第26話 推理

 すこし前になる。

 横浜に帰着後、あたりまえのようにエマは響銀也のマンションへとやってきた。あろうことか、洗濯物もふたり分まとめて洗濯機にほうりこむ。問答無用に泊まる気である。

 かくいう家主もなにも言わない。

 旅行中から、めっきりエマのわがままには寛大になった。彼女のおかげで娘と対面できたようなものだし、ことばにこそしないが感謝しているのだろう。

 エマもそれを分かっていて甘えているのである。

 ねえ銀也さん、と旅行バッグのファスナーを閉じる。

「わたしが大学とかバイトに行っているあいだって、いつもおうちにいるの?」

「いつもってわけじゃねえですよ。外を散歩することもあるし、電車ですこし遠出することも」

「電車? ひとりで乗れた?」

「熱海から横浜にもどるとき、ロイくんが教えてくれたでしょう。しかしあの自動改札機ってのはすごいもんだ。いまいちひとりだと使い方がわからないんで、いろんな人の動きを見ていたんですが──あれ、あのぺらっとした紙をピッと当てたり、切符を通したり。おもしろかったんで入ったり出たりして遊んだら改札機に止められました」

「なにやってるのよ、いい大人が!」

 呆れ顔をした。

 これほどの好色漢がおちゃめなものである。響はふんと鼻を鳴らして、ソファに背をもたれる。

「大人といってもね、すぐに泣くヤツもいらぁすぐに物を壊すやつもいるもんですぜ」

「それ、だれのこと?」

「…………はて。そんな野郎どもがいた気がしましたが──だれのことだったか」

「また銀也さんったら。肝心なところを思い出せないんだから」

「そう言われても」

 高千穂に行ってから、彼は少しずつだが思い出すことが増えてきた。とはいってもひどく断片的なもので、研究所で食べた夕飯のメニューであったり、机上に置かれた酒の銘柄だったり──。

 これと役立ちそうな情報は、いまだ引き出せていなかったのだが。

 あ、とめずらしく響が声を弾ませた。

「じゃあこんな話も聞かせてやりましょう」

「え?」

「終戦を祝って、みんなで乾杯したんです。研究員も抗体のあるおれたちも、みんなでグラスをかかげて──ふふ。成増くんなんか下戸なもんだからすぐつぶれちまった。ひとり酒癖のわるいヤツがいてね、たしかそう……菅野といったかな。ヤツも抗体を持っていたのだけど、あんまりヒドイんで一晩パイロットの牢にぶちこんでやろうかって脅したりして」

「パイロットって母体感染のでしょ。ホントにそうしたの?」

「さてね。それよりその菅野だよ、空の旅が好きなヤツってのは」

「あ!」

 行きの飛行機で言ってた人、とエマがバッグを叩いた。ひとつ思い出すと芋づる式に記憶がよみがえってくるようで、響はとろりと瞳を閉じて「うん」と笑んだ。

 どうやら彼は失われていた記憶の断片を、脳内で必死にかき集めているところらしい。話しかけるのはためらわれた。エマはじっと待つ。響のつぎのことばを。

 五分が過ぎたころ。

 そういえばエマ、と響が目を開けた。

「うん?」

「そのパイロットのこと、なにか聞いてますか」

「え?」

「いつも黒々と焼けたデカイ図体を縮めて牢のなかに座ってた。……アイツは斬っても撃っても燃やしても、バラバラにからだが砕かれても生きていたけど。まだ生きているんだろうかなぁと──気になって」

 と、響は右目に垂れた前髪をふっと息で吹きあげた。以前に倉田から聞いた話を思い出す。

 感染者はやがて腐敗し死んでゆく。

 しかしひとりの例外はある。『あくまで仮説』と前置きはあったが、母体感染の疑われたパイロットだ。

 彼は研究過程のなか、多くの研究員を感染させながらも、実験サンプルとして長く研究所にいつづけた。それはなぜか。彼を焼却処理をしてもなぜか生きているから。

 そう、彼は死なないのだ。

 おまけに、その後を任されたはずの井塚という研究員が行方知れずであるため、軍人の入眠後についてはなんの情報もないのだと。

 エマはあんぐりと口を開けた。

「どうして今まで気付かなかったのかしら。ロイも、倉田のおじさまも、成増さんも……わたしも! パイロットがまだ生きているとしたら、これは大変なことだわッ」

「そうかね」

「そうでしょッ。小此木って人以外にも、確実にこの世のどこかに感染者がいるってことなんだから!」

「なによりも漏洩を恐れた一文字が、現代につづく過程でなにも対策しないとは考えにくいですがねえ」

「一文字──正蔵のことね。でも、なにかしていたとして、それが正しいこととは限らないわ。なにせこの細菌研究を牽引していた人なのよ」

「しかしだからこそ馬鹿じゃない。熱情の向ける先が人とずれてはいましたがね。現に七十年経ったいまも、パンデミックが起きていないのはそういうことでしょう」

 彼の目的はなんだったのか。

 それが分からぬうちはこちらに勝ち目などない、と。

 響はつぶやいた。

 エマは携帯を取り出す。

「ロイに電話する」

「なんとかなるもんですか」

「なんとかなるかどうかはこれからの行動次第なの。だから、なんとかするのよ」

「……キミらしいことばだ」

 響は、ふたたびソファに首をもたげた。


 ※

 テレビ電話というのは画期的な発明といっていいだろう。

 ちいさな電子板にエマの不機嫌な顔が映る。成増や電話の奥にいる響は、互いの顔を見るや歓声をあげた。当時は携帯電話すらなかったのだ。

 らしくもなくはしゃぐ響を画面脇へと追いやって、エマが疑念を口にした。ずばり、パイロットの現状についてである。

 しかしロイはその問いを一蹴した。

「──パイロットの所在なんか分かるわけねーだろ。そりゃあ一度くらいはそんな話もしたけど、考えるだけ無駄だってんで考えないようにしてたんだ。その後を任された井塚さんが消えちまった以上、答えを知る者はいないんだから」

『それ本気で言ってるの? 一文字の社長は諸悪の根元である正蔵の息子なんでしょ。なにかしら知っていてもおかしくないわ。それがむりなら井塚さんの所在をさがすとか、ほかの研究員の子孫をさがすとか……やりようはいくらでもあるじゃない!』

「残念ながら、研究員の情報はすべてきれいに抹殺されてたそうだぜ」

 すでに調査済みだ、と肩をすくめる。

 その表情にカチンときたのかエマの喉奥からうなり声が聞こえた。このままいくとまたケンカになると察してか、倉田がロイの横から割り込んだ。

「いやまあたしかに、エマちゃんが言うことにも一理あるんだ。うちの親父は正蔵にすべてを握られていて、個人的な動きなんざなにひとつ許されちゃいなかった。子どもの俺にあの部屋を見せるのだって、おそらく命がけだったんだろう。その正蔵がとうとうポックリ逝って、ここからってときに親父も死んだ」

 けっきょく、息子の真司にすべてを引き継ぐ時間もないまま、父はひとり抱えて逝ってしまった。

 きっと、父がだれより悔しがっていることだろう──と倉田はつぶやいた。

「すべてがゼロからのスタートになっちまった。勝ち負けで言やぁ、ハナから負けてる」

『だからといって諦めるのはまだ早いわ。銀也さんは記憶が戻ってきてる、着々とね』

「なに、ほんとか!」

『その記憶のなかにだって、ぜったいに手がかりがあるはずなの。母体に関することなのか、研究員に関することなのか──そんなことは分からないけど。ね、その可能性を有するのがまだふたりもいるのよ。わたしたちはまだ負けてない!』

 エマがさけぶ。

 画面の奥で響がなにごとかつぶやいた。茶化したのだろう、エマはバシッとその膝を叩いている。

 ううむ、と唸るのは倉田だった。

 エマの熱い想いにすっかり胸を打たれたようだ。

「どうでしょう成増さん。一文字玉枝のことで警察も動きはじめていますし、このあたりでそろそろほかの人を起こしてみるのは──」

 と。

 成増を見る。

(おや)

 首をかしげた。

 その表情は、想像していたものと違って、ひどく強ばっていたからである。

 が、それは一瞬のことだった。

 すぐにいつもの優しい笑みを浮かべて「そうですね」とうなずく。

「母体から守るための睡眠です。このまま眠らせ続けて逆に危険に晒されるというのなら、なるべく早急に対応した方がいいでしょうな」

「嗚呼──」

 なぜか倉田は泣きそうな顔でうつむいた。

「じゃあ準備を進めます!」

「でも、響さんのときみたいにマンスリー借りるわけにもいかないだろ。家はどうすんの?」

「家については──宛がある」

「あ、あて?」

 任せとけ、と倉田は片目をつぶった。


 この日、結局一文字彰のもとへは行かず、ロイと成増は倉田の家に泊まった。

 新たに軍人を起こす──それがよほど嬉しかったと見える。

 倉田は眠り際、

「待ちわびたぜ」

 と子どもみたいにわらった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る