第150話 <<リナル国の陥落 ー東の大陸 サティナ姫ー>>

 険しい岩肌を登る手が血で滲んでいる。


 荒い息を吐きながら、宮殿育ちで固い物など触った事もないような白い手で岩を掴み、体を持ちあげる。この急峻な崖だけが今や唯一の脱出路である。


 「姫、もう少し頑張ってください。もうじき頂上ですぞ」


 後ろから付いてくる老兵が声をかけた。

 重い鎧は途中で脱ぎ棄ててきたらしい。

 年寄りとは思えない筋肉質の身体に汗が光っている。


 リナル国王女フォロンシアは、背後に遥か遠くで煙を上げる街を見た。木造家屋の多い平民街の方から火災が広がっているようだ。あの美しかった王都が今や炎と煙に覆われている。


 城門を打ち破って王都に東マンド国の兵が侵入した後、王宮内で戦いが始まったのはすぐだった。

 リナル国建国以来、王都内での戦闘は初めてであり、王宮の守りはそれほど強固ではない。城門を突破されれば王宮で敵を防ぐ手立てはもはやなかった。


 「姫、立ち止まらず手を動かしてくださいませ!」

 足元で老兵の声がした。先王の時代から王家に忠節を貫いてきた老騎士ベガオルドである。


 「わかっています。でもこの光景を目に焼き付けておきたいのです。あそこには父王と母が残っているのです」


 激しく黒煙を上げて燃えているのはリナル国宮殿の尖塔だろうか。あそこは最後の砦だった。王宮内で唯一堀で囲まれた巨大な石塔であり、父と母である王と王妃が立て篭もったはずだった。


 「ベガオルド様、追っ手が迫っています。我々は時間を稼ぎますのでお急ぎください」

 若い騎士の二人が老兵を見上げて叫んだ。


 「姫、敵です。急いでください!」

 崖を下りていく二人の気配に唇を噛んで、ベガオルドは姫を急がせる。


 だが、王宮育ちの姫の動きは余りにも遅い。

 見る見るうちに追っ手が這い上がって来る。

 崖を登ってくる敵兵は20名ほどか、既に下りて行った二人の騎士の姿は見えない。崖の下に集まってきた弓兵に射られたのだろうか。


 リナルべ山脈から続く枝尾根の山頂がもう見えている。姫はあと数回手を動かせばその頂きに手が届きそうだ。

 山頂に到達できれば山裾にそって森の中を西へ逃亡できるはずだ。


 ガツン!と老兵の足元に敵兵の槍が突き立った。


 「むん!」

 ベガオルドは足元の岩壁を蹴って、真下の敵兵に石を落す。

 顔面に石を喰らった兵が崖下に落ちて行った。


 だが、まだまだ登ってくる敵兵の数は多い。急がねば。

 上を向いたベガオルドの右肩に急に熱さを感じる。見ると肩に矢が突き刺さっている。


 「姫! 弓兵です、早くお逃げください!」

 叫ぶベガオルドの左足に矢が刺さる。

 姫の左右の崖にも次々と矢が突き立った。


 敵は姫の捕縛から殺すことに方針を変えたようだ。

 あと少しだというのに、姫が矢に命を絶たれる方が早いのか。


 「もう少しですよ。ベガオルド!」


 姫の顔に希望が浮かぶ、あともう少し岩をよじ登れば山頂だ。山頂の向こうには狭い高原があり、走って森に逃げれば。そう思って振りかえった目に既に動けないほど負傷しているベガオルドの姿が映る。


 下からの矢の攻撃を防ぐため、身を挺して姫を守っていたのだ。数本の矢を受け、彼は既に岩壁に張りついているのがやっとの状態だ。


 「お逃げください! 姫……」

 「ですが!」

 「私に構わず、登るのです! 王家の血を絶やしてはなりませぬ!」

 その声に姫は唇を噛み、表情を強張らせて上へ手を伸ばす。


 「もう少し……」

 背伸びした姫の手が山頂の岩に届こうとした瞬間、掴もうとしていた岩に矢が突き立った。


 「あっ!」

 思わず驚いて指を岩にかけそびれた。


 急峻な岩肌で、手をかけるべき岩が掴めなかった。それは死を意味する。姫の体が岩壁から離れて宙に浮いた。その上半身が崖下へと落ち始める。


 追っ手の兵士たちの顔についに仕留めたという笑みが浮かんだ。


 ダメ! 岩壁を掴む方法がない。落下死という最後が脳裏に浮かぶ。同時に姫を逃がすために塔に残った王と母の顔が浮かぶ。


 目に映る空は青い、だがそれは絶望の色だ。姫の手が何もない宙を泳ぐ。御免なさい父上、母上……!


 その時だ、突然姫の耳に力強い声が響いた。

 

 「フォロンシア王女!」

 ふいに崖の上から誰かが呼んだ。


 落ちかかって虚空に向かって広げられた姫の手を、ガッと掴んだ者がいた。


 「え?」

 身体がその腕一本でかろうじて支えられた。


 「今、お助けします、ご安心なさい」

 崖から身を乗り出して微笑んだのは初めて見る貴公子だ。


 その笑顔を見た瞬間、もう大丈夫だと安心を覚えたのはなぜか、フォロンシア王女自身にも分からない。だが、彼の瞳を見ただけで安心感と不思議な優しい気持ちがその心を一杯にした。


 「王子、片づけてきますぜ!」

 その左右から身体に綱を巻いて、曲剣を手にした男たちが、崖を滑り落ちるように飛び出した。


 砂漠の荒れ地を縄張りにするサンドラットはこんな岩山での強襲はお手の物である。


 うわああああーーーー!

 ぎゃああああーーーー!

 身動きが限定される崖で、上方から強襲を受けた兵たちが次々と落下していく。


 その間にフォロンシア王女は崖の上に引き上げられた。


 「ご無事ですか? お怪我はありませんか?」

 王女を気づかうのは眉目秀麗な青年である。


 スカートが大きく破れているのに気づいて思わずフォロンシアの頬が染まる。

 彼は少し血が滲んでいる足首に包帯を巻いた。


 やがて敵を蹴散らした男たちが綱を登ってきた。


 「ベガオルド!」

 そのうちの一人が抱えてきた老兵の姿をみて王女が駆け寄った。


 「姫、ご無事で何よりでございます……」


 「ベガオルド! お願いです。ベガオルドを助けてください!」


 「大丈夫です。このくらいの傷であれば我々はしょっちゅうですよ」

 そう言いながらムラウエがベガオルドに薬を飲ませ、手際よく矢傷に薬を塗って包帯を巻く。


 「メルスランド様、ここは急いで撤退しましょう。あとはサティナ様にお任せして大丈夫でしょう」

 ムラウエがベガオルドの傷を縛りながら見上げた。


 「え? メルスランド? サティナ?」

 フォロンシア王女はその青年を見上げた。


 メルスランドは東マンド国の王子の名だ。それにサティナとはあのドメナス王国のサティナ姫のことだろうか? 突然の事で困惑するフォロンシア王女を見て青年が微笑んだ。


 「困惑しちゃいますよね? 私も同じですよ。まったく。こんな事になるとは」


 「さあさあ急いで、馬を準備しました。砦まで駆けますよ」

 どこに隠していたのか、ムラウエとその部下たちが馬をひきつれて現れた。



 ーーーーーーーーーー


 対岸の山頂からムラウエたちが移動するのをサティナは見ていた。


 「どうやらうまく行ったようですね」

 遠眼鏡で見ていたマルガがつぶやく。


 「あとは、陽動の意味で奴らに幻覚を見せるだけね」

 サティナは指を立てて構えた。


 追っ手の兵は未だに崖を上ってきているのだ。


 サティナ姫は唇に指を当て、指を回しながら魔法陣を描き、崖に向かって解き放つ。幻覚を見せる闇術なのだろうが、マルガには何をしているかさっぱりである。


 だが、追っ手の兵士たちの目には崖から落ちるフォロンシア王女の姿が見えている。


 「落ちたぞ!」

 「急いで確認しろ!」

 王女の姿は崖下を流れる河に落下し、大きな水柱が上がったのが兵士たちには見えた。

 途中まで登りかけていた兵たちが急きょ下りはじめ、河縁に集まり始める。


 マルガは一部始終を見ていたが、なぜ敵兵が下りて行くのかわからない。マルガには落ちて行く王女の姿は見えなかったのだ。


 「死体が河から見つからない場合も多いから、これで、王女の生死は簡単には分からないでしょうね。私たちも戻るわよ、マルガ」


 「はい。了解です」

 サティナ姫のやる事をいちいち気にしていては彼女の副官など務まらない。二人はそっと茂みを抜けて馬に乗った。

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