第6章 トラック諸島②

 一方、軍施設内の食堂では、辻岡が夏島に来るとの事で簡単ではあるが小宴が用意されていた。


「おぉ! なんや、お前飲めるクチやないか」

「日本らん児がこりくらいれ……よ、酔いちゅぶれる訳に……」

 呂律の回らぬ何処の所属かもわからない若者が、目の前でバタっと音を立てぶっ倒れる。

「なんや、情けないのぉ」

「ベロベロですね、この男。どこの所属でしょうか?」

 一升瓶を片手にテーブルを次々と移っては、若い歳下の海兵隊や整備兵であろうと酒を自ら注いで周る辻岡と日比野。それが彼流のコミュニケーションであった。

 日比野は既に酩酊状態で半分寝てるようなものだったが、不思議と思い出したように起きてはご機嫌で辻岡と一緒に席を渡り歩いていた。


 そんな陽気な雰囲気の中、別のテーブルでは若い数名の兵員達が真剣な面持ちで酒を酌み交わしていた。

「ワシはこの戦争が終わったら、実家に帰って家業の酒蔵を継ぐんじゃ」

「へぇ? お前んとこの家は日本酒を作っとるんか?」

「そうじゃ、広島の呉でのぉ。そりゃもう、ワシんとこの酒はぶち美味いんじゃけぇ」

「そりゃ是非とも飲んでみたいな! って事はお前、長男なのか?」

「あぁ、父は戦死してもうたけぇ……家で男はワシだけじゃ。ワシが家を継いで母さんと妹の面倒を見たるんじゃ」


 青年はコップに並々入った日本酒をグイッと飲み干すと、ジッと透明なコップの底を見つめる。

 実家の造る日本酒がとても懐かしく、またそちらの方が数倍も美味い……そう思った。

「そうか……俺は平和になったら何しようかな?」

 伏し目がちに顔を曇らす同僚に、元気な広島弁の青年は残念そうに問う。

「なんじゃ、その言い方は? やりたい事がない訳じゃなかろう」


 すると背の高いもうひとりの青年が割って入った。

「戦争ばっかりしてると戦いが日常になって……やりたい事が山程ある筈なのに、何をすれば良いかわからなくなるんだ」

「あぁ、わかる……死んで行った仲間を思うと、今はそんな事考えたらいかんのかと思ったりもする」

「そうだな、明日には死ぬかも知れないのに、平和になったら何がしたいなんて――」


 突然そこに肩を組んだ辻岡と日比野が、その輪の中に雪崩れ込むようドドーっと割って入ってきた。驚く兵員たちの空になったコップに次々と日本酒を注ぎながら、余った方の腕を若い兵員の肩に回す。

 右側に日比野、左側に若い兵員双方の肩に手を回し、左腕をグッと引き寄せるとその兵員を覗き込むように顔を近付ける。

「なんや辛気臭い話しとんな? 死ぬ死ぬ言うて何やねん、生きたらえーんや! 生き残って何が悪いねん? 生きて帰って何がしたいか存分に悩め! その為に俺たちは生まれてきたんやろ」


 辻岡の思いがけない回答に、その場にいた若い兵員達はポカンと口を開けた。

「生きる?」

 誰かが繰り返した。この戦時下に於いて誰もが心から願うも、口にするのは憚るであろう台詞を平然と言ってのける辻岡。

 国の為に死んで来い。死を恐れるな。そう軍内で教えられ叩き込まれたた若い兵員たちは、その言動に誰もが目を丸くし言葉を失った。


「そうや、誰も死にたい奴なんかおらんやろ……死ぬ為に戦争しとんのか? 何がなんでも生き残ってやりたい事をやったらええんや、それの何が悪い?」

 辻岡は穏やかな口調で未だ経験の少ない若者を諭すように、ゆっくりと話し続ける。

「商売して金儲けでもするか? なんか趣味でもスポーツでも一生懸命するんも良し! 女に恋してフラれるんもえぇやろ? 人生は楽しんだもん勝ち、人に迷惑かけなんだら何をしてもえぇんや」


 辻岡の言葉に吸い込まれるように耳を傾ける若い兵員達。その中のひとりが辻岡に聞こえないよう、小さな声で隣の兵員に耳打ちする。

「意外と辻岡少将って、まともな話するんだな……もっと、無茶苦茶な人かと思ってたよ」

 内緒話にしては声が大き過ぎた。その声に気付いた辻岡は話を止めるとその兵員の前に立ち、まじまじと顔を凝視する。

(殴られる……)兵員は、そう思った。

 すると突然、その若者の股間をギュッとを握り力を入れる。

「ぎゃっ!」

 咄嗟的に声が出るが、辻岡はそれを掴んで離さない。

「やっぱ女は気持ちえーぞ! お前はもうヤッたんか? 童貞ちゃうやろな?」

 まだ年端も行かない若い兵員を揶揄う。

「す、すみません。やっぱ、前言撤回です……堪忍してください」

 彼はみるみる顔を紅潮させ恥ずかしそう椅子にへたり込む。そんな姿を見て周りにどっと笑いが起きた。


「こうやって乳をなぁ……むしゃぶりつくように……」

 調子に乗った辻岡は更に続ける。

 まるで女の乳房を触るかの様に指を揉みしだき、舌を出して舐める真似をする辻岡の姿を見て、若い兵員たちの笑い声が更に大きくなる。


「生きてたいなぁ」

 その笑い声を縫うように、誰かがそう口にすると自然と静寂が戻る。

 すると先程まで話していた、広島弁の若い兵員が手を挙げた。

「辻岡少将、ひとつお聞きしても良いでしょうか?」


「おぅ! なんや、酒屋」

「酒屋……ですか? 聞いていらしたんですね。はい、私の実家は呉で酒蔵を営んでおります」

「そうか、呉か……それは奇遇やな、何かの縁かもわからん。で、自分名前は何て言うんや?」

「はい、重巡洋艦 摩耶 所属 野本裕之 二等水兵であります」

「そうか……酒屋。で、何が聞きたいんや?」

「た、確かに酒屋ではありますけど……」

 ならば何故、名前を聞いたのだろうと不思議に思いながらも野本は続けた。

「差支えなければ辻岡少将は、只今の戦局をどのように分析しておられるのでありますか?」


 ここでいつもの持論を展開するのは流石に士気に影響する。気心知れた自艦の乗組員たちとは訳が違うと感じた辻岡は珍しく少し黙り込んだ。

「俺のか? 俺の意見なんか、聞いてもしゃーないやろ?」


 辻岡が誤魔化し気味にそう言うと、ふてぶてしく嘲り笑う声が聞こえる。

 声の方に目をやると、奥で大人しく酒を飲んでいた男が座ったままこちらを見ながら笑みを浮かべていた。

「はははっ、さすが辻岡少将殿……わきまえてらっしゃる。そんな敵も撃てない腰抜けの二等兵が気に病む戦局云々より、作戦会議に参加された際の大本営のお考えとやらをほんの少しお聞かせ願える方が、我々軍人にとって士気が上がるというもの」


「失礼な! いきなり誰だ、貴様は?」

 辻岡自身は全く意に介さない様だったが、無礼とも取れる発言に堪らず日比野が割って入った。

「自分は、そこの腰抜け野本二等海兵と同じ艦である事を名乗るのも恥ずかしいが……摩耶の通信長、道端寛之みちばたひろゆき。階級は兵曹長であります。日比野上等兵曹……私の方が上官だ、非礼を詫びたまえ」

 上半身はタンクトップ一枚であった為、階級章を確認する事が出来なかった。


 伊一四一潜では航海長と副艦長を兼任する日比野であったが、軍部に於いて階級は絶対。また潜水艦乗りは軽視されがちな傾向にあったところから、悔しさを滲ませながらも日比野は即座に謝罪した。

「も、申し訳ありません」


 そのやり取りに、辻岡は全く興味を示さず続ける。

「教えて欲しいんやったら言うたるわ。作戦室で踏ん反り返っとる連中は、聯合艦隊がそもそもトラックを泊地にしてる事が気に入らんみたいやな。そりゃ大本営からかなり離れとるからな、本土空襲でもされたらひとたまりもない」

「では、何処が適切かと?」

 道端は日本酒の入ったコップを口に運んだままの位置でその手を止める。そのまま答えを今か、今かと待つように辻岡を凝視する。


 かなりの間を空けて辻岡が答えた。

「東京ちゃうか?」


「東京?」

「せや、東京や……今すぐにでも大本営は聯合艦隊を後退させ、本土の防衛ラインを固めるつもりやろ」

「トラックを棄てて、本土決戦に……」

 身を乗り出しその話の先を知りたがる道端。しかし一刀両断に辻岡が遮った。


「まあ、そこまでや。これ以上は話すつもりはない、一気に酒が不味なったわ。俺はこの酒屋がおもろいから、こいつと場所変えて飲むわ。えぇから着いて来い若いもん」

 そう言って手招きすると日比野と野本、それに数名の兵員が着いて来た。

 席を移りながら辻岡は、誰にも気付かれぬように舌をペロッと出してみせた。

(なんやあの面倒臭い奴は……腹立つから嘘っ八なこと教えたったわ。どこの誰が聯合艦隊まるまる連れて本土決戦すんねん、アホ)


 日比野が振り向くと、既にそこには道端の姿は無かった。

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