ねぎスープインフルエンザ味
「何も自分で実証しなくてもいいじゃない。テクノロジーは自然進化に勝てない、だなんて」
【イタリア共和国カンパニア州 ナポリ ゴールドマン宅】
38度7分。気温ではない。体温計の表示である。
ベッドでダウンしているのはゴールドマン。インフルエンザとの診断結果を受けた彼は自宅療養を命じられた。感染症拡散を防ぐための隔離である。去年の暮れにはきちんと予防接種を受けたというのにこの有様だった。
「済まないな。手間をかけた」
「大したことじゃないわ。気にする暇があったらさっさと治してちょうだい」
モニカの言にゴールドマンは苦笑。
「治せるものならさっさと治してしまいたいところだがね。予防接種があまり効果を発揮していない以上、自然治癒を助ける、という昔ながらの方法がこの感染症に対しては最もコストパフォーマンスに優れてる。あるいは最初から病気にならないような措置を施すか。君のような強化身体があれば病気も恐ろしくない」
「進歩した科学も結局、病気には勝てないか」
「そうでもない。人類はこれまでの歴史で、多くの病に打ち勝ってきた。ただ、病気の方も進化するからね。予防接種はその年に流行るウィルスの型を予想して生産するが、進化がそれを上回ったわけだ。狩猟採集時代のような小集団での移動生活ならそれでも恐ろしくはないが、大集団が定住するようになったうえに複数の畜獣と生活を共にする環境は、病原体にとっては素敵な場所だ。
これは人類対感染症という、何万年も続いてきた戦いなんだよ」
「よくこの熱でそれだけ喋れるわね……」
「実は自分でも何を口にしてるかよくわかってない。変なことを口走ってないか?」
「いつも通りよ。心配いらない」
「そうか。安心した」
「私だからいいけど、他の人がいる時に喋らないでよ。うつるわ」
「分かってる。けれど何かしゃべりたい気分なんだ」
「はぁ。まあいいわ。
台所使うわよ」
モニカは冷蔵庫の中身を確認した。野菜。肉。牛乳。バター。等々。アルコール類はない。ゴールドマンは実に健康的な食生活を送っているようだった。
ねぎ。塩。
「今年のインフルエンザは神=ヒト変異種らしいな」
ゴールドマンの声。
スープを作りながら、モニカはベッドを振り返った。
「そういえばニュースで言ってたわね」
「とんだ置き土産だよ。神々もインフルエンザになるからな……おまけに人類同様大集団だ。人間から神にうつり、神から神へとうつっていく過程で変異したのが、捕虜を通じて人類に再度広がったんだ」
「こんなものだけ返してくれなくていいのにね」
「まったくだ。だが、古来より異なる集団同士が接触すれば、病原菌の交換もなされるのが常だった。天然痘。ペスト。梅毒。時にこれは大惨事を招いた」
「皮肉なものね。
先の戦争で神々の病気が地球にさほど持ち込まれなかったのは、神々の側が検疫を徹底していたからなわけだし。少なくとも戦争初期は」
モニカはスープを味見。少々薄いだろうか?
「連中も、地球を汚染するわけにはいかなかったからね。何せ種族復活の切り札だ。新大陸を侵略したヨーロッパ人とは事情が違う」
「そういえば、どうして新大陸ではユーラシアの疫病が猛威を振るったのに、ユーラシアには新大陸の疫病で大きな影響が出なかったの?」
ふと浮かんだ疑問に、ゴールドマンは律儀に答えた。
「新大陸にはそもそも強力な疫病がなかったのさ。それを生み出せるだけの多数の家畜がいなかったからね」
「家畜のせいなの?」
「ああ。ユーラシア大陸では人間は多くの家畜と共に暮らしていた。これらの生物に感染するタイプの病原体は、当初は人間に感染しなかった。けれど彼らはやがて気付いた。近くにいる、宿主になりうる生命体―――人間の存在にね。病原体は変異が早い。たちまち人間に感染するようになった。定住し農耕をしていた人類にとっては、生活環境の劣悪さも災いした。それらの疫病の温床になったんだ。それだけじゃない。集団が十分に大きかったせいで病原体は常に誰かに感染している状態を維持できた。ずっと疫病と共存せざるを得なかったわけだ。けれど、そのおかげでユーラシア大陸の人類はそれらの疫病への耐性も身に着ける事ができた。東西に長いユーラシア大陸では全土の人類がそれらの疫病と共存していたが、海を隔てた新大陸の人々は準備ができていなかった。だから劇的なダメージを受けたわけだ」
「病気ひとつとっても文明の影響を逃れられないのね……
さて。スープ、できたから。動けるようになったら温め直して食べなさい」
「ありがとう。しばらく眠るよ。
おやすみ」
「おやすみなさい。いい夢を」
モニカが帰ってからほどなくして、ゴールドマンは眠りについた。
一週間とかからずに、彼は回復を果たした。
—――西暦二〇二五年二月。初めてインフルエンザ神=ヒト変異種が確認されてから六年目の出来事。
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