《DAY7 7月21日》 負け犬賛歌
死臭
ペンライト型の懐中電灯と照明付きのハンディカメラで視界を開き、暗い山道を進んだ。
あたりは漆黒、ライトの光で切り取っても一面の緑が続く。
空気は土臭く湿り、異様にも静まり返っていた。鈴虫さえ逃げ出してしまったかのようだ。
ぼくの装備は、ロケに来た時と同じ。ボディバッグにガムテープやカッター、工具、小道具の鏡が入っている。
カメラは暗視モードで視界を確保するため……あとは、口にはしなかったが万が一のときのための遺書代わりだ。
燈子の手には長さ一メートルの両口ハンマーが握られている。大きな声ではいえないが、廃墟侵入の際に中西が使っていたものだ。
膝の高さまで生えた草木を掻き分けながら歩くこと二十分ほど、闇の中にその忌まわしいコンクリートの大箱が姿を現した。
「ああ……そうですよね」
燈子の声は、納得にも落胆にも聞こえた。
この場所がどうであれ、いまさら引き返すわけにいかない。
その決意はぼくよりも堅いのだろう、彼女は歩幅を広げる。
入り口前で、今まで感じたことのない、鼻の奥が焼かれるような臭気を感じた。ここに巣食う者の威嚇なのか、はたまた恐怖が成す幻なのかはわからない。
たった三階建てのアパートだったが、心無しか高くそびえる塔のように感じられた。
ぼくが先行して三階へ上る。
いつ何者が現れるとも知れない闇の中、恐る恐る光を振りかざしながら足を進めていくが、想像通りのコンクリートの壁と床と天井が現れるだけだった。
しかし、ついに到達した三〇一号室と三〇二号室の間で、両口ハンマーを支えに燈子が膝をつく。
臭気に圧されてか、腕で鼻を庇っていた。心なしか息も荒い。
「引き返しましょう」
燈子は首を振るが、立ち上がる気配がない。
干渉しやすければ、干渉されやすいということでもある。東雲先生の言葉を思い出した。
このままここで休んでも燈子が持ち直すようには思えない。彼女には酷かもしれないが、ぼくは肩を貸し三〇一号室に入った。
玄関口で燈子が軽くえずく。部屋の中に引き入れたところで座らせて、ライトで周囲を照らした。
そこはロケの時と同じく、部屋の奥に姿見が一枚鎮座し、光源とぼくらを何食わぬ顔で映している。
窓は割れているにもかかわらず、まるでこの部屋だけ切り取られた異空間のように空気が淀み死臭が漂っていた。
かといって、ぼくらを遮るものはない。
こうもあっさりと鏡の前に立てたことが、逆に不安を煽る。
とはいえ、のんびりしている時間はない。ぼくは燈子の手から両口ハンマーを掬いとり、鏡の前に立った。
無抵抗に佇むそれに振り上げる。普通の鏡なら、ハンマーの自重だけでも十分破壊可能であるが、ぼくは目いっぱい力を込めて振り下ろした。
「――えっ」
だが、目の前のそれは床とも固定されているかのように、微動だにしない。それどころか、両手が反動でびりびりとしびれていた。
鏡が硬いというよりもその手前ではじかれ触れられていない――まるで鉄製の薄膜に覆われている、そんな未知の感触だ。この世のものではない。
思ったようにはいかない。
ぼくは燈子に目の前で起きたことを報告しようとした。
「田邊さんの言っていた通りです、この鏡は――」
「吉瀬さん……鏡に見えるんですか……。それ……」
燈子は目を見開き、怯えた目でぼくを見上げていた。彼女の額から顎にかけて、じりじりと雫が流れる。
「あなたが見てる鏡、真実を映すほうの鏡ですか……?」
こんど、彼女の言葉にぼくは恐ろしくなって息を呑む。自分の目を疑って振り返るも、さっき見たとおりの光景が広がっていた。
鏡。
それ以外に認識しようのないものが、そこに立っている。
「そう……ですよね。この人たちは都市伝説になりたかったんですものね」
再び振り向けば、燈子がぼそぼそと呟きながら膝に手を当ててなんとか立ち上がったところだった。
「見たいものだけを見て、嘘と虚勢を着飾り他者を欺いた。すべては……己の選択、己の現実、己の醜態から目を逸らすため」
体を引きずり、ぼくの手から両口ハンマーをさらう。
「吉瀬さん。辛いお役目かと思いますが、おねがいします。ここで鏡を掲げてもらえませんか」
「合わせ鏡、ですか?」
「はい、そんな感じです――ならないと思いますが」
「東雲先生は御神鏡をあいつにむけて、そしたら大変なことに――」
「そうでしょうね」
燈子の白い顔はすでに汗でぐっしょり濡れていた。目の淵も赤く、ひどい熱病のように呼吸が荒い。
いまいちピンときていないが、躊躇っている場合ではないことだけは確かだ。
いわれるがまま小道具に用意していたアンティーク調の鏡を取り出し、胸のあたりに掲げた。
「わたしたちの前に現れたあいつが鏡に映った都合の良い像で、こっちが見たくない本体なんですから。こっちを映さねばなりませんでした」
燈子が指した鏡の中には、彼女と鏡を掲げたぼくがいた。そして鏡の中のアンティーク調の鏡は合わせ鏡……にはならず真っ黒に塗り潰され――ぱちん、ぱちんと灰色の瞼がまばたきした。
この手が掲げた鏡の中で、何者かが見ている。理解した瞬間、震えが止まらなくなった。
同時に、ピシッと小さな悲鳴が聞こえる。黒い眼球が見ることを拒絶するかのように、アンティーク調の丸鏡の内側には次々と亀裂が入っていった。
滑稽なほどに怯えたぼくの背後の暗闇から、じりじりとうねる灰色の手足が伸びてくる。
「吉瀬さん。そのまま押さえつけておいてください」
「は、はい……」
そこで、フッとペンライトとカメラ照明が消える。
ハンディカメラは自動で暗視モードに切り替わるも、おぼろげな緑色の視界の中でも化け物の脅威は迫っていた。
あまつさえ、声が聞こえた。男か女かもわからないほどに、しわがれた老人の声だった。
「あ……あ……ちあ……い、ます……」
逃げ出したい。
動かないことさえ必死のぼくの目の前で、小さな液晶の中で、黒猫のように目を光らせる燈子はそれで良いと言わんばかりに頷いた。
「わたしは専門家ではありませんので、お祓いとか、除霊とか、期待しないでください」
聞き覚えのある台詞だ。ほんの数日前のはずなのに懐かしささえ覚えた。
まさか、ここで彼女が取り憑かれて裏切ったのではないか。そんな悪い想像が頭をよぎる中、燈子はさらにトンチンカンな行動に出た。
両口ハンマーを高く振り上げ、あらぬ方向――鏡の後ろ辺りに振り下ろしたのだ。
――ぼっ。
重い破壊音とともに、床から黒いものが飛び散り、血と腐敗と汚物の臭いがこれまでにない濃度で舞い上がった。
「お祓いとか、除霊とかのほうがよかった……って、いっぱい後悔してください」
燈子はもう一度、振り上げ、振り下ろす。
そのたびに、闇の中で何かが壊れ、舞い散り、吐き気をもよおす異臭を巻き上げた。
暗視モードの中では緑と黒と白のみだが、そこに赤や茶色が混ざっていることが嫌でも想像できた。
まさか。
まさか。
ぼくさえ、その光景を見たくなくて結論を頭が拒否していたにもかかわらず、燈子が言ってのける。
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