的にあらゆることを試す。何が危険かそもそも分かっていないし実感もしていない。十代後半の若者でも未発達な脳に突き動かされて危険な行動を繰り返すのに、それより幼い2歳児が安全である道理はなかった。
「人間も同じように子育てに悩むのね」
「まあなあ。危険から遠ざけなきゃいかんが、けど体験しなきゃ学ぶ機会もなくなっちまう。大人の都合なんて理解できねえ」
フランシス自身、知性強化動物の成長過程を幾度となく見て来たし世話もしてきた。彼女らはすぐに育つし賢明だが、それですら大人になるまでの2年間は緊張の連続なのだ。付きっきりとなるスタッフたちの心労は並大抵のものではあるまい。
自分の方へと伸ばされた、幼子の手を取ってやるフランシス。
節くれだった手。爪はまだ柔らかい。大人になればこれは鋭く、硬くなるのであろうが。頭の羽毛はもうだいぶしっかりと生えそろっているが、体格と比べて大きな脳のためにかなり頭でっかちにも見える。
「ちゃんと立派な大人になるんだぞ、グ=ラス」
「~~まま」
幼子の声に、ふたりは顔を見合わせた。
まだはっきりとした発音ではなかったが、しかしそれは間違いなく言葉だった。
「ママはそっちだぞ。オレはフランシス、だ。
フ ラ ン シ ス」
「ふ……?…まま」
今度こそ、女性たちは苦笑する。
「こりゃ先は長いな」
「ええ。でもその日が楽しみだわ。ちゃんと喋れるようになる日が」
「まったくだ」
その後もふたりはしばし言葉を交わし、そしてフランシスは帰っていった。
―――西暦二〇三七年。グ=ラスが誕生して二年、ムウ=ナらが捕虜となってから十八年目の出来事。
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