籠城
自宅のドアを開くことにさえ、プレッシャーがあった。
玄関口にはぼくの顔をした誰かが立っているのではないか。
この家にこそ、突き当りに姿見が置いてあるのではないか。
そして永遠に、呪いから逃れることはできないのではないか。
あるいは、ぼくはもうすでに狂っているか死んでいるかして、苦痛の中を彷徨い続けるのか。
そんなことを何度も想像した。
だが今日も、雑然とした狭い空間が広がっているだけだった。
荷物を置き、ボディバッグの中を検める。
この中で、いまだにぼくを支えてくれそうなものは……やっぱりハンディカメラくらいだ。
断片的ではあるが、これまでの記録を詰め込んでいる。最初から最後まで見直せば、なにか新しい発見があるかもしれない。
とはいえ、まずは自分の身体をリカバリーすることにした。
自宅にあった菓子やレトルト食品と、ぬるま湯でコーヒーの粉を溶いただけの黒い飲み物を胃に流し込む。
乱暴な摂取に消化器官が悲鳴を上げたが、お陰で少しは眠気が誤魔化せそうだ。
それから、田邊の所属先を調べた。どうやら以前からフリーランスで住まいも点々としているらしい。
都市伝説も漁ったが、"赴くと呪われる心霊スポット"なんて、類似するケースが多すぎてなんの参考にもならなかった。
とりたて手がかりもなく、とうとうベッドの上で膝を抱えて座り、ハンディカメラの小さな液晶画面に意識を向ける。
ぼくは自宅で遭難していた。化け物の檻の中にエサとして放り込まれ、誰の援助もなく、一人孤立し、死を待っている。
そんな状況で、過去の失敗と犠牲と向き合いながら、窮鼠が猫を噛むチャンスを必死に探っていた。自分でも傷ましく不憫な作業だと思う。
小さな画面の中に映っていたのは、赤城と美和だ。
移動中のワゴン車の中で退屈そうにしている。この時のぼくはというと、明日からの長距離運転やその先に待つ編集作業のことで頭がいっぱいだった。こんなヤラセ番組のロケなんて、それはもう思考停止して中西の奴隷をやっていれば勝手に通り過ぎるものだと思っていた。
ぼくたちはこのときすでに、存在無きものの誕生に、生贄として捧げられていたのだ。
いよいよ『自殺アパート』の中に入る。不可思議なことに、カメラにもあの鏡は鏡として映っていた。ぼくらの目と同じだ。
燈子が指摘した黒い影も、美和の異変も、怪異のままを映し、残している。
このカメラの映像を見た人間は、それこそこの都市伝説を信じてしまうだろう。
この後、ぼくは美和と荷物を一人で抱えて山を下りるわけだ。
どうして一人で背負い込んだのだろう。ごねて荷物を置けば中西だって持っただろうし、押し付ければ赤城だって手伝ったはずだ。
それなのにぼくは、自分の意思を示して押し付け返す努力もせずに、どうせわかってもらえないと諦めて、聞き分けの良いいい子ムーブに甘んじた。自分から被害者の椅子に座ったのだ。
翌日には燈子と会い、さらにその翌日には保坂さんにインタビューを行う。ぼくらはで先の蕎麦屋で赤城の死を知った。
それからだ。
次々に怪奇現象は起き、一人、また一人と追い詰められていった。なじり、奪い、苦しめ、精神的に追い詰め、それでも自死を選ばないのなら無残に殺す。それが連中の遊びである。
その果てにぼくと燈子は報復を誓い、そして原因と思われた鏡を壊した。だが、それではあいつらを消すことはできなかった。
しかし、このときの映像は……黒く塗り潰されている。音声も割れ、代わりに呻き声とセロリが捩じり切れるような不気味なノイズだけが残っていた。
あいつらは、自分たちの脅威は認めても、敗北の記録は認めないようだ。
ならば、鏡の破壊はあいつらにとって事実を捻じ曲げようがなく塗り潰したくなるほどの完敗、かなりの痛手だった……ということだろうか。
……わからない。
同時に、判然としないことがある。
燈子への呪いの感染経路だ。彼女は呪われる前に『自殺アパート』には行っていない。
特に密接にかかわっていたのは美和だが、インフルエンザウイルスのように空気感染でもするのであれば、もっと爆発的に不審死が増え、人々の目に留まり――それこそ『自殺アパート』はとうの昔に有名な都市伝説となっていただろう。
なにかもっと限定的で、明確な条件があるのではないか。
ぼくにはそう思えてならなかった。
燈子と相談ができれば――。
そう思いながらスマートフォンを見る。連絡はまだない。
こちらの無事を伝えるために、留守番電話だけでも残そうと履歴を折り返す。
『おかけになった電話番号は、現在使われておりません――』
聞こえたのはそんな素っ気ない機械音声だけだった。
もう何が何やら……。
気が付けば夕方になっていた。
蝉に混じってひぐらしが鳴いている。狭苦しい部屋にもオレンジ色の夕陽が射し込んでいた。
再び、空腹と睡魔がやってくる。
溜まった疲労も相まって限界だ。いつ意識を失ってもおかしくない。
ぼくはやはり、やつらに奪われないよう、自分の手で自分の命を握りつぶすしかないのか。
少しでも気を紛らわそうと、ぼくは立ち上がりテレビをつけた。
カメラマンを生業としていながら生意気にもぼくはテレビ番組を見る習慣はなかった。
台風や地震などの地震災害が激しいときに、不安もあってつけっぱなしにする程度にしか使っていない。そのため電源を入れてすぐ、グレーのスーツを着た男性アナウンサーがこわばった顔でニュースを読み上げていた。
『さきほどもお伝えしました通り――』
画面右下のワイプ画面には見覚えのある、しかし黒焦げて違和感を放つビルが映し出されている。どうやらぼくが思っていた以上に、本社炎上は大きく取り上げられているようだ。
中西が放火したわけでもなく、ただの火事でもない。ならば……。
思っているうちに、知っている顔が映し出された。赤城のときと同じだった。
『本日、午前四時ごろ、東京都新宿区のビルで火事がありました。火は四階フロアの倉庫から出火し、約一時間後に消し止められましたが、焼け跡から芹沢優一さんと見られる男性の遺体が発見されました』
――芹沢。
どういうことだ。
『遺体には油を浴びたような形跡があったことから、警察は自殺とみて調べを進めています。なお、事件の時間帯、このフロアは営業を行っていませんでしたが、スタッフは頻繁に時間外業務を行っていたと、ビルの警備員への取材で判明しました。遺書は見つかっていません』
視聴者提供の映像が流れる。
ぼくの良く知っている会社が炎を噴き出し、その上のフロアも飲み込まんと赤々とした舌を伸ばしていた。
コメンテーターが『ブラック企業』などという言葉を交えて、当たり前のことをさも有識者の意見に言い換える。
たしかに、ぼくの勤めている会社はブラック企業だ。やりがい搾取のお手本だ。社畜極まったぼくなら、いずれ火をつけたかもしれない。
だが、芹沢に限ってはありえない。あいつは可愛げを振りまいて、仕事すらのらりくらりとかわし、同族から搾取する側だったからだ。まさしく人間側だった。
芹沢が将来を憂いて会社で自殺するなんてありえない。
ならば、間違いない。あいつにやられたのだ。
同調を求めがちな芹沢が、あの化け物に目をつけられていたのならひとたまりもないだろう。芹沢は追い詰められた。だからもっとも安心できる、逃げ込むべき自分優位のフィールド――会社に籠った。
そうなると――燈子と一緒だ――どこから呪いが感染した?
芹沢と燈子には共通点があるはずだ。
もう一度、十倍速でハンディカメラを見直した。
燈子が映っているのは、数時間前に『自殺アパート』で鏡を破壊したときのみだが、ほとんど黒く塗り潰されている。芹沢に至っては映像さえ残っていない。
逆に――。
ぼくの頭に火花が散ったような感覚があった。
それがひらめきなのか、それとも何者かの介入なのかはわからない。
わからぬまま、猛烈な睡魔が意識に噛みつく。
だめだ、だめだだめだだめだ。
あと、ほんの少しなのだから。
「……ぼくが……カメラを」
抗うことが精一杯のまま、ぼくはベッドに沈んだ。
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