桜の空言

魅鳥ライト

第1話

 閉ざされた窓の向こう側から、鳥の鳴き声が微かに聞こえてくる。

 重たい瞼を頑張って開きながら、枕元に置いてあるスマホの電源ボタンを押した。

 画面に表示された時刻は、セットしたアラームが鳴りだす10分前。

 いつもはアラームの喧しい音に叩き起こされるのだが、今日は珍しく、それが鳴り出す前に目が覚めたようだ。今日が卒業式だからなのだろうか、そう思うと、心なしか眠りが浅かった様な気もする。

 そんな事を考えつつ、俺はスマホを手放して仰向けになり、ぼーっと天井を眺めた。

 まだ寝ぼけているのか、頭が重たい。

 視界の隅で、閉ざされたカーテンの隙間から朝日がチラチラと顔をだしている。

 ゆっくりと息を吸う、一拍の間を空けて、それをゆっくりと吐き出した。全て吐き終えると、眠気を振りきるように、勢いよく上半身を上げた。

 体感ではおよそ、アラームが鳴り出す5分前。

 枕元にあるスマホを手にとって、セットしたアラームを解除する。

「面倒くさいな……」

 誰に言うでもなく、ボソリと呟く。

 ベッドから立ち上がり、俺はカーテンを思い切り開いた。

 眼が眩む程に明るい朝日を睨みつけて、俺は部屋を出た。

 キッチンから聞こえてくる、フライパンで何かを焼く音をBGM に、階段を下りて洗面所へと向かった。鏡に映る寝ぼけ顔の自分に挨拶をして、いつも通りのモーニングルーティンを済ませる。歯を磨き、顔を洗って寝癖を直す。その後自室で制服に着替えるまでが一連の流れだ。

 リビングでは母が朝御飯を作っており、食卓には既に作り終えた卵焼きが置かれていた。

「おはよう、ユウト」

「おはよ……」

 空腹を紛らわす様にお腹を擦りながら、雑に挨拶を返す。

「もうご飯できるから、お茶碗にご飯をよそって待ってなさい」

 母の言葉に、「んー」と適当な返事をかえして、キッチンの戸棚から自分の茶碗を取り出す。

 しゃもじを片手に炊飯器を開けると、宝石の様に煌々と輝く真っ白なお米が、湯気で挨拶をしてきた。この景色は何度見ても美しく、日本人に産まれてよかったと心底思える、数少ない瞬間である。

「お兄ちゃん、私の分もよろしく~」

 ご飯をよそいながら、日本の食文化に思いを馳せていると、いつの間にかリビングにやって来た妹から、ご飯の注文が入った。

「ユウト、俺の分もよろしくな」

 ソファーで新聞を読んでいた親父が妹に便乗してきた。

「何で親父の分まで……自分でやれよ」

「冷たい事言うなよ、会社じゃ人に指示できないんだから、家でくらい人の上に立たせてくれよ」

 遠い目をしながら、さらっと爆弾発言をする親父を見て、俺はこの男の様にだけはならないと固く心に誓った。

 それからおよそ数分後、ようやく朝食が全て出来上がった。今朝のメニューは卵焼きと焼き鮭に納豆、それと味噌汁に白米という、とても健康的でジャパニーズな朝食である。

 納豆を手にとって、無心でかき混ぜる。千回混ぜると液状化すると言うが、それは本当なのだろうか……今度暇な時にやってみよう。

 そんなくだらない事を考えていたら、「昨日はよく眠れた?」と母が話しかけてきた。

「寝れたよ」

 心配そうな表情を浮かべる母に、俺は少し無愛想に答えた。

「お兄ちゃんは緊張しいだから、ちゃんと寝れてないんじゃないかって、昨日凄く心配してたんだよ?」

 妹のユカが、小馬鹿にするような口調でそう言ってきた。

「何歳だと思ってるんだ、遠足前の小学生じゃあるまいし、高校生も今日で終わりだぞ?」

「でもさ、四捨五入したらお兄ちゃんはまだ0歳でしょ?」

「年齢を四捨五入すんな、ていうか、何で十の位を四捨五入してんだよ」

 49歳以下は全員0歳というとんでも理論に、さすがのお兄ちゃんも驚きを隠せない。

「しかし、ユウトも今日で高校卒業か……早いもんだなぁ」

 道中はとても長く感じるのだが、過ぎてしまえばとても短かった様に感じてしまうのだから、時間というのは不思議な物である。

「我が家の長男の卒業式だもん、今日の晩御飯はきっと、豪華なお寿司とか焼き肉だよね!」

「おいユカ、さらっと勝手に二種類に絞るな」

「よし、それなら焼き肉にするか?ユカは何のお肉が食べたいんだ?」

「私は牛タンが食べたいなぁ~、あとホルモン!」

 さらに、親父の介入によって、今日の晩御飯が焼き肉に決定してしまった。お兄ちゃんはフライドチキンとかピザみたいな、アメリカンな食事をしたいんですが、提案もできないんですかね。というかそんな事よりも、もっと深刻な事を今、聞き逃した気がする。

「ちょっと待て、焼き肉なのはいいけど何で肉の種類をユカに聞いてるんだ、主役は俺だろ!?」

 俺の言葉は二人に全く届いていない、どうやら主役には晩御飯を決める権利は無いらしい。いつだって世の中は、誰にでも平等に、理不尽なのである。

「ちょっと、早くご飯食べないと三人とも遅刻するわよ?」

 気が付けば、ご飯を食べ始めてから大分時間が経っていた。俺は慌ててご飯をかきこんで、さっさと食事を済ませる。

 こういう慌ただしい朝も、いつかは卒業してしまうのだろうかと思うと、理不尽に流れていく時間という物が、少しだけ疎ましく思えた。




 朝御飯を食べ終えた俺は、軽く身だしなみを整えて、何も持たずに学校へと向かった。

 入学してから三年間、当たり前の事だが、必ず何かしら荷物を持って学校へと行っていたせいか、何も持たないというのは、どこか寂しさすら感じてしまう。たかが鞄一つでこんなにも喪失感に襲われるとは……、そんな事を考えている自分がどこか可笑しくて、自嘲気味に笑みを浮かべた。

 家から学校までの距離は短く、歩いて10分程で学校へと到着する。

 明日からはこのルートを歩く事が無いのかと思うと、少し寂しさを覚えてしまう。

 流れていく景色はどれも見慣れた物ばかりで、しかしその全てが、どこか淡く見えてしまうのは、卒業式というイベントのせいなのだろう。

 高校を卒業し、正社員として会社に就職する未来の事を考えると、どうしても心が波立ってしまう。

 正社員として働けば、安定してお金を稼ぐ事が出来る。それはあまりにも当たり前の事だが、俺にはそれが、とても苦痛でならない。

 毎日決まった時間に起きて、決まった時間に出社して仕事をする。朝はすんなりと出社できるにもかかわらず、帰る時はそうもいかない。日によっては残業があったり、或いは、上司と飲みに行ったりしなければならず、それを終えてようやく家に帰ると、翌日に備えてすぐにベッドへと向かう。そんな日々を繰り返す人間は、果たして人間と呼べるのだろうか?俺にはそれが、社会の奴隷にしか思えてならない。

 そうなってしまったら、それはもう、人間として生きていると言えるのだろうか。

 そんな事を考えながら、学校へ向かって歩いていると、見慣れた公園の前に着いた。登下校時に必ず前を通るその公園には、卒業生達を祝福するかの様に、沢山の桜が咲いていた。

 そして、その公園に設置されているベンチに、同じ学校の制服を着た一人の女子生徒が座っていた。

 長く美しい黒髪と、幼顔のアイドルが羨む様な大人びた美貌を持つ彼女は、アヤサという名前で、小学生の頃からの幼馴染みだ。彼女とは家が近く、家族ぐるみの付き合いもある。

「こんなところで何してるんだ?」

 ベンチに座るアヤサに近づきながら、俺は声をかけた。

「別に……ただ桜を眺めていただけよ」

「遅刻するぞ?」

 スマホで時間を確認すると、集合時間まであと二十分程しか無かった。

「HRなんて、少しくらい遅れても問題ないわ。卒業式前にベンチに座って桜の木を眺めていられるのなんて、今この瞬間だけなのよ?こっちの方が大事よ」

「さすが漫画家志望、ロマンチックな思考回路だな」

 アヤサは少女漫画家を目指しており、それ故なのかわからないが、時折こういった謎思考に陥る時がある。

「馬鹿にしているの?」

「してねーよ、むしろいつも通りのお前で少し安心した」

 どれだけ時間が経っても、変わってほしく無い物というのは幾つか存在する。それが確認できると、何故だか少しだけ、ノスタルジックな気持ちになる。

 そんな事を思いながら、俺はアヤサの横に座って、同じ様に桜の木を眺める。

「結局あなたは、進学せずに就職するの?」

「特に学びたい事も無いのに、大学に行ってもしょうがないからな」

 そう答えると、アヤサは少しだけ表情を曇らせた。

「でも、高卒と大卒じゃ生涯年収が大きく変わってくるわよ、それだけでも行く価値は十分にあるんじゃない?まぁ、今更言ってもしょうがない事だけど」

 どうやら、俺を心配してくれているらしい。それは俺が幼馴染だからなのだろうが、こういう時に少しだけ、彼女には嫌気が差してしまう。そんな感情を抱く自分が、俺は大嫌いだ。

「確かにな……でも、そうじゃないんだよ」

 高卒と大卒で生涯年収は大きく変わると言う、多くの場合でそれは正しい。全ての人間が同じ職業に就くわけでは無いので例外も多く、特に今の時代はそれが顕著に表れるだろうが、この際それは置いておこう。

 確かに、大学に通えるのであれば通った方がいいだろう、それは例外なく当たり前にそうなのである。しかし、その当たり前が、俺には虚言の様に聞こえてならない。

 高卒は給料が低くて可哀想だとか、大卒の人間は高卒よりもスペックが高いだとか、当たり前を当たり前として、何の疑問も持たずにそれを受け入れてしまうこの世界のシステムが、俺には生き辛いのだ。

「お前と違って俺には人生の目標も夢もない、それは大学に通ったとしても変わらない。それなのに、親に頼んで大学に通わせてもらうくらいなら、さっさと就職して独り立ちした方がマシだ」

「そう……あなたらしい答えね。でも、絶対に変わらないなんて事は無いと思うわ。夢とか目標って、そんな簡単に見つかる物じゃないわ、私はあなたに比べて、それが見つかるのが早かったと言うだけよ」

「なるほど、確かにそれは一理あるかもしれないな。でもさ、それを見つけて何かを頑張る自分が想像できないんだよ。そもそも、大学に通ってようやく見つけても、それって少し遅くないか?」

 俺がそう言うと、アヤサの表情が少しだけ険しくなった。

「確かにそうかもしれないわね、でも、少しは未来の自分に期待してもいいんじゃないかしら?あなたはいつもそうやって、すぐに決めつけてしまうけれど、そうじゃない未来だってあるかもしれないじゃない。あなたのそういう所、私は嫌いだわ」

「そうか、俺は……自分のこういう所が大好きだけどな」

 これは本心ではない、正直、俺は自分のこういう所が嫌いだ。

 だが、そうでも言っていないと、自分自身の生きている価値が見出せないのだ。俺の様な人間に、果たして本当に生きている意味があるのだろうかと、一体どれだけ自問自答した事か。そしてその結果、いつも決まって、俺みたいな人間は死んだ方がマシだと結論付けてしまう。

「あなた自身がそう言うのなら、私は何も言わないわ。ただ、これだけ覚えておきなさい」

 ベンチから立ち上がったアヤサは、俺を見下ろしてこう言った。

「もっと全力で生きた方が、人生は楽しいわよ」

 その言葉だけは何故か、虚言の様には聞こえなくて、少しだけ信じてみようと思った。




 あれから十五年後。

 俺とアヤサは結婚した。

 二人で喫茶店を経営しながら、今年で二歳になる息子と三人で生活している。

 しかし、漫画家になる夢を諦めていないアヤサは、定期的に漫画を描いては、新人賞に応募していた。

「私、今描いてる作品が駄目だったら、もう漫画を描くの止めようと思っているの」

 彼女が急にそう言いだした時は、少し寂しかったが、少しだけ嬉しくもあった。

「そうか……まぁ、頑張れよ」

 本当はもっと、色々言いたい事があったのだが、何故だか言葉が詰まって、何も言う事が出来なかった。

 その日を境に、アヤサは仕事を休んで自室に籠る事が多くなり、家の中での会話も殆ど無くなっていった。

 喫茶店の経営も、家の家事も、全てを一人でやり続ける日々が二ヶ月ほど続いた。身体的にはかなりきつかったが、それでもしんどいとは思わなかった。アヤサが夢に全力で挑んでいるのだから、人生のパートナーとして、俺も全力でサポートするべきだと思ったからだ。

 そうしてまた、いつもと同じ様に晩御飯を作り、アヤサを呼びに彼女の部屋の前までいった。

 ドアをノックして、アヤサに声をかける。

「晩御飯できたぞー」

 いつもならすぐ返事が返ってくるのだが、沈黙のまま、何も返ってこない。集中しすぎて返事が返ってこない事は今までにも何度かあったが、何故だか今回は、妙な胸騒ぎがした。

「アヤサ、どうかしたのか?」

 もう一度ノックして声をかけるが、先程と同様に沈黙が返ってくる。

「入るぞ?」

 ドアを開けて中に入ると、アヤサはデスクに座ったまま、俯いていた。

「アヤサ?」

 声を掛けながら近づいて、ようやく、彼女が震えて泣いている事に気が付いた。

「ど……どうした、何かあったのか?」

 すると彼女は、声を震わせながら答えた。

「ユウト……私……もう描けなくなっちゃった」

 机の上に置かれた原稿用紙は下書きすらなく、白紙のままだった。

「どれだけ描いても……どれも昔のままで……どこかで見たような作風で……このままじゃダメだって思って……そう思ったら、描けなくなっちゃった」

「そっか……とりあえず落ち着いて、深呼吸しよう」

 一向に泣き止みそうにないアヤサの肩を抱いてさすりながら、とりあえず落ち着かせようと深呼吸をする様に促す。

 きっと彼女は気づいてしまったのだろう、どれだけ頑張っても、自分には才能が無いという事に。

 才能なんて物は、どれだけ努力したところで、常人には到底手に入れる事が出来ない。才能が無くても当人の努力次第で何とかなる、なんて言う人は多いが、それは断じて違う。『努力をし続ける』というのも立派な才能で、その結果能力を手に入れるのも、それは『才能がある人間』と一緒なのである。

 アヤサは間違いなく夢の為に努力を続けていた、それは、他の誰よりも俺が近くで見てきた事実である。それはつまり、彼女もまた、『努力をし続ける天才』なのである。だが、それでも彼女は『漫画家になれる才能』を持ち合わせていなかったのだ。

 いつか、彼女が言っていた言葉を思い出した。

『もっと全力で生きた方が、人生は楽しいわよ』

 あの言葉を聞いた時から、俺の生き方は変わった。幼い頃からずっと、努力をし続けるアヤサを、間近で見続けてきたからこそ、その言葉は信用出来たのだ。だが、結局どれだけ全力で生きたとしても、持つ者と持たざる者は存在し、この世に生まれた時点でそれは決まってしまう。俺が信用したその言葉も結局、ただの虚言だったのだ。

 やはり、世界は誰にでも平等に、理不尽なのである。

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