延長戦


 その時――まるで、ぼくの脳内を見計らったようなタイミングだった。

 助手席に放り投げていたスマートフォンが着信音をかき鳴らす。

 亀裂の向こうには『中西栄吾』と表示されていた。


 きた。

 ぼくは思ったが、ほぼ同時にそれは早計なのではないかと打ち消した。

 まだ中西が死んだと決まったわけではない。もしかしたら偶然このタイミングで起きた事故を、田邊さえも呪いのせいだと勘違いしているかもしれない。


 ぼくはスマートフォンを手に取り、応答した。


『遅いわ。はよ出ろや』


 スピーカーの向こうから、中西らしい言いぐさで彼の声がする。


『会社燃やしたの、おまえかと思うとった。いや、もしかしたら電話の向こうっかわのおまえはもう死んで、あのバケモンが聞いてんのかもなあ』


 それはお互い様である。

 仮に電話の向こうが中西だとするならば、いったい誰がをしでかしたのか。あるいは偶然の事故だったのか。

 ぼくは考えながら押し黙った。


『まあええねん。終わったことや。なんもかんも終わったことや。終わったんや』


 中西の口調は疲れ切っていた。覇気……もはやケンカ腰の嫌味すらも感じられない。

 枯れた中年がぼそぼそと一方的に喋っているだけだった。


『あそこに行ったときから、いい夢でも見てるんかと思ったわ。田邊の寄越した悪夢やなんてちっとも思わんかった。俺らはエサにされたんやな、産まれたばっかの都市伝説の。俺のなんが悪かったんかな。自分でこれやて決めたことやっただけなのにな。俺の生涯、そんな権利もなかったちゅうことかな。なんもできんかった。終わったんや』


 その声も、どこか狭く響いている。

 遠い人のざわめき。

 電車進入を告げるアナウンス。地下鉄だ。


 正しいと思うことをしろ。

 母親が子どもに言いつけるような、当然が過ぎる燈子の言葉が蘇る。

 ぼくは、その向こう側にいるのが化け物の可能性を理解しながらも、声を張り上げた。


「中西さん、早まらないでください!」


 ときには殺してやるとさえ思っていた暴力上司を、ぼくは止めた。

 返答は、ひぃひぃという笑いなのか苦悶なのかわからない呼吸だった。


『ひひ……せやからおまえ、いつまでも誰にでもナメられんねん。踏み台にされんねん。まあええわ。終わったことや。なんもかんも終わったことや。終わってんのや』


 そして、さらにか細く言った。

 同時に、別の男たちの会話が聞こえてくる。


『うげえ……ぞ! こっちはだ!』

『おい……なにか、動いて……喋ってないか?』

で喋るわけないだろ。どう見たって即死だ』


 幻臭という言葉があるのだろうか。

 レールの金属の臭い、巻き上がる黴の臭い、それから濃厚な血の臭いが鼻をかすめた。


 そんな。

 ばかな。

 ぼくの勘違いだ。

 勘違いのはずだが、再度呼び掛ける言葉が出ない。

 耳元に携帯電話をあてながら、ぼくは息をひそめていた。


「いまから行きますね」


 誰のものとも知れない、人間とは思えない低い低い声が、スマートフォンをあてた耳の後ろからはっきりと聞こえた。

 一気に汗が噴き出す。口の中が渇いた。呼吸さえ上手にできない。

 昨晩、あれだけのものと対峙したにもかかわらず、ぼくの神経は過剰なほどに警戒と恐怖を喚きたてる。


 除霊のときと同じだ。

 いる。

 五感ではないものが、を捉えている。


 恐る恐る、ゆっくり、じりじりと、フロントガラスに目をやる。朝の風に揺れる樹々と空。爽やかな夏を透かしていた。スマートフォンを下ろし、さらに視線を上げる。

 バックミラーは灰色に塗り潰されていた。

 巨大な顔だ。

 まつげのない黒く大きな目と、潰れた鼻。数本の毛髪が額のあたりに垂れ下がっている。死んだ肌色をした巨大な赤ん坊の顔が三列目シートの中央に転がっていた。てらてらと濡れた唇を半開きにして、黒い舌をうねらせている。顔からは三つ四つと関節のある灰色の手足が伸びており、赤ん坊をあやす様に表面を撫でている。

 そのどれもが薄く射し込む夏の朝日を無視して陰影をつけず、のっぺりとした違和感のままに存在している。


 存在して、いまここにいる。

 鏡を壊しても、消えていない。

 それどころか、ついに、ぼくのところに、その中核がやってきた。


 恐怖のどん底――底があればどれだけ良かったか。

 正気がずるずると落下し続ける。

 不幸か幸か、恐怖すればするほど、この先で待っていることも鮮明に理解できた。

 このままではやつらの玩具にされる。永遠に終わらない八つ当たりの道具にされる。生まれたばかりの都市伝説を飾る、哀れな人形にされてしまう。


 赤城も美和も中西も、ただそこに行っただけなのに。

 自分の理想の未来を掴もうと、努力しただけなのに。


「ううう……ううう……」


 怒りと悲しみと恐怖で震え、ぼくの喉からは声が漏れ出していた。それを見てか、赤子がベロリと黒い舌を出して笑う。

 残り僅かな理性を束ねて、ぼくは助手席に置いていたボディバッグに左手を伸ばす。肩紐を掴み今度は右手側、エンジンからキーを抜き、運転席側の車のドアを開いた。

 身体半分が日光の下、道路の上に出る。蝉時雨が肌にさえ染み渡る。

 しかし左手――ボディバッグの紐が灰色の腕に掴まれていた。はたから見れば、シフトレバーにでもひっかかったように見えるだろう。

 周囲を見渡している場合ではないが、ぼくの醜態に気が付いたとしても、一瞬だけ気の毒そうな視線を向け何事もなかったかのようにそれぞれの日常へ帰っていくに違いない。ぼくだってそうする。


「く、そぉ……!」


 これでだめなら手放すつもりで、勢いをつけ、思い切り引く。

 すると、思いのほか簡単にボディバッグの肩紐は抜けた。勢いのまま、道路の内側に投げ出される。


 しまった――と思った瞬間にバイクが二台、器用にハンドルをきりつつ、ぼくの背後を避けて走り抜けていった。その間に車体側へ身を転がすと、次はダンプカーがコンクリートの地面を揺らして過ぎ去っていく。注意か罵倒か、プァンと高らかにホーンが鳴り響いた。

 あと数秒数瞬、どこかの決断が遅かったら、ぼくの頭は鉄の巨体に踏みつぶされ内容物が日光の下に晒されていただろう。


 内側から破らんばかりに心臓が拍動する。震えが止まらず、吐き気がしてきた。

 なんとか歩道に入ったところで、ようやく生の実感が染み渡った。

 非現実的な状況で化け物に捩じり殺されるより、日常の中で鉄の塊に轢き殺される方が、死と肉薄した危機を覚えるとは……皮肉なものだ。

 全身に、どっと汗が噴き出す。途端、眩暈がしてガードレールに背中を預け、しゃがみ込んだ。


 まずい。

 いよいよ限界だ。

 昨晩も寝ていない。数分の仮眠と、数時間気絶はしていたようだが、連日の疲れが拭えていない。

 頭も痛い。病的な汗で全身がぎとぎとしている。あの死臭も、服や髪に染み込んでいる気がした。実際のところはもう鼻がおかしくなってわからないのかもしれない。

 喉が渇いている。腹も減っている。眠りたい。安心したい。

 そんな、生きるために必要な行動さえことごとく奪われていく。

 悲しい、空しい、怖い。

 ぼくはもうぐちゃぐちゃだ。

 やつらは、ぼくを狂わせて、分解して、楽しんでいるのだろう。


 こんな状況から手っ取り早く逃げる方法はただ一つ――自死だ。


 見上げれば黒ずんで入りようもない仕事場。

 振り向けばあいつが潜むワゴン車。


 限界間近な身体を引きずり、自宅へと戻ることにした。

 ぼくにはもう、あの場所しかない。

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