アルプスの峰で
「遠い未来のことは分からない。僕たちがそこにいるという事以外は」
【アルプス山脈ドロミーティ】
「大丈夫ですか?」
竜だった。
観光客は、自分を引っ張り上げた相手の顔をまじまじと見た。白い毛に覆われた竜。分厚い服を着て、リュックを背負い、他の観光客と同様に2本の短いカラビナ付きロープを身にまとっている。ヘルメットを被っていないのは彼(彼女?)に合うものがないからだろう。そもそも不要であろうが。
知性強化動物だった。
「あ———ありがとう」
「どういたしまして」
足を踏み外した観光客。彼が道を進み始めると、彼を引っ張り上げた竜の方も進み出した。更には彼の後からもうひとり、
彼らは周囲を見渡した。
断崖絶壁である。
雄大な自然を、ゆっくりと彼らは進んでいく。
「すごいなあ」
ドロミテは立ち止まった。先を行く観光客たちが渡っていくものに目を奪われたのである。標高三千メートルの峰と峰。それを繋ぐ吊り橋を確認したから。
ややあって、前進を再開する竜たち。進むたびにカラビナを引っかけ直していく。
「僕らも大人になったんだなあ」
後続の竜。ベルニナが呟いたのに、ドロミテは振り返る。
「うん?どうしたの」
「昔は、こういうふうに出かけることはなかったじゃない。いつも大人が一緒にいた」
「確かにそうだね。今じゃあお給料を貯めて、自分たちで計画を立てて、こうやって休みを取って旅行だってしてる」
足元を見る。そこは奈落がぽっかり口を開けていたが、成人して神格を組み込まれたドラゴーネにとっては危険はない。落下しても無事に着地できるし、何なら分子運動制御で飛翔することも出来る。律儀に二人がカラビナを使う必要も本来はない。ヘルメットはどうするべきかは問い合わせはしたが。
先に進むふたり。
「よくこんなところで戦争したよね」
「第一次世界大戦だっけ」
「そうそう」
「僕らの大先輩だ」
鉄の道はもともとイタリア軍が設置したものだった。この過酷な地形を巡って陣地が築かれ、戦いが繰り広げられたのである。そのための移動手段が鉄の道であった。
このドロミーティの地は、近年の戦い。遺伝子戦争でも大きな役割を果たした。
ローマの門から出現した神々の軍勢は北上し、遺伝子資源の奪取を図った。同時に多くの住民を連れ去りもしたのだ。避難民の逃げ道はドロミーティによって阻まれ、犠牲者も多数出たという。山道を越える事ができなかったのだ。
「百年先も、この山はあるんだろうなあ」
「僕らだっているよ」
「でも、いない人はいるよ」
ドロミテは身近な人達の顔を思い浮かべた。リスカム。ペレ。モニカ。エトナ。きょうだいたち。神格は不老不死だ。事故で亡くなる可能性も低い。みんな生きているだろう。
一方、いなくなっている人たちも大勢いる。ベルッチ家の人たちや、そしてゴールドマンも。
その時自分はどんなふうに生きているのだろうか。
ドロミテには分からなかった。ベルニナに聞いてもたぶん同じだろう。
「ずっと先のこと、考えた方がいいんだろうなあ」
「そうだねえ」
ふたりの不死者は、頷きあうと先へ進んだ。
―――西暦二〇三七年。人類が生物学的不死を実現してから十五年。第一次門攻防戦の十五年前の出来事。
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