第57話 脅威
「船だ!」
航海道中、ロイの叫びを聞いた。
事情を説明するべくエマに電話していた真司があわてて前方を確認すると、旧棟へ入る船着場のところに一艘の船が停泊していた。なるほど、いつもよく見る定期便の船である。
すぐさまボートを寄せたロイとともに上陸する。ついでに定期船のなかを見てまわったけれど、すでにもぬけの空だった。
旧棟に視線を移す。
いつもは紙一枚入る隙間もないほど閉じられた重厚な扉が、半開きになっている。扉の前まで近寄って、真司はぎょっとした。
「鎖が引きちぎられてるぞ、おい」
「宮沢さんたち、無事なのか──」
と。
ロイが扉に手をかけたときである。
中から勢いよく、こちらに抱きつくように飛び出してきたひとつの影。目を凝らすと一文字社の社紋を袖につけた筋肉質の男だった。この社紋は船頭を務める者がつけるマークである。どうやら彼は、停泊していた船の船頭らしい。
大丈夫か、とロイが顔を覗き込む。
そのとき真司は気がついた。この男、異様に顔が蒼白い。
「ロイッ」
と。
真司が彼の首根っこをつかむ。おもいきりこちらへ引き寄せたのと同時に、船頭の男が大きく口を開けてロイの首もとに噛みつかんとした。
間一髪、真司がロイを抱き寄せて踵を返す。勢いあまって地面に転がった。一方船頭の男は、ガチンと歯を強く鳴らしてこちらを睨み付けている。
なにかがおかしい。
真司はよろめきながら立ち上がり、船頭の男を見据えた。これまでの感染者像は、感染初期段階で顔色と食欲に変化は見えたものの、凶暴化するという事例は聞いていない。
それにこの男、まさか母体感染のわけはあるまい。肝心の母体である倉敷ぼたんはいま、一般棟にいるはずなのだから。
どういうことだよ、とロイは情けない声をあげた。
「なんでいまさら新規感染者が──」
「宮沢さんたちが中にいるはずだ、こいつをどうにかして合流すりゃあなにかわかるだろうっ」
真司は迷いなく、背高泡立草群へと駆け込んだ。草をかき分け、地下への秘密路を塞ぐ敷鉄板を取り外す。背後に迫る気配がする。離れていろ、とロイにどなって、振り向き様に鉄板を振り抜いた。
空を切った鉄板は見事に船頭の頭にヒットし、船頭は人のことばもままならぬなか、地面に倒れ臥す。
「いまだ、中へいそげ!」
敷鉄板を捨て、真司はロイの腕をとりながら旧棟のなかへと駆け込んだ。
が、待っていたのは
「真司さんダメだ、逃げてくださいッ」
という金切り声。
同時に奥から猛然と駆けてきた黒い影。とっさにロイを突き飛ばした真司は、その影の体当たりをもろに食らって床に叩きつけられた。
あまりの衝撃で息ができず、激しく咳き込む。ロイがあわてて駆け寄ってくるのがわかったが、視界はぐらぐらと揺れて目を開けることすら辛い。
しかし先程の声の主はわかった。宮沢だ。
軽い脳震盪のなか、真司はロイの肩につかまってゆっくりと身体を起こす。
「真司さん、大丈夫かよ」
「大丈夫なもんか──あやうく死ぬとこだ」
「助けてもらってなんだけど、無茶しないでくださいよ。アンタけっこう歳なんだからさ!」
「そ、そんなことァ俺がいちばんよくわかってんだよ。それよりさっきのはいったいなんだ、宮沢さんはどこだ?」
ようやく視界が安定してきた。
真司はふらつく身体をなんとか踏ん張って、暗がりに目を凝らす。まもなく駆けてきたのは宮沢であった。宮沢さん、とロイが手を振る。
「いったいなにがどうなってるんだよ、いま外に新規感染者がいて、突然襲われて──」
「彰と小此木はどうしました。三人でここに待機しているはずだったけど」
「────ださい」
「え?」
「逃げてください。はやくボートに乗ってッ」
宮沢は泣きそうな顔で真司にしがみつき、叫ぶ。早く、とふたたび言いかけた彼はヒュッと喉を詰まらせる。すばやくうしろを振り向いた。
彼の背後から迫る足音。
やがて現れたのは、真司には面識のないひとりの男だった。
────。
少し前のことである。
携帯電話のバイブ音がロビーに響き渡った。
エマや警察の面々が、一斉に各々携帯があろうポケットを触る。どうやら当たりはエマのようであった。
着信は倉田からだった。興味深げにこちらを見る刑事たちに目礼をして、エマは建物の外に出た。
「もしもし倉田さん?」
『うん』声は聞こえるがノイズがひどい。
『わるいがエマちゃん、警察の人には定期便もう少し待つよう言ってくれ』
「な、なにかあったの。さっきロイがそっちに向かったようだけど、会えた?」
『ああ、そのロイくんの操縦でいま旧棟にむかってる』
「…………、えっ?」
どういうこと、と聞く間もなく電話の奥でロイのおどろく声が聞こえた。ザザザ、とノイズ音がたびたび入る。どうやらこれはボートが水をかき分ける飛沫の音らしい。
しかし事前の作戦において、警察が島にいるあいだは、細菌研究のことがバレては困るから、と旧棟への立ち入りは避けると決めたはずである。
そのとき、ロイの声が微かに聞こえた。
どこかおどろいたような声色。直後、倉田の声も遠くなった。
「もしもし、倉田さん? もしもし!」
すでに通話は終わっていた。
ようすが変だ。エマの心臓がドッと脈打つ。とはいえここで取り乱せば怪しまれる。エマは二度ほど深呼吸を繰り返し、澄ました顔でロビーへと戻った。
ロビーでは、今後の動きを整理する沢井と立花、寺田の声だけが響く。響は極力喋らぬ努力を継続しているようだった。
エマはもう一度深呼吸をしてから、あのう、と沢井に近づく。
「ごめんなさい。なんだかトラブルで船が遅れているみたいで、もう少し待ってくれって真司さんが」
「ああ、いいですよ。それでその倉田さんはどちらへ?」
沢井がするどい目付きでエマを見据える。
この視線は、やましいことがある人間にとっては堪えるものだ。エマはえっと、と口ごもる。
「たぶん波止場の方だと。でもロイが迎えにいったから、もしかしたらボートに乗って船のようすを見に行ったかも」
「なるほど。まあ、こちらのことはお気になさらず」
対して立花は柔和にわらった。
とはいえ、いつまでもここに居座られるとエマとしても困るのである。響に相談しようにも、気軽に話をするところを警察に見られたくないし──と考えていると、管理室から倉敷ぼたんが出てきた。
「どうかしたの?」
「あ、あの。船の運航状況が知りたくて──どうもトラブってるみたいだから」
「ああ、それならわたしから確認してみます」
にっこりわらって、ぼたんは管理室へ引っ込んだ。あとをついてエマも管理室に入る。定期船運航については事務局があるのよ、と言ってぼたんは慣れた手つきでコールした。
ふたコールののち、事務局員が出る。
「もしもし、倉敷です。船の運航状況についてうかがいたいのですけれど。いま島に向かってます?」
『ああ倉敷さんお疲れさまです。臨時便がまもなくそちらに出発しますから、十五分ほど待っていただければ』
「臨時便──?」
『あれ、倉敷さんも聞いてませんか。八月に入る少し前に出されてますよ、休暇縮小の話。おかげで今年は早めの帰省ラッシュですわ』
「…………そ、そうですか。あの、どうもありがとう。その便を待ってますわ」
と、ぼたんが受話器を置く。
浮かない顔の理由がいまいち分からず、エマは首をかしげた。
「休暇縮小だなんてかわいそうに。社員の方たち、ほかにもお休み貰えるのかしら」
「え、エマさん」
「え?」
「真司さんはどちらに」
「し、真司さんは──どうもロイといっしょに旧棟へ行くって」
「なんだか変だわ、嫌な予感がします。真司さんにもう一度連絡を!」
いやな予感。
すべからくそういった直感は当たるものである。案の定、すぐさま発信した倉田への電話は、いつまで経っても受け取られることはなかった。
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