第64話 希望潰える

 菅野が到着したのは、メッセージを受信後十五分ほどしてからのこと。エマはひとりで屋上に来た。

 ふたりには一階ロビーで、万が一感染者が入ってきた場合に、島民の人たちを守ってほしいと頼んだためである。

 とくに問題なく屋上へたどりつくと、ちょうどヘリが降下体勢に入るところだった。

 初めてのヘリ操縦とはおもえぬ見事な着陸を見せた菅野に、エマは込み上げる安堵や嬉しさから、彼が降りてくるや首もとに抱きつく。

「菅野さん!」

「うわっはは、エマ。よかった無事か!」

「もちろんよ。なんだか今朝別れたばっかりなのに、もう何日も会ってないみたいな感覚だわ。みんな無事に会えてよかった──」

 と、ふたたび潤む視界のなか他にヘリに乗るふたつの影をみた。ひとりは、菅野いわく倉田真司の後輩ということらしい。

「ここまで諸々手を貸してくれたんだ。島までの道案内も、彼がやってくれた。なぁ佐々木さん」

「どうも。佐々木郁実と申します──ええと」

「保坂エマです。ええと、倉田さんの友人──ってところです」

 といってわずかに苦笑した。

 おもえば不思議な関係だと気付いたからだが、佐々木は真司さん羨ましいなぁ、とのんきにわらう。その羨望はおおかた、女子大生と知り合ったことに対してだろう。

 もうひとりはだぁれ、とエマは菅野を見た。

「ああ、こいつ?」

 菅野の声が低くなる。

 ずいぶん小柄な男だった。丸顔に丸眼鏡をかけた姿はなんとも滑稽で、エマはとっさに口のなかを噛む。

「一文字の名ばかり社長だよ。恒明だ」

「う、うう──ぼ、暴力はやめたまえよ。痛いのはきら、嫌いなんだッ」

「うるせえッ。もっと寝とけ」

 と、菅野はすかさず拳骨を落とす。

 あっさり落ちた。エマは哀れみのような、軽蔑のような目でそのすがたを見下ろした。

「これが社長? ……私でも出来そうね」

「それ、おれも言ったよ」

 と、菅野はうれしそうに歯を見せてわらった。

 さて、肝心のブツである。

 床に転がる恒明に躓きながら、佐々木は手荷物から真空筒に入った液体を取り出した。あまり見ないかたちだが、どうやらこれが対母体用の薬液ということらしい。

「これ、保坂さんにお渡しします」

「ありがとうございます。本当に──よかった。いま、島がとても大変なことになってるの。響さんも、警察の沢井さんって人といっしょに下で避難者を誘導してるわ」

「被害状況は?」

「しっかりとは把握してない。なにせ島民が何人いるのかも知らないもの。全員帰ってきてたのかも分からないし──でも、最悪であることは確かね」

「なあに、どうせいつだって最悪からのスタートだ。とにかく響さんたちのところに案内してくれ」

「うん!」

 と、エマは手中の筒を胸に抱いて踵を返す。

 うしろから菅野と佐々木が続く気配がする。すっかり心強くなって、自然と笑みがこぼれた矢先であった。


「たのしそうだな?」


 と。

 聞き覚えのある声と同時に腕をとられ、背後から何者かに組みつかれてしまった。自分の脇から覗く相手の太腕を見て、心臓がドッと脈打つ。

 この日焼けした腕、わずかに掠れた低い声。間違いない。あの夜にスーパーで会った男──パイロットだ。

 喉がひきつって叫び声もでない。

 目の前には、なにが起こったのか理解の追い付いていない菅野と佐々木が、呆然とこちらを見ている。

 ようやく我に返った菅野が、

「え、エマ!」

 と戸惑った声をあげた。

「菅野さんッ」

「おい貴様、悪ふざけはよせ。はやくその子を──」

「やあ、これは誰かとおもえば」

 肩越しにパイロットがわらう気配がする。

「三四三空のエースパイロット、菅野大尉」

「…………」

 菅野の動きが止まる。

 なぜ知っている、という不可解な表情から、やがてなにを思い出したかみるみるうちに熱に浮かされたような顔をした。

「貴様は、──」

「七十年ぶりですね。ご無沙汰しております」

「嗚呼、いたな。いたいた……」

 菅野がうわ言のようにつぶやく。

 パイロットの顔を見て急激に思い出したらしい。右側頭部を抑えてうなずく。

「大鳳の艦上機パイロットだな。いつも牢屋みてえなところに入れられて、気の毒だと思ったもんだった。……」

「覚えていただいていたとは光栄です。菅野さん、貴方はぼくにとって憧れの方でした」

 といって、男はエマを羽交い締めにしながら、ぐっと身体を折って頭を垂れた。

 かつて三四三海軍航空隊戦闘三○四飛行隊の隊長をつとめ、撃墜王として類いまれなる才能を発揮し、めざましい戦績をあげた菅野直。

 彼の名は呉の港から遠く異国海域を走っていた大鳳のもとにも轟いていたらしい。

 菅野はエマのようすを気にしながら「貴様の機は?」と問うた。

「彗星です」男は胸を張る。

「マリアナの方だな。よく無事に南硫黄島へ戻れたものだ」

「幸いに飛び始めでして、燃料がありました」

「仲間には迎えに来てもらえなんだか」

「無線機が故障したため連絡が取れず──不時着後、途中で硫黄島の守備隊員と会えたのはほんとうに幸運でした。助けが来るまで互いに励まし合って」

「励まし合うなかで感染させたんだな?」

「……仲間がほしかったんです。あのころはまだ、俺も感染したばかりでなにがなんだか分からなかったから」

「────」

 と、腕組みをしたまま男を睨み付ける菅野。緊張からか、エマはのどが渇いてしかたない。恐怖から目をそらそうと、唾液を呑み込むことに集中する。

 そう睨まんでくださいよ、とパイロットが肩をすくめる気配がしたとき、

「わははははっ」

 と、唐突に笑い声が弾けた。

 先ほどまで地面に転がっていた恒明だった。焦点の合わぬ目で、パイロットにむけて拍手をしている。

「いいぞ。いいぞう! そい、そいつら僕の邪魔ばかりするんだ。はやく、け、消してくれよ!」

「…………」

 エマはふたたび唾を呑み、菅野がぎりりと歯を食いしばる。が、パイロットは冷めた目で滑稽なその男を見下ろしていた。

「おい、ヒヒ、ヒ、いいのか。その女の手にあるのは、お前をころ、殺せる薬だぞう! はやくころし」

「だまれ」

 と。

 声が聞こえた瞬間、エマの耳元でなにかの破裂音がした。同時に恒明の身体が糸の切れた人形のごとく、その場に崩れ落ちる。

 おそるおそる、顔の横から伸びる男の腕の先を見た。握られていたのは拳銃だった。

「きゃ──」

「大丈夫、脳天一発だ。痛みはないよきっと」

「…………」

 なぜか優しい声色で男がささやく。

 そうやって、と菅野は声をふるわせた。

「その男の妻もころしたのか。貴様が自分で言ったはずだぜ、俺が殺したってよ。なんでころした、ふつうは感染させるもんだとおもってたが」

「一文字の人間を? 冗談よしてくださいよ」

「──あ?」

「まったく、どいつもこいつも」

 勝手なことばかりいいやがる、といったその表情に先ほどの笑みはなかった。それどころか、瞳に宿るは憎悪のみ。彼は腕を広げた。

「その男も、倉田も、俺にとっちゃ同罪だ」

「なッ」

「どいつもこいつも父親の宿願を果たす──だと。そんなものこの俺になんの関係がありますか。勝手に人の身体をいじくって、勝手に俺を殺そうとして」

 と、パイロットの目線がエマの手中にある薬に注がれる。菅野の眉がぴくりと動いた。

 まて、と彼がとっさに両手をあげる。

「わかった、貴様の要求を聞くだけ聞いてやる。どうだ」

「要求?」パイロットは怪訝な顔をした。

「女ひとりに怖い思いをさせておいて、なんの目的もないとは言わせんぞ。なにが不死身だ、笑わせやがって。下手なことしてみろ、貴様が再生出来なくなるまで永遠に切り刻みつづけてやるからな!」

「俺がどう、わるいことをしたと言うんですか。一文字をころしたこと? 彼女から薬を取ろうとしていること? どちらも防衛ではありませんか。敵を滅するは軍人の役目。当然のことです」

「しかしいまはもう軍はない。この七十年と生きてきた貴様ならそんなこと、おれよりよほど知ってるはずだぞ! 貴様は軍人なんかじゃない、ただの殺人鬼だッ」

「ふふ、ふははは。さ、殺人鬼──殺人鬼ですか」

 パイロットはケタケタと狂ったように笑いだした。怖い。すこしでも動いて男の機嫌を損ねたらとおもうと、息をするのも怖かった。

 男は、エマの手から薬を取り上げて言った。

「あっ」

「いいですか菅野さん。貴方だから、いいことを教えて差し上げます。この薬は、たしかにこの俺をころす薬だ。それは間違いない。──でも、感染者を治す力もあるのですよ」

「……それならそこの男に聞いている。貴様をころすとしたら感染者はみんな死んで、感染者を救うことになりゃ貴様は永遠に生きると」

「そのとおりです。それでも貴方はこの薬を、この俺に使うと言うんですか。それが英雄様のご判断なのですね?」

「な、なんだよその言い方。どうあろうと、貴様をころさにゃすべてが終わらんのだ。御託はいいからさっさとそいつを返しやがれッ」

 と。

 菅野が声を荒げたときである。

 男のくちびるがエマの耳に寄った。ぼそりとひとつ、囁かれる。


「君にはすこし気の毒した──エマくん」


「え、?」

 瞬間。

 男のくちびるが首筋に這う。ヒッと声を失うのもつかの間、はげしい痛みが首元を襲う。皮膚を噛みちぎらんばかりに男が歯を立てたのだ。

 どくどくと首筋がはげしく脈打つ。カッと熱を帯びて身体中の血がざわざわとさわぐのが自分でもわかる。とつぜんの変化に戸惑いながらも、腹部に血が集まるような感覚とともに脳みそから血の気が引いてゆく。イヤでも分かった。感染したのだ。

 エマ、と菅野の叫び声が耳に届く。

 おもわず駆け寄りかけた彼の足が止まった。男がその手中にある薬を菅野に投げ渡したからである。男の腕が自分から離れたことで、エマもその場に崩れ落ちる。もう足に力が入らない。

 男は、すこしだけエマから距離をとった。

「さあどうぞ、菅野さん。この薬で俺をころしてください。俺もいい加減生き飽いたところですから」

「き、貴様──」

 菅野の足が動かない。

 パイロットは一歩、また一歩と菅野に歩み寄る。母体をころすなら絶好のチャンスである。エマは必死に意識を集中させ、さけんだ。

「菅野さんはやく! 母体をころすのよッ」

「お、おれは」

「私のことはいい。このままじゃ、もっとたくさんの人が──死んじゃう!」

「おれ、おれにはできねえ……」

 菅野の瞳がわずかに潤む。

 エマはしっかりしてよ、とさけんだ。

「それでも国をまもった英雄なの!?」

「英雄にだって特別まもりたいヤツはいるッ」

 菅野がさけぶ。エマはことばに詰まった。

 パン、と。

 小気味よい音とともに彼の手中にあった薬液の筒がはげしく割れた。

 中身が床にこぼれて、もはや薬としての役目は果たしようもない。あまりのことに絶句した菅野。エマがゆっくりと顔をあげると、パイロットの手元から硝煙がのぼっていた。恒明を撃った銃の銃口が、菅野の手元に向いている。

「な、なんてことを──」

「時間切れです。……ご愁傷さまでした」

 パイロットは寂しげにわらった。

 つぎの瞬間、屋上から下へと飛び降りる。恐怖と緊張によりずっと立ちすくんでいた佐々木が、ようやく動くようになった足を一歩一歩すすめて、恐々と下を見る。

 男は、歩いていた。

 三階の高さをものともせず、旧棟へつづく民家方面へ向かって悠々と。

「どうすりゃいいんスか──真司さァん」

 佐々木はその場にへたり込んだ。


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