第50話 一文字社へ
オフィスビルに入る。
こればかりは、軍人たちのリアクションに負けず劣らず、私もお上りさんばりにすっかり緊張してしまった。高校生の分際でオフィスビルに入ることはそうないし、おまけに財閥グループの所有ビルというのだから、格式もひとしおである。
杉崎は弁護士然とすべくキリリと眉間を絞って、眼球だけでビル内の様相を見回している。菅野はといえば、周囲の目も気にせずに首から提げたデジカメのファインダー越しに見つめたまま微動だにしない。昨夜の遅い時間にエマから使い方のレクチャーを受けたそうで、はやく撮りたくて仕方がないといったようす。
私は声を抑えて杉崎に顔を寄せた。
「きのう親父が電話で教えてくれたんだけど、まずは受付で用件を伝えるといいって。で、人事課長の佐々木さんって人を呼び出したらあとは親父が根回ししておくからって」
「うーん真司さん、頼りになるなァ」
「杉崎さん、受付に声かけしてもらっていいスか。菅野さんだと見るからに怪しすぎるから──」
「ようし。任せたまえよ」
すこしテンションが高い。
映画を見て培った演技道を見せてやる、と杉崎は胸を張って受付嬢のもとへ歩いていく。私は内心でハラハラしつつ、しかししっかりと昏い顔を演じながら、菅野とともにフロアの一角で待機した。
受付嬢はひと言ふた言とことばをかわし、急に表情を変えるとあわてた動作で電話をかけた。杉崎はといえば、天に伸びる背筋をそのままに受付嬢の一挙手一投足を穴が開くほど見つめている。
本人にはそのつもりがないだろうが、嬢からすれば可哀そうに、ガタイの良いスーツ男に因縁をつけられて相当な圧を感じていることだろう。受話器を置き、杉崎に何ごとかを告げる彼女の声がわずかに上ずるのがわかった。
まもなく杉崎がこちらへ戻ってくる。
その表情は一見するとクールだが、彼の素性を知る者からすれば任務遂行した軍人そのものであった。
「佐々木さんを呼んでもらった。すぐに来るから少し待てとさ」
「なかなか様になってたぜ杉さん。どっからどう見ても口数のすくねえヤクザだ」
「弁護士だ。とにかく胸張って偉そうにすましておけ、とエマに言われた。下手にかますとボロが出るからしゃべるなってよ」
「はっははは。まあ頭の出来まではさすがにな」
と、菅野がわらったところで、エレベーターホールからスマートな男がひとりこちらへ向かってあるいてくる。私はハッとした。彼の顔には見覚えがあった。以前足立区の家に住んでいたころ、父の部下として一度うちに招かれ、夕食の席をともにしたことがある。
「杉崎さん!」
男が、会釈をしながら寄ってきた。
名前までおぼえていなかったがどうやら彼が父の愛弟子、佐々木であるらしい。杉崎の顔から私の顔へ目線をうつすと、むこうもおぼえていたようでパッと表情をあかるくした。
「和真くん、ずいぶんご無沙汰で。どうも佐々木です。きのうも電話出てくれたよね!」
「は、はい。父がお世話になってます」
「あとは──杉崎さんと、そちらが菅野さんですか。あれから真司さんから連絡きて、諸々うかがってます」
佐々木曰く、父から託された内容はひとつだという。
「息子さんと、弁護士の杉崎某、ルポライターの菅野某という人間が本社に来るから、社長のもとへ案内してやってくれって。認識はそれで間違いないですか」
「ハ。問題ありません」
「わかりました。あとは行きながら説明しますね、こちらへどうぞ」
と、彼は右手で左奥を指し示す。先にあるのはエレベーターホールだ。
ホールには、ぜいたくにも八台のエレベーターが稼働していた。かと思えば、これは地下階から十階までの下階専用エレベーターらしく、中階、上階専用のは別のホールでさらに八台ずつ稼働しているという。いまさらながら、父親の勤め先の立派さに舌を巻く。
道中、佐々木は「社長なんですが」と言いにくそうに話しはじめた。
「連日の警察による事情聴取のせいで、外に出たくないからってオフィスにはいらっしゃってないんです」
「えっ、きょうも?」
「うん。だからこれから一文字家まで皆さんをお送りします」
「え」
「地下、駐車場だから」
と。
いうタイミングでエレベーターはチンと降下を止めた。階数表示は地下二階を示している。ゆっくりと開かれたドアのむこうからは駐車場独特のこもった臭いがツンと鼻をついた。
佐々木がポケットから車の鍵を取り出す。
右奥に停まった濃紺の車のライトがチカチカ光る。開錠動作をしたようだ。佐々木は「僕の車です」と言いながら、後部座席の扉を開けた。
「どうぞ」
「あ、じゃあふたりはうしろ乗ってください。おれ、前乗ります」
「杉崎さん、どーぞ」
「どうも失礼しますよ。菅野さん」
互いにニヤニヤと顔を見合わせ、ふたりは後部座席に乗り込む。
見るからに高級車である。私は車内の内装を汚さぬようにそろりと助手席に身を滑り込ませる。佐々木は丁寧に助手席のドアまで閉めてから、
「じゃあ行きましょうか」
と、運転席へ乗り込んだ。
車窓の景色がうしろへ飛び去る。
びっくりしたよ、と佐々木はわらった。
「夜中に真司さんから電話が来て、俺の息子を助けてやって、ってさ。けっこう切羽詰まった感じだったからどうしたのかとおもって」
「い、いまお仕事中ですよね。だいじょうぶなんですか」
「うん。役員会のことで社長とお話ししてくるって言ってきたから」
「はあ」
「それにしても和真くん──弁護士さんとルポライターさんがいっしょにいるなんてただ事じゃないじゃない。なにかあったの?」
「親父はなんにも言ってないんですか」
「うん。真司さん、けっこう秘密主義だし」
言ってないのか、と私は焦った。
この佐々木という男のことを、どこまで信用してよいものか分からない。父の長年の愛部下なのだろうが彼もまた一文字社員。あの島で起こったことや後部座席に座る男たちの素性など、言えるわけもない。
困った末、私は沈黙した。
佐々木は困ったようにわらって「言えないならいいんだ」と流してくれたが、その表情は複雑である。すると後部座席からハンチング帽を脱帽した菅野が身を乗り出す。それからあっけらかんとした声色で、
「一文字恒明を告発する」
と言いきった。
エッ、という声と同時に車がわずかにブレた。よほど動揺したか、ハンドルを握る手がふるえたらしい。佐々木はバックミラー越しに菅野を見つめた。
「失礼──告発?」
「ああ。しかしそのための証拠がいまひとつなもんで、それを確かめに行くのだ」
「罪は!」
「それも、これからたしかめる」
菅野はわずかに口角をあげた。
となりに座る杉崎もむっつりと閉口したままうなずく。
「も、もしかして会長の事件のことですか。それならすでに警察の方々が」
「ああ──まあ罪となるならそのことだろうが、あくまで一端にすぎん。おれたちが恒明氏からほんとうに聞きだしたいことはほかにある」
「────」
絶句する佐々木。
あんた、とこれまで黙っていた杉崎がぽつりといった。
「真司さんを慕っているのなら最後まで信じ切ることだ。あの人は間違えない。ぜったいに」
車はまもなく、四谷から新宿方面へと入ってゆく。
カーナビが三百メートル先の右折を告げた。
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