第 6話 決意、そして忍び寄る闇

 ーーーーーーーーーー


 朝日が瓦礫の隙間から漏れている。


 眼を開けても、そこに愛しい妻たちの顔はない……。


 あの時、あんな船に乗りさえしなければ……。


 こうなったのは自分のせいだ。二人の美しい妻、そしてちょっとお転婆で可愛いサティナ姫。あの愛すべき笑顔に再び会うため何としても生き延びて、国に帰らねばならない。そう、あの純真なサティナ姫を望まぬ形で変態貴族の好きにさせてなるものか。


 ひび割れた天井を見つめていた俺はぐっと腹に力を込め身を起こした。


 「ヨデアス、どうだ? 傷は痛むか?」


 返事は……ない……


 隣を見ると、老騎士は既に冷たくなっていた。

 そこにあるのは最後まで騎士の誇りを忘れなかった男の顔である。誇り高き騎士は神々しく逝ったのだ。獣化が見られるが、その厚い手はどれだけの人を救ったのだろう。

 

 「俺は必ずここを脱出する。ありがとうヨデアス、俺はけしてあきらめない。くじけそうになっても前へ進む」

 それは誓いだ。

 俺は片膝をついて両手を組み、静かに旅立った歴戦の勇士に感謝の祈りを捧げた。わずかな付きあいだったが本物の誇り高い騎士に出会えたこと、俺は忘れない。


 ーーーードメナス風の自己流だが、彼に騎士として最低限の葬送を行った。そして隠れ家にしていた瓦礫を崩し、入り口を塞いでそのまま埋葬する。

 この硬く締まった大地は素手や小石では大きな穴など掘ることもできないのである。まともな埋葬すらしてやれないのだ。


 「すまない。ヨデアス、安らかに眠れ」

 俺は騎士として祈り、そして彼に最後の別れを告げ、その場を立ち去った。……後ろは振り返らない。



 ◇◆◇


 少し遠いが、このまま次の隠れ家に移動する。

 色々な思いがよぎるが、早くこの場所を離れないと今度はこっちが死ぬことになる。

 一か所にあまり長居はできない。長く住むと臭いが残る。ここには少々長く居過ぎた。


 魔獣は臭いに敏感だ。俺の臭いを嗅ぎ分けて、足跡を辿って追ってくる可能性もある。うまく臭いを掻き消すようなルートを行かないと、いつどこから魔獣が迫ってくるかわからない。


 俺は帝国兵が残飯をぶちまけていく通りを何回かジグザクに横断し、残飯や他の臭いに自分の臭いを紛らせてから目的地に向かった。


 隠れ家の候補地は前もって既に何か所か目星をつけてある。


 次は比較的乾燥した場所にある廃屋が候補地だ。土が乾燥した場所にしたのは、なんとなくじめっとした穴倉では病魔に侵されそうな気がするからだ。


 この土地で恐ろしいのは魔獣や帝国兵ばかりではない。

 老騎士をむしばんでいた獣化の奇病がそれである。

 ヨデアスやトムのように、ごく普通の人間が獣や幽鬼のような姿の魔獣に変化してしまう奇病が流行している。魔獣に噛まれたり、その血に触れたりした者に発症する率が高いが、そんな経験がない者ですらある日突然発症したりする。この大地そのものが汚染されていると言う者もいたが原因は不明だ。


 同じ船に乗っていた仲間たちで、最初の魔獣の襲撃を生き延びた者たちも次々とその奇病に倒れていった。


 最初は手のひらが肉球のように腫れ上がり全体に毛深くなる。やがて眼球が張り出し、病的な顔つきになって生存本能のみに忠実になる。そして最後には完全に理性を失う。トムのように完全に獣のような姿になるのは稀だが、心を失い、まさに獣と化すのだ。


 今のところ、俺はどこにも獣化の兆候はないが、万が一獣化が起きたら人として終わりだ。運よくここを脱出しても人としては生きられないだろう。当然、東の大陸に帰ることもできなくなる。


 目覚めとともに体の異常を調べることが俺の毎朝の習慣になっている。あちこち確かめ、獣化の兆しがない事にホッとする。いつも一か所だけあまりに元気過ぎる所があるが、それは若い証拠だから良いだろう。


 ーーーー現在地を確認するため、遠くまで見渡せる崩れた廃墟の屋根に上ると、都市の概況が良くわかる。


 東には都市を取り囲む城壁が南北に連なっている。周囲は一面の焼け野原、所々大きな陥没穴があるのは、砲撃の跡か魔法攻撃によるものだろう。

 西はヨデアスが言っていた街の中心部の方角だ。遥か彼方に塔が見え、そのずっと手前には重犯罪人地区を隔離するための高い塀が延々と伸びている。


 ヨデアスが示した逃げ道はまだまだずっと北だ。


 「ぎゃひぃいいいーーーーーー!」


 ふいに甲高い悲鳴が聞こえた。

 視線を戻すと、道路を逃げる人影とその背後を追う魔獣が見えた。だめだ、あれでは追いつかれる!

 心拍数が上がり一瞬足に力が入るが、いや無理だ、ここから助けに行ったとしてもとても間に合う距離ではない。第一、今の俺には何の力も無い。

 そう思った瞬間、あっと言う間に後ろから飛びかかられ、転がる人影に数匹の魔獣が群がった。

 その無残さに思わず目を反らす。


 残忍に食い殺されている囚人の脇を帝国軍の馬車は全く速度も落とさず、平然と通り過ぎていく。奴らには囚人の死など風景の一部なのだ。

 

 その向こうでは幽鬼の群れが獲物を求めて同じ方向にゆっくりと歩いていた。

 まもなく新たな収監者が到着する時刻なのだろう。さっきの馬車はその出迎えか。どこで馬車から降ろされるかは日によって変わるが、幽鬼は本能的にそれを察知しているようだ。

 

 まだ、病に侵されていない仲間を得るチャンスだが、一度近づいてこっちが死ぬところだった。やはり魔獣が群れる場所に近づくのは危険すぎる。

 勇敢と無謀は違う。

 今の俺はあまりにも無力だ。人を一人助けることすらできない。自分が殺されないようにするだけで精一杯なのだ。残念だができることは何もない。


 ーーーーーーーーーー

  

 俺は2日かかってようやく新しい隠れ家に到着した。

 途中拾った小さな鏡の破片に顔を映してみるが、ひどい顔だ。手首に巻いていた蔓を解き、秘蔵の金属片を取り出して髭を剃る。親指の爪ほどの破片だが、これはおそらく戦闘で欠けた長剣の刃の一部だ。


 元からと言えばそれまでだが、これではとても容姿端麗な美青年とは言い難い。ごく平凡というのが、俺の風貌に対する大方の評価だろう。むしろ、その平凡さと存在感の薄さが、こうして俺が生き延びている理由にもなっているのだから皮肉なものだ。


 隠れ家を確保すると次は飯だ。

 崩れた瓦礫の隙間から腹這いで外の様子を覗くと、中型の魔獣がいた。六本脚の大トカゲのような奴が口から長い舌をせわしなく出し入りさせているが、幸いこちらには気づかずゆっくり遠ざかって行った。偶然ここに来ただけなら良いが、あれが周回しているようだと隠れ家としてはまずい。


 ここに投獄されてから、まともな食事は一切とっていない。


 一日一回見回りに来る帝国の装甲獣車がゴミか残飯かわからないような代物をぶちまけていくが、正気を失った囚人たちはそれすら奪い合って食べている。


 魔獣化せずとも、ああなったらお終いだ。

 安全な食糧はたとえごくわずかでも自分で見つけるしかない。

 雑草や根、小動物や毒されていない泉に生息する水生動物といったところだ。かつての住宅地の菜園跡には野生化した野菜が稀に自生していたりするが、それは早い者勝ちだ。


 既に太陽は真上に差し掛かっている。

 俺は、東の城壁に沿って用心しながら歩いてきた。

 この一帯は一面に灰色の瓦礫が広がり、魔獣が普段餌にしている小型の獣が生息していないため、めったに魔獣はやってこない。


 通りの左右の物陰には、膝を抱えてうずくまる者たちがいる。

 まだ獣化が起こっていない者たちだが、そのやけにギラついた目が俺を見る。この付近に人が多いのは、魔獣が少ないのと水場があるためだ。奴らは人の姿をしているが既に正気とも思えない。いつでも逃げ出せるように逃亡ルートを考えながら歩く。

 

 城壁の隅に汚染されていない清水が湧いており、ここが目的地である。そこは外郭の城壁が自然の岩場を取りこんで造られている場所で、岩の隙間から清水が湧き出し、辺り一面に茶色の苔が繁茂している。城壁の向こう側は大きな貯水池があって、そこと亀裂がつながっているらしい。


 この清水にはカニのような甲殻類がいて、それが食用になる。周辺に繁茂している苔は乾燥させてトイレで用を足したあとに使うことが多く、使い心地は良い。むしり取っていく者が俺の他にもいるらしく、丁寧に四角に切り剥がされている所もある。


 不意に奇妙な叫び声が瓦礫の向こうから聞こえ、続けて、何かを殴る音と悲鳴が上がる。

 見るまでもない。獣化する手前の正気を失った者たちが争っているだけのことだ。これがこの街の日常風景である。




 ーーーーその水場には先客がいた。


 「おおっ、ボルンじゃないか! 生きてたのか!」


 見覚えのある男である。懐かしい顔に思わず駆けよったが、顔を上げた彼を見た途端、嬉しさは急降下した。

 その顔には既に異常が垣間見えている。


 「まさか、アルベーロの若旦那ですかい? 旦那はまだ正気ですかい?」

 どうやらまだ俺の事は覚えていたようだ。


 だが、久しぶりに会ったと言うのにその反応は鈍い。既に感情が擦り切れているようだ。


 収監の日、彼らの馬車は俺たちとは違う場所に向かった。最後の街で別々の馬車に乗り込んだのが彼とトムを見た最後である。


 「ああ、俺は大丈夫だ。それにしてもよく無事だったな、ボルン。お前こそ大丈夫か? どうした? しっかりしろ、正気を失えば終わりなんだぞ」

 だが、ボルンは力なく首を横に振った。


 黒光りする筋肉と上腕の碇のタトゥがボルンの素性を物語っている。俺が乗った船のベテランの船乗りだ。彼は船員で生き残っている数少ない一人だろう。だが、顔色が非常に悪く表情が無い。今はまだ正気のようだが、果たしてあと何日持つだろうか。


 「このところずっと頭痛がひどくてたまらねえ、それにこの街は土の毒気が半端ねえ、体力はともかく、あと数日正気でいられるかどうかですぁ」

 ふへふへ、とボルンが奇妙な笑い方をする。


 「そんな気弱な事を言うなよ。元水夫長だろ、気持ちをしっかり持てよ。他の仲間はどうした? 船長は?」

 周りを見回すが、ボルン意外に見知った顔はない。


 「聞くまでもねえでしょう?」


 「えっ? そうか……そうなのか……」

 船長のグローラ、料理長のドッパス、元騎士くずれの水夫ダラシナ、みんな死んだのか。俺よりも腕っぷしが強く、百戦錬磨の海の男という感じで、生存率が高そうな連中ばかりだったのだが、彼らですら生き延びられなかったのか。


 「そう言えば、旦那、これを……トムが、あいつが出ていっちまう前に旦那に会ったら渡してくれと残していったものでさあ」

 そう言ってボルンは尻に敷いていたぼろい長靴を取り出した。


 「これをトムが?」

 そう言いながら、胸の奥がチリチリと痛む。あいつがあんな風になって、あんな死に方をするとは……。脳裏に彼の姉の姿が浮んで、忘れようとしていた切なさが込み上げる。


 だが、それはボルンには言わない方が良いだろう。トムはボルンの部下だったのだ。彼がどこかでまだ生きていると思っている方が辛くないだろう。


 「ええ、足が膨れてきてもう履けなくなったとか、そんなことを言っていましたぜ。あの生意気坊主、今頃は、どこで何をしているのか」

 ボルンは遠い目をした。


 「トムの長靴か、ありがたく貰っておくよ」

 俺は穴の開いたぼろ長靴を受け取った。抱きしめると胸が痛んでくる。


 トムに託されたわずかな使命感、それがボルンの精神を辛うじて繋ぎとめていたのかもしれない。俺に長靴を渡すと、うつむいて何かブツブツ言い始めた。


 見渡す限りの土色の世界、この汚染された土地では免疫力のない人間は遅かれ早かれ正気を失うか、獣化してしまうのだろう。


 「ボルン、お前は勇敢な船乗りだろ、気をしっかり持つんだ。俺と一緒にこの地獄から逃げだそう」

 俺は苔の水分を口に含んで渇きを癒しつつ、ボルンを横目で見た。彼の筋力があれば俺以上のことができる。頭さえまともならば、かなり力強い仲間になってくれるはずだ。


 「ひひひ……逃げる? 無理でさあ、腹が減って、気力が削がれるんですぁ」

 その表情が冴えない。

 笑っていたことすら覚えていないようだ。その瞳に一瞬狂気の色が見えたような気がした。


 「そうだな、何か食い物があれば少しは気力が戻るかもな」

 俺はボルンの隣に座った。

 少しでもお互いに会話をすれば、彼の精神状態も安定するのではないだろうか。


 「こっちに流れ着いて何か月だろうな? 西の港が恋しいよ」


 「西の港ですかい? ……ミミッカの街の港から出航した時は、こんなことになるとは思わなかったですぜ。やけに報酬が良い仕事とは思ったが」

 「報酬が? 俺は急に目的地が追加されることはよくある事だと聞いていたんだが、いつもと違ったのか?」

 俺が北の街まで移動するために乗った船が普通の輸送船ではないことは薄々感じていた。税金逃れの密輸船だったのだろう。だが、それも珍しい事ではない。


 「たぶん訳ありだったに違いねえ。急な出航だったんでさぁ。船員名簿や船出の記録も提出していねえから、捜索もしていないでしょうぜ」

 急な出航、訳あり……やはり、いずれも謀略の影を感じる。王都で何度か見かけた大貴族たち、その高慢な態度を思い出す。そもそもが罠だったのだ。船を探していた俺に港の酒場で声をかけて来た男、今思えばあいつが大貴族の手先だったのだろう。


 「捜索か、そもそも俺たちの国はこっちとは国交が無い、救援は期待できないだろうな」

 

 ボルンは無言だ。


 「ボルンには、向こうで待っている人はいないのか?」

 「……」

 膝を抱えたボルンはブツブツと何かを言うだけだ。

 

 「この城壁の高さは、東の大陸では見たことがないよな」

 「……」

 だめか、何か自分の殻にこもってしまったかのようだ。


 何が彼をそこまで追い詰めたのだろうか。だが、それを聞けば彼の心の最後の糸がプツンと切れてしまいそうな気がする。


 俺は壁を背に空を見上げた。遥か上空に青い鳥の群れが同じところを何度も旋回しているのが見えた。鳥ですらこの街からは出られないのか。羽があっても逃げられない、それが運命なのだろうか。


 俺がもたれかかるこの巨大な石壁は、元は王都を囲む城壁だ。その硬さ、居心地の悪さは、この王都だった廃墟の気配そのものと言っていい。

 かつて人々の安寧を守った城壁は、今や囚人の逃亡を阻み、帝国の悪意を具現化した存在として人々を威圧している。

 都市の周囲を囲む巨壁だけが遠くまで見えている。市街地は廃墟と化しているが、遥か彼方に塔をはじめとする大きな構造物がきれいに見えているのは天候のせいか。


 あの辺りが老騎士ヨデアスが言っていた元王宮なのだろう。


 俺は少しでも空腹を紛らわせるために、水たまりを探してみるが今日は食い物になるような獲物はいない。カニや貝でもいればボルンに食わせることもできたのだが。


 諦めて再びボルンの隣に座った、その時だ。


 ガラガラガラ……と、突然大きな音を響かせ、帝国の一般管理用の馬車が石畳の残る通りを横切った。

 その薄汚れた荷馬車の荷台には赤黒い血が沁み込んでいる。

 積み荷は……見ない方がいい。


 ギラリと銀色の鎧が陽光を反射した。

 よく見かける帝国兵は下っ端なのだろうが、そのくせにやけに威圧的な態度で、ピカピカの鎧と槍を誇示しているのが嫌味だ。

 奴ら魔族からすれば人族などゴミ屑同様と言ったところか。


 今まで魔族と付き合ったことはないが、東の大陸では魔族は人を食う悪魔らしいという話がまことしやかにささやかれていた。

 しかし、こっちに来て魔族が人を食う所は見たことがない。おそらくあれは魔物がいつの間にか魔族に変わって伝わった話なのだろう。実際に目にする帝国兵は人間と変わらないが、その態度は傲慢で、碌な連中じゃないというのが俺の感想だ。


 「今日は、前魔王様の偉業を讃える日である! 囚人ども! 貴様らにもお恵みだ! 食らうがよい!」

 通りのど真ん中で一旦停車した馬車の上で帝国兵は大声で叫び、バッとバケツに入った何かをぶちまいた。

 

 投げられたそれが地面に落ちるよりも早く、物陰に潜んでいた者が我先にと殺到した。


 「うおおおおお……!」

 ボルンも不意に立ち上がり、叫んだ。


 「ボルン! それはやめとけ!」


 だが、俺の声は届かず、俺の手を振り切ってボルンが飛び出した。ボルンはまるで獣のように走ると、群がる者たちを押しのけ、得体のしれない何かを奪い合う。


 「ひゃはははは! 飯だ! 食い物だ!」

 ボルンは口に変色した肉片らしき物をくわえて振り返る。凶暴化した顔つき。その瞳にもはや理性は無い。


 しかし、それは一瞬だった。

 「ぎゃああああ!」

 ボルンの姿が殺到した人の群れに飲み込まれ、そこから噴水のように真っ赤な血飛沫が吹き上がった。断末魔の声は間違いなくボルンのものだ。


 「え?」

 ボルンがあっけなく死んだ……のか?


 俺は立ちすくむ。

 だが、ここではそれこそが日常だ。ここで呆然としているヒマはない。


 「これはまずい、連中、獣化し始めている。すぐ逃げないと……」

 食い物に対する本能が獣化を早めたのか、それとも帝国兵が撒いた食い物に獣化を促進させる何かが混じっていたのか。


 次々と獣化し始めた人間が一片の肉を巡って恐ろしい殺し合いを始め、やがて共食いが始まった。

 まさに神官が説く終末の光景そのものである。


 「くそっ、俺はここを脱出して、絶対に生き延びる。必ずサティナや妻たちの元に帰ってやる!」

 俺は駆け出した。


 この絶望的な囚人都市で後ろを振り返ることは死を意味する。俺は振り返らない、絶対に生き延びてやる。


 「胸糞悪い大貴族の策略にはまったまま、こんなところで死んでたまるかよ」

 押し殺した声が自身の胸に響いた。それは自らを奮い立たせるためのもの。もはや暗示にも似た誓いだ。




 ◇◆◇


 「はぁはぁはぁ……………………」


 どのくらい離れたのか、後を追跡してくる獣はいないようだ。

 荒い息を吐いて、崩れかけた壁に片手をついて息を整える。肺が痛いくらいだ。


 ボルンも死んでしまった。俺が知る人間はもうここにはいないだろう。


 「くそっ、俺は絶対にここから逃げ出してやる」

 壁を叩いて呻くように言葉を吐いた。 



 「それは無理だろうな」


 「!」

 気配は無かった。ここまで逃げるのに臭いを残さぬように細心の注意を払ってきたはずだ。だが、背後に人の気配がする。しかもこいつは忽然と現れた。殺す気ならとっくにできたはずだ。こいつの目的はなんなのか?


 ゆっくりと振り返る。と、そこに鬼がいた。


 「私の顔を見ても驚かないか、面白い人間よ」


 鬼の仮面を被った男、おそらく魔族だろう。見たことも無い真っ黒な兵装で細身の刀を差している。


 だが、その気配はどこかで知っている。危険な暗殺者、闇の世界に生きる者が醸し出す独特の雰囲気だ。憤怒の形相の鬼の仮面がその異常な能力を物語っているかのようだ。

 

 「俺に何の用だ?」

 「ほう、誰だとは聞かないか。ますます興味深い奴よ。私の顔を見ても恐ろしくはないのか?」


 「何か用があるから殺さなかったのだろう? 違うか?」


 くくっ、とそいつは笑った。

 「お前、未だに獣化の兆候がないな。精神も狂っていない」


 「そうか? 狂っているから恐怖を感じていないのかもしれないぞ」

 「心拍数が上がっているくせによく言う。しかし、その平常心、見かけと違って芯が強いということか。この土地に対応した人間はレアだ、実に興味深い」

 男は腕組みして俺をじろじろと眺めた。


 「対応した? その物言い、お前は帝国の人間か? 俺たちを監視していたのか?」


 「ふっ、察しが良い奴よ」

 こいつは、今まで見て来た普通の帝国兵とはまるで違う。こいつらが重犯罪人地区の真の監視者なのか?


 「今までこそこそ隠れていたような卑怯者が、俺に何の用なんだ?」


 少し気配が変わった。もちろん危険な方にだ。


 「その無礼な言葉は聞かなかったことにしよう。俺はお前に興味がある。ここまで生き延びた人間、もしかするとお前が我々の探す人間なのかもしれん。要件はこれだ、手短に済まそうじゃないか」

 キラリとその手に銀色の針が光る。

 指に挟んでいるのは注射器のようだ。まずい、こいつの目的は……想像は容易だ。あれが栄養剤な訳が無い。


 「これを打っても、お前が人間の精神を保ったまま完全獣化してくれればうれしいのだがな」

 「バカなことを言う!」

 俺はとっさに逃げようとしたが、そいつの動きはあまりにも速かった。


 「ぐはっ!」

 肺が潰れそうだ。一瞬で後ろから首を羽交い絞めにされた。その剛腕はどんなに引きはがそうとしてもびくともしない。


 「か、完全獣化だと?」

 「なって見れば分かる。今までも姿だけは成功した例もあったのだがな、どうしても心が壊れる。失敗作ばかりでな」 

 注射針が剥き出しの上腕に近づく。


 「き、貴様らがトムを……」


 奴の言葉にあのトムの最後がフラッシュバックした。あれが完全獣化の姿だとしたら、こいつが今失敗作と言ったのはトムたちのことか! よくも! あいつを!


 血がたぎった。歯を食いしばって、両足に全身の力を込める。自分でも信じられないほどの力が湧き上がり、両足が壁を蹴っていた。仰け反った俺の腹の紋が光った。


 「ぐっ、人間のくせにどこにそんな力が?」

 そいつは何かに痺れたように俺の身体を離し、数歩飛び退いた。


 ゲホッ、ゲホッ!

 咳き込む。奴の手は離れたが喉が潰されたように痛み、呼吸がようやく重い息をつく。


 「その力、やはり適合者なのかもしれん。大人しくしてもらおうか」

 鬼の仮面の奥でその目が危険な色に変わっていくようだ。注射器を一旦腰のベルトに戻し、俺を捉えようと両手を伸ばす。


 奴が動いた。


 相変わらずその動きは俺の目には止まらない。

 だが、俺を捕まえにくることは分かっている。再度全身をばねのように使って、俺は闇雲に頭から突進した。


 衝撃が走って俺は後ろに吹き飛ぶ。


 だが、ざまあ見ろ! 俺を見くびって正面から抑え込みに来た奴も腹に頭突きを食らって後ろに下がった。魔族め、人を舐め切っているからそうなる。


 「俺の動きを見切ったわけでもあるまいに、往生際の悪い人間めが」奴は腹を撫でた。


 「うるせーー! そう簡単にやられるか、俺は生きてここを脱出してやる!」


 「愚かな! 少し痛い目を見ないとわからぬらしいな」

 そう言って、そいつは拳を構え低く腰を落とした。


 俺は片膝を立ててニヤリと笑みを浮かべる。


 「!」

 奴は動かない、俺に殴りかかるポーズのまま動きを止めた。

 そいつの足元に金属のチューブ状の物が落ちている。


 「き、貴様、まさか最初からこれを狙ったのか?」

 そのチューブは注射器の針を覆っていたカバーだ。


 剥き出しになった針が屈んだ男の太腿に突き刺さっている。

 別に刺さったからといって中の薬が注入されるわけではないだろうが、中身がヤバい薬だと知っているなら、さて、こいつはどう動くか。


 そいつはバッと注射器を抜き取ると地面に叩きつけた。中身と共に注射器が粉々になる。


 飛び散った破片が地面に落ちる前に、目の前からそいつの姿が消えていた。どうやら撤退したらしい。つまり俺に構っていられない事態になったということだ。


 「トムの仇だ、どうだ思い知ったかよ!」

 俺は唇の血を拭って立ち上がった。

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