嗤うメビウス

澄石アラン

《DAY8 7月22日》 嗤うメビウス

結末


「起きてますか?」


 ゆっくりと覚醒しつつあった意識は、瞑目の闇の中ですっかり凍りついた。

 仰向けに眠る感覚、マットレスの硬さ、枕の高さ、肌に触れる掛け布団の手触り、柔軟剤の匂い。一人暮らしの自分の家、自分のベッドだ。

 そして、まぶたの薄皮一枚向こうから問いかけられている声は――間違いない。ぼく自身の声だ。


 その異様さに、目をひらいてはいけないと直感したのは幸運だった。


 目を閉じたまま、『それ』に気取られないよう神経をとがらせ静かな呼吸を繰り返す。

 それでも心臓がばくばくと打ち鳴り、身体はじっとりと汗に濡れていた。二十六度の連続運転に設定していたはずのエアコンの稼働音が、いまは聞こえない。

 遠く遠く、抜け駆けした蝉一匹の鳴き声が響いている。早朝なのだろう。


 他には……と耳をそばだてたすぐ横で、ぎいと床が軋んだ。続けて、布がこすれ合う音と共に脇腹、さらに顔の間、足首の横とベッドが沈む。

 脳裏には、ぼくの顔をした多脚の『それ』が、寝たふりを決め込んだぼくの無防備な身体に覆いかぶさっている様が浮かんでいた。


 想像を肯定するがように、顔の真上から声が注がれた。


「起きてますよね?」


 すー……すー……と『それ』の吐息が浴びせかけられる。血と肉と汚物をまぜこぜにした死の臭いに呼吸は乱れた。えずきそうになるのを必死でこらえる。


 悪臭を吸い込み、唇の下で歯を食いしばりながら、規則正しく呼吸をすることに専念する。眼球運動さえしないよう体から力を抜いた。大の字のまま、無防備を努めた。

 ベッドという自陣の最深部まで侵略してきた得体の知れない相手に対して、大の字のまま震えあがり、どうにか見逃してもらえることを祈るしかなかった。

 餓えた猛獣の前で死んだふりをするほうが、いくばくか余裕があったかもしれない。


「起きてますよね。わかってるんですよ」


 『それ』はぼくの畏れを知っていると言わんばかりに、もっともあり得るはずのないぼくの声で喋りかけてきた。この異常な状況がぼくの精神にみしみしと牙を立てている。


 これは、夢うつつが見せる悪夢なのかもしれない。目を閉じているうちに深い眠りに落ちるかもしれない。そうであってくれ。

 祈りとは裏腹に、呼吸のたびに酸素が巡り、思考が明瞭になっていく。五感さえぼくの味方ではないのか、身体の上にいる『それ』が覆いかぶさって覗き込んでいるという現実を突き付けてくる。

 そうなると今度は想像力が働き、これから自分がどのような目に合うのか、赤黒いイメージばかりがどんどん膨らんだ。

 あっという間に、冷たい汗と輪郭の太い恐怖が全身を包んでいた。


 そのまま――十数分ほど経った頃だろうか。もしかしたら数分、数十秒とも思える。気の狂いそうな時間だった。


 やがて、みし……という軋みと共に死臭が遠のいたのを感じた。

 呼吸のストロークをわずかに大きくして、ようやく清浄な空気を胸いっぱいに吸い込み、身体から穢れた空気を押し出す。嗅ぎなれた寝室の匂いは爽やかなものではなかったが平常心をもたらした。

 それを糧に、薄く、薄く、目を開く。そこには薄暗い部屋、見慣れた天井とカーテンの隙間から入り込む青い光があった。夏の早朝の色だ。


 安心はできなかった。

 ぼくの声を模した『それ』が、極めて悪質であることは、ここ数日間で嫌と言うほど思い知らされていた。


 唸りながら寝返りを装い、体を横向きに倒した。部屋の中を窺うためである。

 薄い視界と脳内の日常を照らし合わせてすぐさま、ああ――と心の中で嘆き慄いた。自分の警戒心は正しかったのだ。


 黒く、天井を擦りそうな影が部屋の中央に立ってぼくを見下ろしていた。

 『それ』の頭部はやはりぼくのつもりなのだろう。ぼさぼさの黒髪に黒ぶち眼鏡をかけている、それだけが共通点だった。

 緑がかった灰色の肌には黒い血管と茶色い水疱が浮かび上がり、両目は真っ黒で右側だけが口よりも大きく開いている。一番下の穴には血の中に白い小石が整列していた。

 その穴から、ぼくの呻き声がだらしなく垂れる。

 顔面を小刻みに震わせながら、顎に配置された穴で弧を描いては楕円にすぼめてを繰り返す。皮膚とその下の筋肉が剥離し表情筋が蠢いていた。


「いる、いる……いっぱいい、る」


 呻き声が次第に大きくなり、とうとう赤子の産声のように、みっともなく喚き散らしはじめた。

 ぼくの尊厳をいつまでも弄ぶ『それ』の首の動きが次第に速度を増していく。ぶるぶると皮が揺れ、黒い液体が飛び散る。

 もはや滑稽とさえ思えはじめたころ、その姿は切り取られたかのようにぱっと消えた。


 シン……と静まり返る。


 突如、カンカンカンカン――と、けたたましい警告音が静寂と緊張を叩き潰し、耳に残る『それ』の残響をも打ち消した。


 ぼくの家は線路沿いの安アパートの二階で、踏切の騒音が日常茶飯事だった。

 やがて、始発電車が来る。轟々と鉄の箱の音、地響きが通り過ぎ、カーテンから差し込む光が幾度も分断された。


 いつもなら毒づきながら二度寝するその音に、どうしてかぼくはこの上なく安心感を覚えた。

 人の行き交いが、生活のはじまりが、わずかに差し込む視線の介入が、得体の知れない何者かを払ってくれたように感じられた。


 それでもぼくは警戒を解くことができず、何度かの寝返りと生唾の嚥下の末にやっとのことで両目を開いた。

 そこにはいつもと変わらぬ顔をした青白い朝と、ただ起床しただけで神経衰弱したぼくがあった。


 疲弊しきっている。

 体も、頭も。

 だが、再び横になって目を閉じる気になどなれない。次こそは目を開くことさえできなくなりそうだ。


 ブレーカーが落ちていた。落とされていた。

 エアコンを稼働させ、1DKの狭い家を歩き回ってすべての照明を点けて回った。部屋の中に漂っていた不気味な気配を濯ぎたかった。

 しかし、窓とカーテンに手を付けることはできなかった。


 ぼくは知っている。

 『それ』は去ってなどいない。方法を変えただけだ。獲物を憔悴させ、苦しめることこそが本懐なのだ。いまもなお、着実に追い込まれている。


 ――終わってくれ。


 願いながら玄関の扉を見やると、まさしくそのタイミングでインターホンの音が鳴る。

 ばくん、と心臓が跳ね上がった。

 終わらせはしない。そんな返答のように聞こえた。


 老朽化した床を軋ませないよう、ゆっくりと歩きドアの前に立つ。

 見られているのかもしれない。ぼくの警戒心など無駄といわんばかりに、ドア越しに声がかけられた。

 それはぼくの声ではなかった。


「おはようございます、吉瀬さん。おはようございます。もう大丈夫ですよ」


 よく知っている、無機質で少し陰気な口調。夜闇のような穏やかな声。


「わたしたちは助かったんです――だからこのドアを、開けてください」


 ドアスコープを覗く。

 長い黒髪、黒服の女が、こちらを覗いていた。

 夏空の光を背負い、穏やかに微笑んでいる。カメラに収めたくなるような、綺麗な光景だった。


「このドアを開けてください、開けてください」


 ぼくはを信じることにした。他に頼れるものもなかった。


 同時に、ぼくの脳裏にはこれまでのことが走馬灯のように駆け抜けていた。

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