第59話 襲撃

「──ちょっと考えさせてくれ」

 『考える人』のポーズで、響は静止した。

 鍵を知らないかというアバウトな質問だったが、彼には思い当たることがあるのか否か、静止するなりぴくりとも動かなくなってしまった。

 これは長考になりそう、とエマが視線を入口に移す。ちょうどぼたんを姫抱きした沢井が戻ってきたところであった。

「沢井さん!」

「大丈夫、ねむってるだけだ。管理人室に寝かせておこう」

 と、管理人室へぼたんを寝かせる。

 先ほどの様子を見るかぎり、ただの貧血とは思えない。彼女の「島民を島にあげてはだめだった」ということばが脳裏をよぎる。

 なにか大変なことが起きているのは間違いない。もう一度、倉田に電話してみようか──と携帯を取り出したときである。

 ジャストタイミングで、携帯が着信を告げた。

 発信者は保坂ロイである。

「も、もしもし」

『エマいまどこだっ』

「え」

 どこにいるんだお前、とひどく焦った声色で叫ばれて、エマはたどたどしく「一般棟よ」と返す。すると彼は電話の奥で深呼吸をひとつした。

『響さんもいっしょか』

「ええ。沢井さんとぼたんさんもいるわ。でもぼたんさんはさっき急に倒れちゃって──ねえ、そっちでなにかあったの?」

『いいかエマ、一刻を争う。感染者がそっちに逃げた』

「えっ?! …………」

『とにかくいまから一般棟にはだれもいれるな。入口をソファやらなんやらで塞いで、ガラスを割られても入られないようにするんだ。それから』

 と。

 ロイの声を左耳にいれながら、エマの右耳はほかの音もとらえていた。ちょうど一般棟の入口の方、エントランスの自動ドアが開く音。

 聞いてるか、とロイのどなる声が遠い。エマの神経はすでに目前に集中している。蒼白い顔、白く濁った瞳──なにより尋常じゃない様相から、それが感染者であることはすぐに分かった。

「もう遅いわ──ロイ」

『おいエマ?』

「感染者、入ってきちゃった。……」

 といった瞬間、男がこちらにとびかかってきた。恐怖のあまり足が動かず、ただ頭を抱えてしゃがみこんだ。と同時に沢井が横から庇い入り、男の襟首を掴んで背負い投げをした。

 しかし、動きが止まったのは床に叩きつけられた一瞬。すぐに立ち上がり、ふたたびこちらへ牙を剥く。

「なんだこいつぁ!」

「沢井さん気をつけてッ。この人感染してる!」

「感染ン?」

 なにがなんだか分からぬが、と沢井は近くの椅子を持ち上げて、男の脳天へと叩き付けた。さすがの感染者もこれは効いたらしい。

 ドッと音を立ててその場に昏倒した。

「クソ──死んでねえだろうな」

「殺しても死ねないでしょう」

 急に響が喋った。

 ぎょっと目を見開く沢井だが、エマや響の神妙な顔を見ればふざけているわけではないことも分かった。

 とにかく上へ、と響はエマの背に手を添える。

「まって響さん。ぼたんさんも連れていかなきゃ」

「彼女はここに置いていく。危険因子は手元に置くべきじゃない」

「おいアンタ!」

「置いていったところで彼女が襲われることはありますまい。どうせアレも感染者だ。……」

 その声色には、かすかに憎悪が混じる。


 通話はすでに切れていた。

 先ほどの乱闘の最中で切ってしまっていたらしい。その証拠に、ロイから膨大な折り返し着信が入っている。

 一般棟二階にはいくつか研究室があり、見てもよく分からぬ機械がそこここに並ぶ。

 どういうこった、と言いかけた沢井を手で制止し、響は入口を指さした。

「バリケードを張りましょう。詳しい話はそれからです」

「どうしよう。縄かなにかでふんじばった方が良かったかしら──」

「そんなものすぐ噛み千切られる。あの場でもたついている方がよほど危険だ、いまはとにかく己のことを考えなさい」

「で、でも……」

 懸念すべきは島民たちである。

 あの感染者がここに来るあいだ、だれひとり感染させなかったとは思えない。先ほど笑顔で船から降り立った人々の笑顔を思い返すと、エマの瞳には涙が浮かんだ。

 これでいいだろ、と。

 沢井が十個目の椅子を積み上げたところで、威勢よく声をあげた。四つ足の椅子を器用に組み上げた、見事なまでの防御壁である。

「ありがとう沢井さん」

「なあに、力仕事は男に任せときゃいいんだ」

「それもそうだけど、さっきも助けてくれたでしょう」

「ああ──そうだ。それでいったいどういうことだこれは。それにあんた、やっぱりそうだ。きのうの電話に出たのはアンタだな? 響さん」

 沢井の瞳が鋭く光る。

 が、響はおどけたように肩をすくめた。

「ここまできていまさら隠すのも無駄ですね。いかにも、昨晩はどうもでした」

「倉田さんやアンタたちの関係性がどうも気になった。いったいなにを隠しているのか、話してくれますね?」

「長い話なんですよ、だいぶ。……」

 前置きしてから響は語った。

 七十年前──ひいてはさらに昔の恩田ちとせと一文字孝正の出会いから、いまに至るまでのすべてを。

 一文字孝正の話については、先ほど空いた時間で倉田から聞きかじった程度ゆえ、ざっくりとしたものではあったが、それでも沢井は口を挟むことなく聴いていた。

 聴き終えた反応は、絶句のひと言。

 だが、存外に不可思議な話には理解があるらしく、しばらくしてから「なるほど」とうなずいた。

「信じがたい話だけど、さっきの見ちまうとな。七十年前の人間だとか細菌テロとか、あるかもしれねえとおもっちまうよ」

「とはいえ──あの感染者については、おれも不可解ではある。エマ、ロイに連絡はつきますか」

「折り返しかけているけどつながらないわ」

「ロイから忠告の電話が来たんだから、向こうでなにかあったんだろうけれど、その何かがわからんとどうにも」

「ねえ、やっぱりぼたんさんも連れてくるべきよ。鍵についても聞かなくちゃ──あ、」

 とエマは入口を見てため息をつく。

 沢井が張った強固なバリケードによって、自分たちもまたこの部屋から出られないことを思い出したのである。

 言っときますがね、と響は不服そうにつぶやく。

「おれはまだ彼女をゆるしていませんよ。真司さんが言うには七十年前、彼女は一文字正蔵の意のもとに成増をころ──あ」

「どうしたの」

「そういや真司さん言ってたな。あの女が成増をころしたあと、宮沢に鍵のありかを聞いたんだと」

「鍵──また鍵? ぼたんさんはいったいなんの鍵を探していたのかしら。あんなに必死になるんだもの、よほど大切なものが入った宝箱の鍵とか?」

 頬を紅潮させてエマが目を見開く。

 宝箱ね、と響はニヒルに笑んだ。


「パンドラの箱でなければいいですが。……」


 下階で激しい音がする。

 先ほどの感染者が起きたらしい。一同は顔を見合わせてごくりと唾を呑み込んだ。

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