倖楓のお願い(ワガママ)
バイトも終わり、何事も無く帰宅。
リビングに入り、俺はソファに勢いよく腰を下ろした。
「あぁー、疲れたー」
疲労を口にしつつ、天井を見上げる。
すると、『ヒョコッ』と効果音がしそうな動きで倖楓が俺の顔を覗き込んできた。
「ゆーくん、なんかおじさん臭いよ?」
「そうだなー」
否定するエネルギーも使いたくないほどに疲労感がピークだ。
「もうっ、来週からは学校が始まるんだよ?」
「今それ言うのは逆効果だからなー」
俺はずるずるとソファからずり落ちていく。
「ごめんごめん!ほら、元気出して!」
そう言って倖楓は、飲み物の入った冷たいコップを俺の頬に当てる。
そういえば入学してすぐ、学校の中庭でこんな風に飲み物を持って、倖楓が覗き込んできたことがあったなと懐かしむ。
あの時は驚いたけど、今は倖楓が近くにいるのが当たり前になってるし、また同じことをされても“倖楓だから”で納得出来てしまう。
俺は体勢を戻し、倖楓からコップを受け取って口をつける。
中身はスポーツドリンクだ。
「どう?元気でた?」
「まあ、少しは…」
「なら良かった!」
と、ここまで会話して初めて違和感に気が付いた。
「待った、なんでサチは流れるように俺の部屋に入ってるんだ?」
俺の部屋で夕飯を食べるというのならいつものことなのでおかしくもないのだが、今日はバイト先で済ませた。そういう日は、エレベーターで別れるのがいつもの流れだ。
それに、今は22時をとっくに過ぎている。普段だってこんな時間まで俺の部屋にいることはない。
「だって、久木くんに花火大会のこと連絡するんでしょ?反応が気になるもん」
俺と倖楓は、花火大会のことを明希だけに伝えることにした。
明希と槙野の2人は、俺と倖楓のどっちもが相談されていることは知らないし、明希から誘われた方が槙野は嬉しいだろうという判断だ。
なので、あくまで俺だけが知って明希に教えたという体を取り、倖楓の方に槙野から報告があれば、話を合わせることになった。
「この時間だし、寝てる可能性だってあるんだから今日は自分の部屋に戻れって」
「ついこの前まで一緒の部屋で寝てたんだから、気にすることないのにー」
倖楓は不満そうに唇を尖らせる。
「あれは保護者も同じ家にいたし、何よりサチの親御さんの許可もあったからで…」
「でも、ゆーくんが熱出した時も泊まったよ?」
「それは…、やむを得ない事情ってことでノーカンに…」
覗き込む倖楓から顔を背けると、倖楓は背面から移動して俺の隣に座った。
「親を裏切るような間違いを起こさなければ、問題無いと思うな」
「いやでも…」
もちろん間違いを起こすつもりはない。
でも、やっぱり見られてない所でもしっかりしておきたいと思う。
俺があれこれ考えていると、倖楓が顔を近づけて上目使いをしてきた。
「もしかして…間違い、起こしそう?」
「起こさねぇよ!」
倖楓の発言を食い気味に否定する。
すると、倖楓は小声で、
「起こしてくれてもいいのに…」
と、拗ねたように言う。
今のは聞かなかったことにしよう、うん。
とりあえず、この言い合いをしているだけでも、どんどん時間が経ってしまう。それなら、こっちが少し折れれば倖楓も妥協してくれるだろう。
「じゃあ、明希にメッセージを送って、10分以内に返事がなかったら部屋に戻る。それならいいよ」
「10分かぁ…」
腕時計とにらめっこをする倖楓。
「うん、わかった」
渋々と言った様子だったが、了承してくれた。
俺は、すぐにスマホで明希に花火大会の詳細をメッセージで送る。
「はい、送ったから後10分なー」
倖楓にスマホの画面を見せながら、俺は念を押す。
「ゆーくんはそんなに帰ってほしいの?」
「疲れてるし、まだ風呂入ったりしないといけないし。サチだってそうだろ?」
「それは、そうだけど…」
今日はやけに食い下がるな…。
こういう時は大抵、何かあったりした後のことが多いが、今回は思い当たることが無い。
わからないことは素直に聞いてしまった方が、悪手を打つことも無いだろう。
「サチ、何かあった?」
「そういうわけじゃないんだけど」…
そう言うわりに、歯切れが悪いしモジモジしている。
「だけど?」
「…もうすぐ、夏休みが終わっちゃうでしょ?」
「不本意だけど、そうだな」
「学校が始まったら、2人だけの時間が減っちゃうなって思って…」
時折見せる悲しい表情ではなく、子どもの不貞腐れた様な顔をする倖楓。
それがなんだか可笑しくて、思わず笑ってしまう。
「笑うなんて酷いよっ!」
「ごめんごめん」
口では謝っているが、俺の笑いは、まだ収まっていない。
「もうっ、どうせ私がワガママなだけですよー」
倖楓は唇を尖らせて、そっぽを向く。
結局、理由を聞いても悪手を打ってしまったが、怒らせたというほどではないのでマシな方だろう。
俺が倖楓のご機嫌取りをしようと思い立ったその時、手元から軽快な電子音が鳴った。
「「あ」」
俺と倖楓は、同時に声を出してそれを見た。
もちろん、このタイミングで鳴ったということは―――、
『全然知らなかった!香菜のこと誘ってみる』
俺のスマホの画面に、明希からの返信が映し出されていた。
どうやら、良い提案が出来た様みたいだ。
後は槙野が承諾するかだが、心配はいらないだろう。
「とりあえず、俺達の役割はこれで終わりかな」
「うん、2人からの報告が楽しみだね」
俺は明希に応援のメッセージを送って、スマホの画面を閉じる。
これで今日やるべきことは全て済ませた。ようやく、ちゃんと一息つける。
俺は短く息を吐いてから、ローテーブルに置いていたコップを取り、口をつけた。
隣では、倖楓もいつの間にか自分のコップを持って来て何か飲んでいた。
「「………」」
お互いに一安心したからか、無言でまったりとした空気が流れている。
「―――いやいや!なにまったりしてんの!?帰りな!?」
「…ちっ」
「聞こえてるぞ」
「ピュ~ピュ~」
またベタな誤魔化し方を…。
その割に口笛が上手いのが、地味に腹立つ。
「ほら、帰った帰った。うちは店じまいしますよ」
「え~」
「え~、じゃない。約束しただろ」
そもそも、これ以上俺の部屋にいても風呂に入って寝るだけで、“2人で過ごす”と言えるだけの時間なんてほとんど無いだろうに。
「じゃあ、帰る代わりにお願いがあります!」
「いや、なんで俺が強要してるみたいな言い方なの?おかしいよな?」
俺の抗議なんてお構いなしで話を続ける倖楓。
「私も花火大会に―――」
「ダメです」
倖楓のお願いを即座に却下する。
そして、お互いに睨み合う。
「「………」」
「私も―――」
「ダメ」
「最後まで言わせてよ!」
「最後まで言ってもダメなものはダメです!」
「どうしてっ!」
これがただの花火大会なら全く問題ないのだが、今回の場合は違う。
「あのな?告白する予定のある友達が行くことを知っていて、しかも教えたのは俺なんだぞ?もしも現地で鉢合わせたり見つかったりしたら、明希からしたら野次馬しに来たと思われても仕方がない状況だぞ?そんなの絶対に嫌だ」
「無関係じゃないから野次馬じゃないですー!」
またこの子は屁理屈を…。
「じゃあ、見つかったら何て説明するんだよ?」
「普通に遊びに来たって言えば良いでしょ?」
「そんな軽く…」
実際、明希は怒ったりしないだろうが、俺の罪悪感が凄い。
そんなことを考えていると、倖楓が俺の腕に縋り付いて来た。
「“今年の夏”は今年しかないんだよ?」
「うっ…」
俺に少しのダメージ。
でも、そう簡単には――――、
「ゆーくんと一緒に過ごせる、3年ぶりの夏なんだよ…?」
倖楓の会心の一撃。
これが致命傷となり、高校に入ってから使い過ぎで、すでに折れかけの白旗を上げた。
この子に言い合いで勝てないなんて、とっくに実証済みだったろうに…。
こうして、俺の夏休み最後の予定が倖楓によって決められたのだった。
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