赤き闘争の大地を目指して
「宇宙、行きたいなあ」
【イタリア共和国エオリア諸島 サリーナ島 ベルッチ家農園】
「寒くないのかい」
夜空の下、リスカムに声をかけたのはアニタである。石垣と果樹からなる世界はベルッチ家に代々伝わる資産。マルヴァジア種の葡萄が植えられた農園だった。
「あ、お祖母ちゃん。平気だよ。リスカムはマイナス30度で寝てても大丈夫なの」
「数字で言われるとギョッとするねえ。分かっちゃあいるけどさ」
アニタはリスカムの横に腰かけると空を見上げた。
「何が見えるんだい」
「もうすぐね。お友達が空を通るの」
「友達?」
「うん。あっちの方」
指し示されたのは南天。そちらを凝視するアニタだったが。
「あ。来たよ。でも衛星軌道上だから、お祖母ちゃんには見えるかな」
「衛星……?」
「うん。わたしとおんなじ神格。台湾の子なの。今日訓練で上を通るって言ってたから。あ。こっちに気付いた」
「リスカムちゃんは、わたしには見えないものが見えるんだねえ」
「お祖母ちゃんだって、準備すれば見えるよ。子供用の天体望遠鏡で十分。道具があれば、どんなに差があっても縮められるの」
その言葉に、リスカムはシカにも似た顔をアニタへと向けた。数年前までは影も形も存在しなかった超生命体。しかし今やその存在は、世界中でごく当たり前に受け入れられている。
「お祖母ちゃんは、今の世界をどう思う?」
「そうさね。世界は決定的に変わった。けど変わらないものもある。それは、世界は変わっていく、ということさ。そして変わったものにみんな慣れる。
だからここは、昔と同じ世界なのさ」
「そっか。ちょっと安心したかな」
「うん?」
「リスカムは、この世界しか知らないから」
告げると、この知性強化動物は再び空を見上げた。
「世界はとてもやさしいけど、ちょっと窮屈。私たちには、自分の運命を決める自由がないから。
あ、今の境遇が嫌って言うわけじゃないよ?それに、そのうち選択肢は増えるだろうし」
「それならいいけどさ。それにしても、選択肢が、増える?」
「うん。人類の領域はどんどん広くなっているし、わたしたちが活躍できる場所は増えてる。私たちの仲間もどんどん多くなる。人類に余裕が出てくれば、そのうち軍事以外の分野でも、神格が関わるのは間違いない。だから、リスカムが歳を取ったらそういうお仕事もしてみたいの」
「いいねえ。何をするつもりだい?」
「うん。宇宙に行きたい。お祖母ちゃん、知ってる?地球の生命は宇宙で生まれたかもしれないって」
リスカムが指さしたのは、無数の星々。
「お隣の火星は、昔水と厚い大気に覆われた温かい星だったの。小さかった火星は太陽系が誕生した際、地球よりずっと早く冷えた。太陽から程よい距離にあり、今の地球に匹敵するくらいの気圧の二酸化炭素の層に包まれていたおかげで冷えすぎることもなかった。有機物。エネルギー。液体の水。生命が生まれる条件がすべてそろっていた。こうして生まれた生命が、天体衝突の衝撃で飛び出したんじゃないかって言われてる。月の6割もある大きな星がぶつかった衝撃でも死なず、何年も宇宙線に晒されても生き延びた微生物が地球にたどり着いた。それが、人類の。ううん、わたしたち知性強化動物も含めた、地球上のすべての生命の祖先かもしれないの。
凄いと思わない?そんなことになったら神格でも死んじゃう。なのに、祖先は生き延びたの」
アニタはただ、頷いた。話のスケールに圧倒されていたのもあるし、孫の。リスカムの語りがあまりにも楽しそうだからでもあった。
「火星はその後も何度も逆境に見舞われた。天体衝突で大地はマグマに覆われた。それが冷めて以前の環境が戻って、生命も蘇った。すると今度は、生命の進化が寒冷化を引き起こした。二酸化炭素を分解して、酸素を排出する生命が出現したの。火星の大地は酸化した鉄に覆われている。これは酸素があった証拠。熱を保つ役目を持った二酸化炭素が失われて、火星は冷えた。生命は自ら、逆境を作り出しちゃったの。更には、最初の3億年が過ぎた頃。マントルが冷え切って、磁場が消えてしまった。太陽風に晒された大気は吹き飛ばされ、気圧が下がった。わずかに残っていた液体の水も消えて行った。残ったのは水は極地に凍り付いたものと、地中の水分だけ。
でも、火星の生命は滅んでなんかいない。天体衝突を生き延びて、地球にたどり着きさえしたんだよ?凍り付いたり、大気が失われたくらいで死滅したりなんかしない。逆に、元気に生き延びてる。そして、誰かが探しに来てくれるのを待ってる。
リスカムはそう思うの」
アニタは、見た。最新の戦闘生命が、最古の生存競争の舞台だったかもしれない星に思いを馳せる様子を。
「行けたらいいねえ。火星に」
「うん」
ふたりはそれからもしばし他愛ない言葉を交わし、やがて家に戻った。
—――西暦二〇二五年一月。人類が初めての火星有人探査を達成する十九年前の出来事。
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