どっちもないと生きられない

紫月ルイカ

どっちもないと生きられない

 今日から十四日後、私は三十歳になる。蝶よ花よともてはやされ、ありとあらゆることが無敵で、キラキラとまではいかないが何かしらの輝きを放っていた私の二十代。

 外に出れば会う人会う人全員に若い若いと言われ、悩みごとを打ち明ければ、若いんだから大丈夫どうにでもなると言われ続けた女の二十代が終わる。


 自分が二十代でなくなる、そんな日が来ることが信じられないでいる。病院の問診票に三十歳と記し、サイトの会員登録で三十代を選択する、そんな現実が本当に降りかかるのだろうか。

 三十歳となったそのとき、自分が何をどう感じるのか、まったくわからない。仕事での成功、私生活での成功、自己実現といったことをなんにも成さないまま三十歳となったことに対して情けなさや虚無を感じ、やっぱり死んでしまいたいと思うのだろうか。それとも、もう何も感じなくなってそのうち思考力も感覚器官も徐々に麻痺していって、ただ無慈悲な現実に緩慢と慣れていくのだろうか。


 ズンズンズン、ドンドン。薄暗い部屋に設置されたミラーボールがくるくる回りながらカラフルなレーザー光線を飛ばし、うるさくてノリがいいだけの訳のわからないトランスミュージックが流れる3LDKマンションの広い一室は、まるで簡易的なクラブだ。見慣れた光景ではあるが、ここの空気は毎回刺激的で、飽きることがない。この部屋には週末の夜になると様々な男女が集まり、非日常の宴を繰り広げるからだ。


 テーブル上のキャンドルに見立てた人工的なライトが、度数の高い酒を片手に異様なテンションで騒ぎ、もつれ合う男女の姿を照らし出す。金曜日夜のこの部屋には、三人の女と六人の男が集まっている。酒瓶やスナック菓子が散乱する中央のローテーブルを囲んでいるのは、一人の女と二人の男。かなり酔いが回っている様子の若い女は男の話にゲラゲラ笑い、学生風の男と会社員風の男に交互に寄りかかったり、腕を組み合ったりしている。残りの男女はカウンター周りで音に合わせ、フラフラと亡霊のように身体を揺らす。異様なエネルギーと軽薄さに満ちた空間だ。

 このいかにも爛れた会に参加するのは、もう何度目だろう。

 主催者は、フリーのアフィリエイターとして月七桁を稼ぎ出す、三十代半ばのルキナリという男。通称ルキナリマンションと呼ばれる一棟ごと所有する自身のマンションで、毎週末このパーティーを趣味で開催している。

 飲み友達が次々と結婚出産し、クラブや出会いラウンジのような場所へ共に繰り出せる相手が引き潮のようにサーッと綺麗さっぱりいなくなった私が、新しい遊び場を探し始めたのが一年前のことだ。遊び場の条件は、一人で出向いたとしても、えっ一人で来たの? 勇気あるね~などと面倒かつ一人行動の惨めさを味わう恐れのない、少々怪しげな場がいい。

 そう考えながらSNSを眺めていたとき、なぜフォローしたのかは忘れたが、いかにもアクティブビッチな裏垢女子がいいねをつけていた「ルキナリ主催★マンション貸切パーティーサークルユートピア@渋谷」の参加者募集投稿に目がとまった。

 アフィリエイターとして多くのサイトを運営するルキナリが、得意のWebライティングとデザインスキルを駆使して作ったらしいそのサークルのサイトには、気軽に行ける飲みの場や、少々いかがわしい出会いを求める者に刺さるキャッチコピーが踊っていた。首から上をスタンプ加工した、楽しげに盛り上がる男女の写真も何枚も載っている。その上、女子が持つであろうよくある質問と不安を解消するQ&Aページ、参加へと背中を押す最後のクロージング部分までよくできており、完成度の高さに好感を持った。

 セックス、ドラッグ、軽犯罪関係。このよくできたサイトの裏で、一体どんなアンダーグラウンドな行為が行われているのだろうか。パーティーの実体に興味を持つと同時に、鬱屈を晴らす何かしらの刺激がありそうだと感じた私は、何があっても受け入れる覚悟で参加を申し込んだ。

 ところが、ユートピアについて想像していたあらゆる危険行為、違法行為の予想は外れていた。実際には盛り上げ役&取り仕切り役のルキナリの元、男女が酒を飲んで騒ぎ、ときには多少エロティックに絡みながらあわよくば近くのラブホテルでヤレる相手を探すだけの場所。恋愛体質やセックス好きといった、色欲を好む人種が欲求を満たす、ある意味健全なスポットだった。

 出会って一秒で盛り上がり、アルコールを浴びながら、テンション高いだけの会話と異性との接触を求める。その絶妙な軽さは、友人たちが自分を残して結婚出産していく絶望と羨望、将来の見通しの立たなさに打ちひしがれていた二十代終盤の私にとって、現実逃避の手段に最適だった。

「おーっカオルちゃん、おつおつ! 外ヤバ暑かったっしょ、いま部屋キンキンだから入って入って!」

 前髪、襟足長めのホスト風ヘアスタイルと一見バカみたいなノリのテンションのルキナリは、アフィリエイターとして独立に成功し、SNSにも多数のフォロワーを持つ男だ。加えて、雑多な人間の集まるパーティーをトラブルなく運営管理する手腕も持つ、能力高い人物である。少なくとも私はそう思っており、それなりに信頼も寄せているため、毎週のようにここへ通っている。ルキナリは、アルコールを摂取しなければまともに人と話すことも目を合わせることもできない私とは正反対の人間だ。そのコミュニケーション力の高さや適度に気を配り人と人を繋げる器用さ、相手の欲求を瞬時に見抜く鋭い観察眼は、珍しく素直に尊敬できるほどだった。

「カオルちゃんかわいいから、来てくれると男どもが喜ぶんだよ~。今日も楽しんでってよー!」

 黄金スマイルで迎えながら私の肩へふいに腕を回し、部屋へと送り込むルキナリに悪い気はしない。本当に色々なことをスマートにやってのける男だ。そんな彼には別居中の妻子がいるらしい。詳しくは知らないけど。

「あっカオルちゃんじゃん! イエーオツカレー! さあさあ飲ものもー!」

 先週も見たことのあるリア充系会社員の男に、テキーラが並々と入ったショットグラスを渡される。小さなグラスをぶつけ合い、一気に飲み干す。胃から体が焼け、身体中に残留していた不安感も一時的に焼き尽くされるようだった。大音量のトランスミュージックに合わせて、居合わせた数人の男女と一緒に適当に身体を揺らす。アルコールを全身に巡らせ、いつも焚いてあるムスクのようなお香の匂いに酔いしれる。


 ここには色々な人間がいる。学生、フリーター、会社員、独身、既婚者、パリピ、オタク、メンヘラ、変態。属性に縛られず、何でもありな絡みができるところがいい。「結婚してるのにこんなところ来て大丈夫なの?」とか「そういう趣味って引く」だとか、正義感ぶった人種に面倒なことを言われないのがいい。一般社会では敬遠されるような言動や趣味嗜好も、ここでは絶対に否定されない。刺激的で心地よい非日常のこの空間は、溜め込んだ欲や膿を解消できる唯一の場所だった。

 しばらくすると、中央のテーブルでは学生風の女子一人を三人の男が囲んでジェンガを始め、隅のソファではキスをしながら抱き合うOL風女性と中高年紳士のカップルが誕生していた。ルキナリは本日新規の男女にハイテンションで話しかけ、既存の輪に送り出す下準備をしている。

 この空間にいる人間全員が酔っている。ジェンガ卓では積み上げたジェンガが、ガシャンガシャンと派手な音を立てて倒れるが、こちらも酔っているためガシャガシャ音は頭の遠くで響き、なんなら快いほどだ。アルコールで色々な器官が程よくバカになっているため、耳に入るすべての音に恍惚とする。ジェンガが崩れて散らばるたびに、男女は飽きることなくゲラゲラ笑う。その愉快な無意味さが異様に心地よく、視界が歪み、別世界へ飛ばされるような感覚になる。

「飲んでるー!? 今日もいい感じに盛り上がっててサイコーじゃね!」

「やっばいよねーホント! さすが、週末って最高」

 新入社員風の自分より明らかに若年の男に話しかけられ、ネジが抜けたようなフルスマイルを返す。彼の名前は何だったかなと頭を逡巡させるが、アルコールに侵された脳みそは案の定まったく回転せず、どうやっても思い出せない。

 カオルちゃんやっぱヤバかわいー! と言いながら私の背中を抱く男に、ふらつく身体を預ける。私の外見はフルメイクで装飾しても大したレベルではないが、恐らく暗闇で映える顔なのだ。クラブもどきのミラーボールが回るこの部屋ではなおさらで、壁の星型インテリアミラーに映る自分は、様々な相乗効果がプラスに働き、マイナス要素が打ち消されていた。

 他の男も加わり、やばいやばいと生産性皆無の言葉を交わし続け、混沌としたテンションに拍車がかかる。この部屋にはその辺のバー並みの種類の酒が山のようにストックされており、自分たちで好きなように作って飲み続けられるため、店員にオーダーするわずらわしさもない。好きな酒を好きなだけ、好きなもので割って飲める便利さが、ユートピアの快適さに拍車をかけていた。既にテキーラ、ハイボール、ウーロンハイ、カルアミルク、カシスソーダとあらゆる酒を胃に流し込んでいて、脳がスパークしそうなほど大げさに笑い合う。


 中身のない会話に溌剌と受け答えしていると、見慣れた派手柄のシャツに短めの銀髪をセットした、スタイルの良い男の姿が入口に見えた。私を見つけるとまっすぐこちらへ向かってくるその男の胸に、私は全力で飛び込む。

「きゃーっ黎人ぉ! 待ってたよー!」

「カオルちゃん、もう大分いい感じになってるね~。さっ、俺とも乾杯するか!」

 いつも通りスミノフを手にした黎人(れいと)ともう何杯目かわからないジャスミン割りのグラスをぶつけ一気に飲み干すと、また彼の胸に飛び込み、広い背中に腕を回す。

「やっとやっと黎人に会えたー! 今日遅かったねー」

「現場作業が長引いてさ、フル残業で仕事してたよ」

「おつかれおつかれ、それだと相当疲れてるよね? 今日は黎人んち行くの無理かな?」

「いや全然疲れてない! 今日もうち来てよ、てか来てほしい」

 もしかしたら今日は二人になれないのかと、もしそうだったらどうしようかとヒヤヒヤしながらの問いかけに期待以上の返答が来たことで、心臓がポップに飛び跳ね気分は最高潮に達する。

 六つ年上の黎人はルキナリの友人で、四年前のユートピア発足当時からの人間だ。

 ここ最近の私は、黎人にかまってもらえないとなんにも楽しくない。ユートピアのパーティーだって楽しいけど、黎人に会える楽しみがないならそこまででもない。それに、黎人に会える幸福を知ってしまった今、黎人なしのユートピアなんて虚しすぎて行く気がしない。

 朝起きたとき、仕事中、昼休み、帰りの電車、入浴中、寝る前、買い物中。ふとしたときに黎人の笑顔を頭に浮かべ、頭を撫でる大きな手の感触を思い出し、会える日を心待ちにしている。生きる楽しみが黎人頼りになっていることを悟られないよう、LINEをすぐに返しすぎない、重いことは言わないなど、気をつけながら接しているほどだ。

 ここ三ヶ月は、ルキナリや常連の参加者と飲んでから、黎人が一人で暮らす徒歩十五分のアパートに連れていってもらうのが恒例のパターンだった。

 ルキナリや他の参加者としばらく騒ぎ合い、アルコールにやられた人々が発するけだるい空気が漂い始める前の午前一時頃。私は黎人にもたれかかりながらルキナリマンションを脱し、アパートに向かう。


 黎人の住む1Kのアパートは、バニラのようなルームフレグランスの強い匂いに満ちている。この香りを嗅いでいる間は彼といられることが嬉しすぎて、切なくなるほどだ。

 ソファに座り黎人にもたれながら軽く飲み直すうちに、べったりくっついて離れなくなった私を彼がひょいと抱え上げ、寝室のベッドに運ぶ。

 黎人とはずっと、他の男たちと同じくユートピアでばか騒ぎをするだけの間柄で、何人もいる常連の一人でしかなかった。特に、盛り上げ役に回ることが多く、すでに散々遊んできて落ち着いたためか、女子に対して下心ある絡みをしない黎人とは、二人でイチャつく雰囲気になることもなし。彼の程よく筋肉のついた体格とスラリと脚が長いスタイルの良さ、そして妙に似合う銀髪に見とれることはあったが、目の保養にする程度で、それ以上の感情はなかった。

 黎人が特別な存在になったのは、私が三杯目のテキーラを摂取後、酔い潰れる寸前に誰でもいいからと男性の温もりを求めて、たまたま隣にいた彼にもたれかかったときのことだ。雑に絡みながら前ぶれなく距離を縮めてきた私を、黎人は一切の躊躇なく受け入れた。異様なほど優しい手つきで胸に抱き寄せ、頬を撫で、散々交わってきたユートピアの他の男たちとは比べられないほど大きな慈愛で私をくるみこんだのだ。盛り上げ役のときの姿とは、雰囲気が一変していた。黎人がそんな一面を持っていたことに、私は驚愕した。女に対して気が利く性格なのは知っていたが、こちらが求める以上のことを一瞬で返してのけるほどだとは、思いもしなかったのだ。

 そのまま彼のアパートになだれ込み、脳が痺れきりスカスカになって使い物にならなくなるまで、甘い手つきで女の性器をむしゃぶり尽くされから、私は黎人のすべてに引き込まれた。虜になった感情は加速し続けたまま、今に至る。


 黎人の手のひらは、他のどの男よりも大きくて、私のすべてを包み込む。

 狭いシングルベッドに寝かされ、私の頭のてっぺんからこめかみ、耳、頬を大きな手のひらで驚くほど丁寧に撫で回される。同時に、むさぼるようにあらゆる場所へと口づけられ、多幸感と安心感と性感が怒涛のように襲う。身体を重ねるようになってからまだ四ヶ月。まだまだ新鮮なキスは、舌を絡めるたび胸が熱く疼く。

「……カオルちゃん、可愛い、指先まで全部きれいで可愛い」

 男性の吐く熱い息が耳元にかかり、体温がさらに上がる。男、男、男。男の匂いと硬い体つきの感触に包まれる。全身が興奮に火を吹き、彼の大きな背中に強くしがみついた。

 ああ、この瞬間、今この瞬間のこの状態が、今週の私のピークだ。

 あとは落ちていくだけの帰り道が頭によぎり、すぐに振り払う。私は、男というまぎれもない異性から与えられる温もりと刺激を得ているとき、生きているうちで最大級の幸福を感じられる。

 男である黎人の、メンズにしか出せない、女には絶対に出せない渋い革のような匂いに包まれながら、胸の膨らみをいやらしくいじられる。手に指を絡ませさりげなく動きを封じられながら乳房の突起を転がされ、全身が震えて天国へと昇りつめる。彼氏とはできない様々な行為に、全力で歓喜した。

 散々淫らに弄ばれた果てに、石のように硬くなったものを太ももに押し当てられ、丸裸になったドロドロの泉に押し入れられる。

「っぁああっ……れいとっすごい、もうだめ、きもちいよぉれいとぉっ……」

 遅い来る快楽に悶え狂う。水中で溺れ、溺死寸前で助けを求めるように彼のたくましい背にしがみつく。

 一晩中、甘く性器をいじられ、可愛がられ、犯される。これ以上の愉悦が他にあるだろうか。男との性的接触は最上の快楽だ。

 男という性は常に興味深く、何度味わっても底が知れない。男が持つもの、男から与えられるものすべてに発情し、心臓が壊れたようにめちゃくちゃな鼓動を打つ。その相手は今、黎人でないとだめだった。黎人以外にも魅力ある男はいるのだろうが、今の私は黎人にのみ反応する。

 ただ、この頭の中のピンク色の暴走は永遠に続くかのように思えるが、一年も経てば慣れきり、反応しなくなることはわかっている。異常な脳内物質は、同じ相手に対して永遠に分泌されることはない。それでも、黎人への暴走はまだまだ収まりそうになく、黎人を思い、黎人に会える日を待ちわびることで私は希望を持ち続けられ、生き続けていられる。


 大きな手と男の硬いものでなぶられ続け、幸福の肉塊となった私を黎人はたくましい胸に抱え込み、頭を撫で続ける。薄明かりに照らされた壁の時計を見やると、午前五時になろうとしていた。

「……黎人、そろそろ、帰らないと」

「そっか。別に、いつまででもいたっていいのに。……まあでも、さすがにまずいか」

 帰り支度を始める私を優しく見守る黎人の姿が視界に入り、切なさが募る。私には帰らなければならない事情があることを黎人は知っている。黎人は私のすべてを知り尽くしているのだ。それに、昼まで居座られたら、休日は自分の時間もしっかり確保したいタイプの黎人は確実に困るはずだ。

「またすぐ、会えるよね?」

「うん、また今度な。無事に家着いたら連絡して」

 玄関ドアの前できつく抱き合い、アパートの階段を最後の最後まで黎人にくっつきながら下る。

 もっとずっと一緒にいたい。だが、長時間一緒にいればいるほど、この甘い暴走終了までのカウントダウンは確実に早まるだろう。会えば新鮮な脳内麻薬が出る関係を、いつまでも延長していたかった。大丈夫、この麻薬が途切れる前にはまた会えるはずだ。男と交わった後の恍惚とした疲労感に包まれながら、猛暑前のまだ少しひんやりした朝焼けの道をサンダルのヒールがぐらつかないようのろのろ歩いて駅へ向かった。


「ただいま……」

「遅かったじゃん、何してたの」

「ユキコの終電がなくなって朝までつきあってただけだよ」

 まだ起きてゲームをしていたハジメが、コントローラーを操作しながらおかえり代わりのいつもの返答をする。

「まだゲームするの? もう寝たほうがいいんじゃない?」

「うん、あと少し、ボス戦が終わったら寝るよ」

 寝室のダブルベッドに一人で潜り、月経管理アプリのカレンダーを確認する。生理予定日である三日月マークの日がもう来週に迫っていた。つまり、ハジメがただ射精するだけのセックスをしてから、半年もの日数が経過したということだ。

 同い年のハジメには、一目見たときから惚れ込んだ。出会ってすぐに距離が縮まり、それからすぐ、私が二十歳になると同時に同棲を始め、もう九年になる。ハジメは、末っ子を体現したような自由なふるまいかつ気分屋で、ときに甘えたな性格をしている。適切な気配りと大人の男の色気に包容力のある黎人とは正反対の、弟のような男だ。

 恋人期間はとうの昔に過ぎ去り、きょうだいのような漫然とした関係になってから気の遠くなるような年月が経つ。

 たとえ漫然とであっても、九年間片時も離れず暮らしているだけあってハジメは私の身体の一部となっており、私はハジメなしでは生きていけない。ハジメがいなくなったら、私は自身の一部を失い死ぬ。けれども私は、セックスがなくても死ぬ。男性との性的接触なしに生き続ける人生なんて、牢獄の囚人同然だ。

 当然、性的に接する相手は誰でもいいわけじゃない。ただヤりたいだけならば、まだギリギリ二十代、体型は細身寄り、フルメイクで薄暗がりに放り込めばそこそこの顔面レベルの自分なら相手はいくらでも見つかる。けれども、その相手は私の脳内麻薬センサーが反応し、同棲していることも了承済みで、信頼できる相手でないとだめだ。

 そんな都合のいいセフレのような相手は中々見つかるものではなく、黎人に出会えたのは幸運だった。だから、黎人がいなくても私は死ぬ。私の生存にはハジメと、黎人のような男が不可欠だ。

 世間的には矛盾するこの生活に何かしらの解決策があるのかもしれないが、もうあらゆる情報をネットで検索し尽くし、友人だけでなくカウンセラーにまでお金を払って相談し尽くした結果、結局こういうふうにしか生きられないと結論づけた。今の時代のメジャーとされる価値観に自分は沿うことができない、そう開き直ることに決めた。

 性に淡白なハジメは、浮気どころか自慰をしている可能性もゼロに等しい。

 人生にはセックスが必須な人とそうでない人がいて、私は前者、ハジメは後者なのだ。そんな人間同士がうまくやっていくために、私は定期的にユートピアへ行き、秘密裏に黎人と会う。他人にどう思われようが、今の私はこのやり方でしか生きていけない。

 ハジメも私も、結婚に夢を見るタイプではない。将来の具体的な話はしないが、私はハジメと一生を共にするつもりで、ハジメもそうなのだと思う。だからこそ一緒に暮らし続けている。セックスが合わなくても。

 それでも、三十歳が近づくにつれ、私が性生活に満足していないことをハジメが見て見ぬ振りをしているにも関わらず嫉妬心だけは強いこと、このまま籍を入れるつもりは本当にないのかどうかなど、私達の間に横たわる問題や話し合えていないことについての不安が頭にのしかかるようになった。

 黎人と会った日は、満たされた心地いい疲れの中眠りに落ちる。が、翌日にはすぐにこの先への不安がよぎり、胸のざわつきに苛まれる。

 次に黎人に会えるのは、おそらく三週間後。ここ最近、黎人は毎週のようにユートピアに顔を出すことはなくなったし、互いに不定休だから休日もめったに合わない。今月は出張も重なっているらしく、約束はしていないが三週間後のパーティーでは会えるはずだった。


 今週こそは、と思い、仕事の疲労も少なく、機嫌も悪くないであろう休日を狙い、起き抜けのハジメにそれとなく誘いをかけた。が、まだ疲れが抜けないという理由でやんわりと断られる。翌日の夜、露骨にアクションを起こしてなし崩し的にセックスに持ち込もうとしたものの「今日はどうしてもそういう気になれない、ごめん」とはっきり拒否され、私の週末は幕を閉じた。

 性的な求めを拒否されたことで、私は不幸のどん底にいる。自分は不幸という考えが染み付いて離れない。明日あたりには、もう生理が来るはずだ。生理前の気分の沈みも相まって、私はさめざめとダブルベッドのシーツに顔を押し付け声を殺して泣いた。

 いっそハジメの前で泣いたほうがいいのかもしれないが、そんなことでは解決せず、その後に険悪な空気が漂うことは目に見えている。妙なところで臆病な虫ケラの私はそうなることが嫌だった。

 性の諸々の不一致は、どうにもならない問題なのだ。

 同居し、セックスレスにならない男女は稀有である。そのことは承知しているが、それでも、半年間も断り続けられるなんて。もうすぐ終わるとはいえ二九歳、女盛りといってもいい私の性器に、乗り気じゃなくたって半年ぶりの一度くらい触れてくれたっていいのに。

 ただ、仮にそれが叶えられたとしても、私は必ずハジメ以外の男との接触も求めるだろう。もうずっと前から、会った瞬間ピンク色の新鮮な脳内麻薬が分泌される異性とも交わっていないとだめなのだ。

 それでも、ハジメともっと頻繁にセックスがあり、私の性器をもっと丁寧にハジメがなぶってくれていたら。ユートピアのような場所を探すことはなかったかもしれないし、たとえ黎人と関係を持ったとしても、こんなにも黎人に焦がれ黎人を想い、日々の生活が黎人頼りになることもなかっただろう。

 黎人に出会う前の私は、セックスを断られ続け、セックスができない毎日が悲しくて腹立たしくて、性器に触れてもらえない、ペニスを入れてもらえない怒りをぶつける矛先がどこにもなく、セックスを拒まれる被害者として延々と一人で泣き続けていた。

 自宅で彼氏とセックス三昧。そんな生活は夢のまた夢で、解消しない欲求をいつも抱え、今以上の欲求不満に苛まれていた。

 自慰やスポーツなどでは満たされず、男に埋めてもらうことでしかこの穴は塞がらない。視界に入る幸せそうなカップルや、ハッピーを享受する人々が恨めしく、男に抱かれないと自分は鬱状態になることがわかった。

 このままでは死んでしまう、そんな状態からいい加減抜け出したくて、生き延びたくて、偶然見つけたユートピアで男を漁ろうと決めた。

 ないものを嘆くのではなく、あるものに目を向けなさい。でないと、いつまでも幸せにはなれない。

 泣き疲れ、気を紛らわそうと開いたSNSに流れてきた、何かの著名人のそんなお説教が目に入る。しかし、私が欲しているのは人間の三大欲求の一つなのだ。そのうちの一つの不足に耐えられる側の人間もいる。が、私は耐えられない側の人間なので、その欲求が満たされないとささいなことで苛立ち、たちまち空虚に支配されてしまう。虚しさと苛立ちが爆発し、死にたいという言葉をまき散らす前に、アルコールで紛らわせ、黎人と交わり、何とか平穏無事を保っている。

 二週間、あと二週間を乗り切れば、ユートピアで騒ぎ倒し、メインイベントの黎人に会ってたっぷり癒やしてもらい、性を舐め尽くすのだ。黎人の大きな手のひらの感触を思い出しながら、会える日を指折り数えて待った。その前に、私は節目の日を迎える。


 スマホの時計が、00:00に変わった。私の二十代が終わった瞬間。

 セックスレスに泣くフリーターの二十代独身、または三十代独身。どちらの肩書きのほうが、客観的に見て終わっているだろうか。

 三十代にはきっと、二十代よりさらに過酷で救いようのない困難が待ち受けているのだろう。私は、それに耐えていけるのだろうか。

 今日だけはセックスできない不幸を忘れるように、ハジメが駅前で買ってきたワンホールケーキの半分を一人で食べ尽くし、私の二十は幕を下ろした。


 翌朝、午前中に届いた黎人からの連絡を浮かれながら開く。

『今週、用事ができてユートピア行けなくなった』という文面を見た瞬間、私はピンク色をしたお花畑の天国から、真っ暗な奈落の底へ突き落とされた。だが、今宵の落下はそれだけでは終わらなかった。

 わかった、残念。泣。そんな返事を送った後には、『長野県に転勤になることが決まった。その準備でしばらく会えないと思う』というメッセージが続いた。その一文に私の視界は暗転し、身体が生命活動の維持をはっきり拒絶したのがわかった。

 私ね、きのう誕生日だったんだ。黎人の誕生日はいつなの?♪

 互いの誕生日についての会話をしたことがなかった黎人を驚かせようと、そんなことを呑気に言おうとしていた昨日の自分は、なんてめでたかったのだろう。

 誕生日の話題を送る気分は消失し、それ、本当? と打ち込むのが精一杯だった。あまりの絶望感に吐き気がこみ上げる。事実を受け止めきれず、泣くこともできない。


『きのう、妊娠がわかりました♡』

 kitachu♡グループに届いた、みんなにご報告、という前置きから始まる幸せ一杯のメッセージと、おめでとうの嵐。やっと終わったバイト帰りに開いた新着通知がこれかと、市立北中学校の同級生女子によるトークルームを開いたスマホを片手に、重い石で胸を押し潰される気分になる。

 翌週、産まれる前に会っておこうという、三年前に出産を済ませたミツエの提案で、仕事後の疲れた身体に鞭を打ち、都心から離れた埼玉県深谷市にあるサナの新居近くの駅に約二時間かけて向かう。先月入籍したばかりの、リツコの結婚祝いも兼ねての集まりだ。

 化粧をし、涼し気なオフショル気味のトップスとショート丈パンツをタンスから取り出す。買ったばかりの夏服を着て出かける用事が、黎人との逢瀬ではなく旧友のお祝いという、言ってしまえば自分になんら関係ない場であることにまた軽く絶望する。

 行かない選択もあったが、フリーター社会人になってからできた女友達は長続きせず、学生時代楽しく過ごした記憶の旧友との関係を断つつもりはまだなかった。それに、家にいても黎人のことが頭から離れず鬱々とするだけなのはわかっていたため、行くと返事をしてしまったのだ。

 途中まで子連れで行くから、できればお祝い品の購入と持参を身軽な私にお願いしたい、お金は渡すから。育児に奮闘中のミツエのそんな要望を断れるわけもなく、重い食器と鍋のプレゼント二人分を抱えての移動を経て、埼玉郊外の駅に到着した。


♪これから二人で歩む道 皆に見守られ今歩き出す道

♪二人で叶える夢、願い 穏やかな愛がここに

♪今幸せに包まれながら送る 祝福の言葉をあなたに


 リツコに捧げるね! と、これから膨らむお腹を気づかいながら聴き飽きたラブソングをカラオケ店で歌い上げるサナの横で、妊娠中でもなく子どもの面倒を見る必要もなく旦那のために早く帰宅する必要もない私は一人で度数高めのアルコールを頼み、軽快な曲調に合わせてパチンパチンと手拍子をしていた。ハッピーソング歌唱の最中、私は死にかけた魚のような目をしていたかもしれないが、ハッピーしかないこの場でそれに気づく者がいないことは、きっと良いことなのだろう。

「おめでとうリツコ~!」

「ありがとう~ほんとに、ていうかサナこそおめでとうだよー!」

「二人とも本当に良かったよね、もぉこれからが楽しみで仕方ないよね!」

 パチパチパチパチ。

 十五年前は同じ中学校で同じ毎日を過ごしていたが、もう随分と遠くに行ってしまった旧友たちのやり取りにうんうんと頷きながら、私は手を叩き続けた。皆同じ三十歳なのに、フリーターしかできずなんにもめでたくないこちらの生活との乖離が凄すぎて、宇宙の果てまで飛ばされそうだ。


 最近、人におめでとうと言うたび、植物の養分が枯れるように自身の幸せが減り、不幸せの種が増えている気がする。もう三十なのだから、自分で自分に養分を与えて生きていかなければならないのに。

 昨日が私の二十代終焉の日だったことは、誰も覚えていないようだった。前回集まったときはミツエの誕生日が近かったため、三人でプレゼントを渡したが、今回の結婚&出産という莫大な祝いの場では、私について話題に上ることもない。私とハジメに何の進展もないことがわかりきっているからだろう。祝いの場で、セフレのような男と別れるかもしれない悲しみを嘆くことも当然できない。

 別に、盛大なおめでとうをやってほしいわけじゃない。ただ、ミツエのときのように結婚祝いのお返しがないなら、私の二十代最期日について何か一言くらいくれてもいいのではと思う。が、結婚や育児で嵐のように忙しい彼女らが、家族以外の他人のバースデーのことなど考える余地もないことは容易に想像できる。この件についてこれ以上考えるのをやめるため、私はやけに苦いウーロンハイを一気に流し込んだ。 

 ハジメとは、セックスを断られた日から険悪なままだ。明日は食事につきあってもらう予定だが、この雰囲気のまま出かけても所々くだらないことで衝突し、あまり良い結果にならないだろうことは十年の歴史が物語っている。時間が過ぎ、ほとぼりが冷めるのを待つのがいつものパターンだった。

♪ジャジャッジャジャジャッ ダッダッダダダッ

 スピーカーから特徴的なギターの旋律と耳に残るドラムのリズムが流れ、画面に流れる歌詞に合わせてミツエが歌う。

 黎人がカラオケでよく歌っていた、Aikagiという男性ロックバンドの曲だ。彼がこのバンドのファンだと知ってからiPodで繰り返し聴いていた独特の曲調が、ぐさりぐさりと胸に刺さる。どうにかして黎人のことを考えないようにしていたのに、抑えていた会えない寂しさが濁流になって押し寄せ、私は狭いカラオケルームで逃げ場を失くした。

 黎人にまつわるあらゆる記憶が抉られ、つまびらかにされ、行き場のない生霊にでもなりそうだった。あとどのくらい時間が経てば成仏してくれるだろう。あとどれだけの寂しさを乗り越えれば、黎人を思い出さずに過ごしていけるのだろう。

「うちの親も何だかんだ安心したみたいだし、新居も旦那の両親のおかげで買えたところもあるし、結婚して色々落ち着いた感じはあるかな」

「しかもリクちゃん、ママ大好きで本当に可愛いしね~。来年三才だっけ?」

「もう天使だよね~」

「皆、ほんとよかったよね。家庭を持って子供を育てるなんて、すごいことだよ、ほんと」

 祝いの場に少しの水も差さない言葉を終始選んで発言しているため、今日の自分はうんうんと首を縦に振りながらへえー、すごい、よかった等の中身ゼロの共感ワードしか発していない。好き勝手に振る舞えないストレスと、また二時間かけて帰らなければならないことへの疲労が蓄積しすぎている。明日も仕事が早いからと、最後の力を振り絞って作り出したスマイル顔で嘘を吐き、私は一足先にカラオケ店を出た。


 金曜日の満員電車にぐったり揺られていると、このまま大人しく帰宅するのがなんだか馬鹿らしくなり、同時に今日がパーティーの開催日であることを思い出した私は、衝動的に渋谷で降車した。

 人々が酒を飲みながら騒いだり、だらけたりして自由に過ごすルキナリマンションの空気感は相変わらずで、私は多少の解放感を得た。

 人生にはこんな軽薄さに身を落とす時間も必要なのだろう。けれども、自分はいつまでそこに浸って、現実から逃げ続けるのだろうか。親子となり家族を持ち、光溢れる未来に向かって進む様をまざまざと見せつける旧友たち。一方、いつまでも薄暗い所に居座り続けアルコールで色々なことをごまかし続ける、社会の端くれの自分との差が激しすぎてもう笑いすら出ない。光の道を歩く人々はこんな私を見て、そんなに下ばっかり向いてるから駄目なんだよ、いつまでもネガティブに浸ってるから抜け出せないんだよと、真剣な眼差しで言うんだろう。

「はじめましてー! 今日はどこ帰りなのー?」

「中学の友達に会いに、深谷に行ってたんだよね。埼玉県の」

「深谷? 遠っ! でも、そういうのいいねー! 俺なんて中学の友達一人も残ってないよー。とりあえずカンパーイ」

 初めて見る社会人三年目風の男にいつものテキーラを渡され、最後の一滴まで飲み干す。

「ハイハイ皆今日も飲んでるー!? ハワイ帰りホヤホヤのユキナリです★ 今日はなんと! 旅先で買ってきた高級シャンパンもあるよーっ! 皆で飲もうぜーっ!」

 ボンッという音を立てて派手に開栓したシャンパンを、すっかり日焼け顔になったルキナリが全員のグラスに注いで回る。ユートピアの酒は、今日も変わらずおいしい。

 パーティー、飲み会、ランチにマッサージ、旅行など、子どもをどこかに預けることなど考えもせず、身一つで好きなときに好きな場所へ自由に行けて、家に帰ればいくらでも怠惰に過ごせる私は旦那と子供の世話で疲労困憊の旧友よりも幸せなはずで、決して不幸なんかじゃないはずだ。

 最近は子連れで居酒屋に行く親が多いらしいが、ミツエによると、結局子どものことが気になって相手をさせられて、全然好きなように飲めないそうだ。ママたちは、私が普段自由にできることが何一つもできない。職場復帰した友人は、子どもから解放されて一人になれる束の間の通勤電車が天国だと言っていた。通勤電車。本来苦痛であるはずのそんな場所が天国だなんて、幸福のハードルが低すぎる。私は、今は黎人に会えないけれども、いつでも何だって好きなようにできるし、自由を謳歌できる。大人一人の人生を楽しんでいる。何も不幸なんてない、何も心配することもない、私の人生には染み一つなく一点の曇りもない。自由な私は不幸じゃない私は幸せ。

 脳細胞にアルコールが浸透し、ほろ酔いだった身体は徐々にぐわんぐわんと視界が歪み、くっつきながら騒ぐ男女の声を遠くにかき消していく。

 次第に、黎人がいつも肘をつきもたれかかっていたカウンター、黎人が必ず飲んでいたスミノフの瓶、罰ゲームをかけて馬鹿みたいに何度も遊んだババ抜きのトランプなど、パーティーの空間すべてに黎人の残像が走る。何をどう足掻こうと今日ここに黎人は現れないし、もしかしたらもう永久にここへは来ないかもしれないのに。黎人が私に刻み込んでいった残り香は強くなるばかりで、居ても立っても居られなくなった私は四杯目のスパークリングを身体に染み込ませ、玄関に向かった。

「カオルちゃーんもう帰るのー? また来てよー。かわいい女子がいないと男どもがテンション上がんないからさぁ」

 ルキナリのいつもの黄金スマイルにも、黎人の影を感じて切なさが募る。歯切れの悪い返事をしながら、ルキナリマンションを後にした。

 電車に揺られていると、蛍光灯の眩しさと化粧崩れ隠しのためのサングラスの下で、いつのまにか流れ始めた涙が顔を濡らした。サングラスの縁で水分が次々と堰き止められていく。乗客たちは、まさかサングラスの内側でそのような事態が起きているとは考えもしないだろう。鼻水まで分泌され始め無様さを周囲に悟られないよう、感情の嵐が暴風雨に変わらないよう見張り続ける。

 何とかやり過ごし、改札を出て、まだ梅雨が抜けきらない七月のぬるく不快な夜道を歩く。そのうち涙腺が崩壊し醜い嗚咽が漏れ出したため、人目につかない路地裏へ入り、地面に這いつくばるようにして体内の水分を垂れ流した。はるか彼方へ行ってしまった旧友、黎人の不在、ハジメとのセックスレス。これらにまつわる感情をどう解決すればいいのかまったくわからず、私はただ打ちのめされ、剥き出しのコンクリートに座り込んだ。車内からつけっぱなしにしていたiPodのイヤホンから、ランダム再生されたAikagiの歌声が大好きな黎人の声に自動変換されて鼓膜に響き、脳髄をザクザクと切り裂く。私の頭の中のもの全部流れ出て蒸発してしまえ。無様な体液を放出する、人としての機能は一応働いている自分にほんの少し安堵する。

 ああ、私も、結婚がしてみたいのかもしれない。道端にうずくまり瞼から水分を出し尽くし、疲れ果てた後に出てきたのはそんな陳腐なセリフだった。一種の肩書きを一度手に入れてみる機会なのかもしれないという考えまで浮かぶ。

 恐らく、今、私という人間は黎人に会えない寂しさを結婚というイベントに向かうことで紛らわそうとしている。そして、その相手は、こんなに執着するほど好きでも、生活を共にしたいとは一切感じない黎人ではない。たとえセックスがなくても、すでに私の身体の一部となっているハジメでないとだめなのだ。嗚咽の果てに湧き出てきたその欲求に、私は一度従ってみることにした。私の提案にハジメがすんなり了承する保証はまったくないが、とにかく話だけでもしなければ気が済まない衝動に駆られた。


 玄関ドアを開けると、寝ぼけ眼のハジメが座椅子へ横になっていた。

「おかえり。思ったより遅かったじゃん。カルピス買ってきてくれた?」

「あー……、ごめん、忘れてた。旦那と子どもの話が尽きなくて長引いて、二時間以上かけて帰ってきたから」

「へえー、大変だったね。おれ、明日早いからもう寝る。朝目覚まし鳴ってるのにおれが起きそうになかったら、強引に起こしといて」

 先日からの険悪さをまだ少し引きずった様子のハジメは、そう言い捨てると寝室に入っていった。まだ、話を切り出すタイミングではない。喉まで出かけた言葉を一旦飲み込む。

 ざっとシャワーを浴び、汗でドロドロの身体を流し、ハジメが寝息を立てるベッドに入る。私もたまには早く起きようと思いスマホのアラームを開くと、朝五時の設定履歴が最上部に表示された。黎人と一緒に眠ったとき、始発の時間に起きるため設定したものだった。

 黎人と過ごした日々の痕跡は、まだそこらじゅうに残っている。黎人の部屋の香りが染みついた最後に着ていたカーディガンもまだ洗えず、引き出しの奥につっこんである。明け方に私の肩を抱いて眠る黎人の映像が頭に浮かび、胸が締め付けられ呼吸困難に陥りそうになり、五時のアラーム設定を削除した。

 長野県の名産品に五平餅ってあったよ! 私あれ好きなんだよね、久しぶりに食べたいな。

 こちらの送ったメッセージが既読になったまま数日が経つが、黎人から返事はない。会話の途中で返事が途切れることは前にもあった。今回も今までと同じ、特に理由のない未返信だと信じたい。本当は、次はいつ会えるの? 私のこと嫌いになった? もう会えないの? などと迫りたいが、嫌われるのが怖くて踏みとどまっている。

 私は、まだまだ黎人を欲している。黎人。あの大きな手で私を撫でて、燻り続ける性器に触ってほしい。そうして広い背中に飛びつきたい。私はハジメと生活をしながら、恋愛とセックスをしていないとこの世界に生きる意味を見いだせない。黎人のような男と新鮮に性的に交わり続けていないと、息をしていられない。


 Facebookはパンドラの箱だ。絶対に開けてはいけない箱。

 結婚。幸せ。夫婦。円満。妊娠。出産。子供、子供。笑顔笑顔。成長。独立。夢。努力。成功。祝福。

 青いロゴのページを延々とスクロールすれば、人々の幸福が永遠に飛び出し続ける。ほんの好奇心で覗いてしまうと、画面の中の幸せいっぱいの投稿とは真逆のあらゆる負の感情に襲われる。もう何ヶ月も見ないようにしていたのに、スマホを触り続けていたら誤って開いてしまい、すぐに閉じればいいものを過去に遡ってタイムラインを見てしまったことを後悔する。

 なぜ、私は幸せじゃないんだろう。私だって幸せになりたいのに、なぜ私にはFacebookの中の彼らが持つ、あの輝くような100%の幸せがないんだろう。

 別にそんなのしなくていいと、結婚をずっと敬遠していたのに。私だって一度は結婚という制度に身を落としてみたい、そんな感情から逃れられなくなっている。結婚も黎人もどちらも欲しい。もし結婚したとしても、私はまた黎人のような男を探し求めるだろう。


「あー! やっぱり仕事終わりの焼鳥とカルピスサワーっていいね」

 あまり酒を飲まないハジメが珍しくハイペースで飲み、うれしそうにつくね串を頬張っている。私の誕生日という名目での食事だったが、なんだかもう外食できればどの店でもよくなり、ハジメの職場近くの安い焼鳥店に入った。

「どうしたの、なんか今日楽しそうだね?」

「大きなシステム案件受注して、リーダーまかされたんだよ。三ヶ月後に終わる予定なんだけど、うまくいけばそのままチームリーダーに昇進できるかも」

「へえー、よかったじゃん。ハジメ今の仕事、だいぶ向いてるよね。ついこの前まで新入社員だったのに、もうリーダーかぁ」

 セックスを断られた日から続いていた険悪さは、この昇進話で一旦たち消えたようだ。ハジメがうれしい気分のときは、私もうれしい。ハジメが落ちているときは私も落ちる。私の気分はハジメと連動してもいる。今日はなんでもない焼鳥も焼酎も妙においしく感じる。それに一応私の誕生日で来た食事なんだし、今日くらいは好きなだけ食べ散らかしてもいいだろう。あと三十分後の夜七時まで、ドリンクが二割引になるらしい。安いうちに頼んでおこうと、早いペースで私もグラスを空ける。ハジメも割引表示に気づいたようで、早くも二杯目に入りそうだ。

 ハジメがトイレに立ち、やらないほうがいいとわかっているのに念の為スマホを確認する。新着通知が来ており、ドキドキしながら確認する。kitachu♡グループに四件の新着表示。黎人からの返事はやはりない。未読のままスマホを消した。

 焼鳥盛り合わせと卵チャーハン、それに鶏塩ラーメンが来てからは無言で食に集中した。いつもの光景だった。三杯目のドリンクを注文する。焼鳥を一口齧ってはグラスを傾ける。濃い塩味とタレが、水分摂取を次々促す。アルコールでバカになり始めた満腹中枢に、追加の揚げ物とデザートも放り込む。夏限定のスムージー状の酒にも手を出し、順調に酔いが巡る。

「あのさー今度、籍入れる?」

 自分の口から不意に出た言葉だった。ハジメは食べかけの串を皿に置き、少し間を置いてから口を開いた。

「うーん結婚? したら、今と何がどう変わる? うーんおれたちもうずっと住んでるし特に大きくは変わらないよな」

「それにね私ハジメとの子孫を残したい。ハジメとこんなにいつもいるっていうことを紛れもない形として残してハジメの遺伝子を受け継ぎたい」

「おれも、自分の子供に会ってみたいとは思うよ。でもそれにはもっとちゃんとした、準備が必要だな」

「ドリンクのサービスタイム終わりますが、注文されますか?」

「あー……じゃあ、おれはカルピスで」

「あとハイボールください」

店員の割引時間終了アナウンスにより、その日の話はなんとなく終わった。


 翌日、ニュース番組を見ながら少し遅い朝食を狭いテーブルに並んで食べる。

 ハンコ廃止の動きが、行政にも広まりそうです。ニュースキャスターが印鑑廃止と電子化の普及について説明を始めると、ハジメが口を開いた。

「なんか、婚姻届もオンラインで出せるようになるみたいだよ」

「へえ、便利になるね」

「あ、でも、いつになるかは未定なんだって」

「ふうん、けどこのままいけばオンライン化するんじゃない? ハジメみたいな紙に字を書くのを極端に嫌がるし印鑑もすぐどっかに無くしちゃう人も、ネットでできるならハードルは下がるのかな」

「離婚届もネットで出せるんだって。離婚が増えるんじゃないかって騒いでる人もいたよ」

「でも三組に一組は離婚してるんだし、いまさらじゃない?」

 ハジメは食べ終えた食器をいつも通りテーブルに残したまま、ちょっと仕事の残りやらなきゃ、とパソコンに向かった。

 二人のこの先に関する会話ができただけ私とハジメにとっては進歩なのかもしれない。まるで蟻のような歩みだ。

 自身も祝福される立場になってみない限り、私はいつまでも同じ段階で立ち止まったままでいる気がした。既婚となった暁には、また新たな問題が発生するのだろう。でも、ここから動かない限り同じループをさまようばかりだ。どの段階にいても悩むなら、どうせなら違うステージの悩みにそろそろ変更したい。それに、性生活が不一致でも、私はハジメがいないと壊れてしまう。別れたって案外平気だよ死ぬわけじゃないしと言われることがあるが、別れる気なんてないのだからそんな的外れな助言をされても困る。

 私は昔から、全部手に入れないと気が済まない子供だった。ハジメとの結婚も子供も黎人のような将来を約束しない男との肉欲にまみれた時間もどれも欲しい、どれも手に入れることにしないとだめなのだ。どれか一つを選ぶなんてできない、どれも必要不可欠で、他の男にも好きと言っていたなんて信じられないと憤る人間の気持ちがわからない、だってどちらも同じくらい好きで必要なのだから。そんなの無理に決まってるじゃない、そのような意見はお門違いなのだ。どれか一つの満足しかない人生なんて、肉欲男のいない人生なんて私の人生じゃない、そんなの死んだほうがましだ。


 三十時間ほど経ってからやっと、kitachu♡グループの新着通知を確認する。リツコの結婚式の前撮り写真がいくつも表示され、ろくに見ることなくステキ! と叫ぶウサギのスタンプを返し、スマホをベッドに放った。


♪おめでとうおめでとう 今日のあなた全てにおめでとう


 iPodからランダム再生でマイナーなバンドのそんな曲の一節が聴こえきた瞬間、自然に涙がグチャグチャ溢れて泣いた。

 iPodからの祝福でなんだかもう自分は十分なのかもしれない。また唐突にセックスがしたくなって、黎人の長い指を思い出しながら、女盛りの性器に指を這わせた。

(了)

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どっちもないと生きられない 紫月ルイカ @ruiruika

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