時間

 室内に調理を行う音が響く。食材を切る音、まな板に包丁が合わさる音、ボウルが鳴る音、鍋で水が沸騰する音。ただそれだけが部屋を満たしている。ここには3人もいるのに。そう、ここは飲食店の調理場でもなんでもない。むしろそっちの方が声を出しているかもしれない。


 調理を進める2人は黙々と自分の手元を見て作業をしている。正確には手元以外を見ようとしていない。ついさっきの事故からお互いを視界にいれることが出来なくなっていた。一見集中しているように見える俺は全く集中できていない。頭の中はさっきの事故の光景や感覚をリピートしてしまっている。考えないようにしていることで考えてしまっている悪循環。


 塩の入ったケースを手に取ろうとして伸ばした手に、ケースとそれ以外の何かが当たる。


 視線を移すと塩の入ったケースに倖楓も手を出していて、同時に掴んでしまったらしい。普段なら何ともないことも今は緊急事態になる。


「「ご、ごめん!」」


 同時に謝る。静電気でも走ったように2人とも手を勢いよく引いたため、塩の入ったケースが床に落ちてしまう。落ちたケースを拾おうとお互い考えているが、また手を触ってしまうことに怯えて動けないでいる。すると横から第三者がケースを拾う。


「あんた達!ちょっと頭を冷やしなさい!料理中なんだから危ないでしょうが!」


 呆れたように叱る姉ちゃんに2人揃って頭を小突かれる。言われたことが正しすぎて何も言い返せない。それを見て姉ちゃんが俺たちに指示を出す。


「悠斗!あんたはもう料理しなくていいから、コンビニ行ってあたしにアイス買ってきなさい。ダッツよ、ダッツ。あんたとさっちゃんの分も買っていいからね」


 そう言って俺の手にお金を握らせ、次は倖楓に指示をする。


「さっちゃんはあたしと料理の続きをするよ!あたし主導でやるからね」


 急な方針の変更に俺たちが戸惑っていると姉ちゃんの顔が険しくなる。


「わかったら返事!」

「「は、はい!」」


 ぐちゃぐちゃだった思考が、姉ちゃんの指示に従うという使命によってまとまる。返事をしてすぐに俺は玄関に向かい、そのまま外へ出た。




 俺は指示通り、3人分のお高いアイスを買って帰っている途中だ。やっと落ち着いて考えられる思考力が戻ってきた。俺は改めてさっきの事故のことを思い返している。


 どうして俺は動けなかったのか。そのわけをずっと考えている。俺はシャツの胸の辺りを手で握る。まだ熱い。体温ではなく心が、気持ちが。――――わかっている。こ・れ・は抱えてはいけない、理解してはいけないと。だから、俺は何もわかっていない。部屋に戻ったら何もかも今まで通りになる。俺はもう一度覚悟をして部屋のドアを開けた。


 リビングに戻るといい香りがした。忘れていた空腹感が戻ってくる。


「おかえり悠斗。ちゃんと買ってきた?」

「あ、ただいま。ストロベリーだよね?」

「うん、良くできました」


 そう言って俺の頭を雑に撫でる。今回はお世話になった身なので黙って受け入れる。問題の倖楓は料理をテーブルに並べている最中だった。これは俺から話しかけた方が良いと思い、並べ終わってから声をかける。


「サチ」


 倖楓は身体を一瞬震わせてからこっちを見た。


「う、うん」

「その、ごめんサチ。俺が急に話しかけたから驚かせた」

「謝らないで。こっちこそごめんね。私、助けてもらったのにお礼言ってなかった。改めてありがとう、ゆーくん」

「はい、それじゃあ2人とも。早く座って食べるよ」


 姉ちゃんの一言で空気が入れ替わる。俺は問題をすり替えることで解決を図った。しかし、倖楓がなかったことにはしてくれなかった。


「私、嫌じゃなかったから」


 俺は耳元でそう言われて驚く。倖楓の顔を見ると、そこにはもう普段の倖楓の顔があった。




「はぁー、美味しかったー!わたしは満足です!」

「食器は俺が片付けるよ」

「あ、私もやる」

「大丈夫。結局、俺最後まで手伝えなかったし。姉ちゃんの相手しといて」

「そう?わかった、ありがとう」


 食事中はそれほど悪い空気ではなかった。初めは口数が少なかったが、姉ちゃんが積極的に話題を振ってくれたので食べ終わる頃にはいつもの俺たちになっていた。


 俺は自分で言った通り片付けを始めた。今はこういう単純作業が心地いい。リビングからは姉ちゃんと倖楓の楽しそうな声が聞こえる。なんだか昔に戻ったように感じて懐かしくなる。それと同時にこれを3年も失くしていた事実も実感していた。そうやって俺がいろいろなことを考えながら食器を洗っていると横から声がかかる。


「やっぱり私も手伝おっか?」

「うおっ」


 突然話しかけられて驚き、危うく食器を落としかけた。


「危なかった…」

「ご、ごめんね…」


 シチュエーションがさっきと似ていたからか、倖楓が顔を曇らせる。これは頼まないと逆に辛そうだなと感じたので申し出を受けることにする。


「いいよ。それじゃあこっちの洗い物してくれる?」

「…うん!」


 倖楓の嬉しそうな笑顔に安心する。

 姉ちゃんはどうしているのかと思いソファの方を見ると、空になっていた。


「姉ちゃんは?」

「お風呂入るって」


 本当に自由だな。まあ今日は助けられたので文句は言うまい。


「そっか、全然気が付かなかった」

「みたいだね、上の空って感じだったもん」

「ちょっと考え事してた」

「ふーん、私の事?」


 声がちょっと楽しそうだったので横を見ると、予想通り二ヤついた顔の倖楓がいた。もう本調子みたいだ。


「まぁ、そうかな」

「へっ!?」


 自分で聞いておいて何を驚いているのか。俺は話を続ける。


「正確には俺たち3人かな、すごく久しぶりだったから」

「あ、うん。そうだね。…私ね、明日香お姉ちゃんとゆーくんがいてくれたから、ずっと1人っ子だって思ったことない。この時間が大好き。他のことはどうでもいいくらい」

「そっか」

「ゆーくんはどう?」

「俺も、好き…かな」


 たぶんいろんな感情が混ざっていたからだと思う、うまく言葉に出来なかった。


「ゆーくん」

「なに?」

「ゆーくんはきっと優しいから、失くした時間を気にしてるんだと思うの。でもね、取り戻せばいいと思うな。時間はこれからいっぱいあるんだから」


 考えていたことを言い当てられて、俺は動けなくなってしまった。どうしてこの子はここまでわかってしまうのか。無意識のうちに倖楓の顔を見ていた。


「ね?」

「そう…だな」

「そうだよ」


 笑みを向けられて思わず顔を背けてしまう。なんか今日は変だ。たぶん、昔を思い出して不安定になっているのだと自己分析をする。すると倖楓が何か思い出したように喋る。


「あ、そういえばね」

「ん?」

「さっき他のことはどうでもいいって言ったけどね、もう1個同じくらいかそれ以上に大事なことがあるんだー」

「なにそれ?」

「まだ内緒♪」


 楽しそうだ。倖楓はこういう顔が1番似合うと思う。俺たちは他愛のない話をしながら片付けを終える。同じくらいのタイミングで入浴を終えたであろう姉ちゃんの声が聞こえてきた。


「ふぁー、良いお湯でした!」

「シャワーでしょ」

「お湯はお湯ですー」


 姉弟の会話をしてると、突然倖楓が大声を上げる。


「あ、あ、明日香お姉ちゃん!なんて恰好してるの!」


 今、姉は下着姿だった。たしかに他人からすればとんでもない恰好かもしれないが、姉弟だし長年一緒に暮らしてれば何とも思わなかった。俺がそう思うのだから当然、当人も何も感じていない。


「へ?そうだけど?」

「そうだけど?じゃないよ!ゆーくんがいるでしょ!」

「いや、さっちゃん。弟だし気にしないよ」

「ダメです!ちゃんと服着て!ゆーくんも何か言ってよ」


 こんなに怒ってる倖楓は再会してから初めてかもしれない。でも、このことに関しては温度差がありすぎて俺もついてけない。


「いや、別になんとも思わないというか。もう慣れてるというか」

「お互いにもっと恥じらいを持ってよ!まともなのは私だけ!?」

「さっちゃん、落ちつこ?」

「うん。サチ、1回深呼吸した方がいいと思う」

「ダメだ、私がなんとかしないと!」


 余計に倖楓の正義感(?)に火を点けてしまったらしい。姉ちゃんを連れて浴室の方へ連れてってしまった。


 2分後。サチと、服を着たというか着させられた姉ちゃんが出てきた。倖楓の興奮はまだ収まっていないようだ。


「ゆーくん!明日香お姉ちゃんは今日私の部屋で寝てもらいます!それじゃあね!」

「悠斗、さっちゃん止まらないから今日は大人しく従っておくね。明日寝坊しないようにね、8時にはここ来るからー」

「あ、はい」


 姉ちゃんが倖楓に引っ張られながら明日の確認をしていった。そのうち玄関の扉が閉まる音がして部屋に静寂が訪れた。


「静かになったな」


 余裕の無い人間を見るとここまで冷静になれるものなのだなと、しみじみ感じる金曜の夜だった。

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