第20章 再会

 二〇一九年十二月一日。

 大阪市北区にある 『喫茶シホンヌ』


 戦後の荒廃した日本で、闇市の母と呼ばれた羽田静代。

 戦時統制による贅沢品、コーヒー豆の輸入停止。そんな中でアメリカ軍の放出品であるGIコーヒーを独自のルートで仕入れて、いち早く喫茶店営業を再開させた人物である。


 その喫茶店が今なお、大阪に店を残していた。


 横井は先に来てコーヒーを飲みながら新聞を読み耽り、ある人物を待っていた。Nと名乗る男と密会する時は、決まってこの店を選ぶ。昭和の雰囲気を今なお残したレトロ感溢れるこの店が、ふたりのお気に入りでもあった。


 もう彼と再開して、何年目になるだろうか。横井自身もあの時代からやって来て三〇年ほど経過し、今では海上自衛隊の教官を務めていた。

 が、しかし……横井の心には揺るぎない決心があった。その為に人知れず、ここまで計画を進めてきたのだ。


「カランッカラン……」


 古めかしいドアベルの鳴る音がして入口の扉が開くと、ひとりの男が入って来る。他に客は誰もおらず、すぐに横井を見つけると手を振ってまっすぐこちらに向かい、横井の対面の席にドスンと腰掛けた。


「やぁ、待たせたね横井君。いや……横井水雷長殿」


 苦笑いを浮かべ、横井がそれに返す。

「いえ、私も今来たところです……西森少佐殿」


 ふたりは顔を見合わせて笑う。


「しかし、Nと言われる人物が西森さんだったとは最初は驚きましたよ。確かにあの時代から、もうひとり呼んであるとは彼女から聞かされてましたが……まさか、貴方だったとは」


 飲んでいたコーヒーカップを置くと、手元にあったメニューを何も言わず西森に差し出した。


「私もビックリだよ……そう言えば横井君、貴方とこうして初めて向かい合って腰かけたのも、あの潜水艦……伊一四一の発射管室だったね? もうあれから何十年と経つが不思議と年齢の計算が合わない」


 そう笑いながら西森は、差し出されたメニューに目を通すことなくコーヒーを注文すると、あの日を思い出し少し遠い目をした。


 横井も同じ目をして答える。


「回天に乗ることなく迎えた終戦のあの日、自決しようとした貴方を私が止めた。ちょうど辻岡艦長が亡くなってすぐの事でしたね?」


「あぁ……結局、終戦まで生き残った自分が情けなくてね……それから生きる希望を失った私は、ある日、あのふたりに会った」


「亜樹と知樹……」


 年老いたマスターがコーヒーをテーブルに置くと、気を利かせたかのようにすぐさま奥へと姿を消す。

 再び店内には誰もいなくなり、ふたりの声と昭和の歌謡曲をジャズピアノでカバーした静かな音楽だけが店内を包む。


「今でも覚えてるよ。貴方が命を賭してまで日本には救う価値があるのか? あの少女は、そう私に問いかけた。そして、この目で確かめろと言った。正直なんの事かわからず耳を疑ったが、気が付くと私はここにいる」


 西森はそう言うと、肩をすくめ戯けて見せた。


「そうでしたね、私も西森さんと同じです……そしてこの世界にも慣れた数年後、あの事件が起きた」


 横井はまた遠い目をして、ある記憶を思い出すよう話し始める。その顔は酷く悲しみに満ちていた。


「私はあの阪神大震災の折、海自の災害派遣部隊に所属していました。そこで、ひとりの女性に再会します。年老いていたので最初はわかりませんでしたが、彼女だと気付いた時は正直ビックリしました。二度と会う事は無いだろうと思っていましたから。これが、運命と言うのでしょうか? 生きていてくれて本当に嬉しかった。しかし……それから先に起きた事件は、西森さんもご存知の事と思います」


「あぁ、覚えてるよ。あれは凄惨な事件だった」


「人を殺しておいて罪に問われる事なく、平然と暮らしている。司法はその事実を闇に葬ろうとした。そんな事が許されると思いますか? 私は彼女の死を無かったものにしない為、必死に署名活動に明け暮れました。しかし、マスコミも事実を歪曲し……結果、事件そのものが無かったものとされました」


 しばらく黙ったあと、西森は躊躇いながら小さな声で吐露する。


「あの女性が、辻岡艦長の娘さんだったとはね」


「……知っておられたんですね? 私も旧姓ではなかったので最初は気がつきませんでした。一度殺されて死んだ彼女は、この腐った日本と日本人たちによって再び黙殺されたのです。戦争に負けて、あれから物が豊かになった。その代わりに、心の豊かさや日本人としての正直さが失われた。よくそんな風に言いますが……そんな簡単ものじゃないですよ。こんな奴等の為に、こんな日本にする為に私たちは……辻岡艦長は、必死に戦ったのか? そう思い始めた日、再びふたりが現れたんです」


 西森は黙って頷く、彼の悲しい過去を知っているからだ。

 そして悲しい過去を持つのは、西森もまた同じであった。


「そう……そして知樹が、こう耳元で囁くんです」


『こんな奴等の為に君は、命を賭けて戦っていたのかい? 辻岡寛人は自分の娘をこんな風に殺されるとも知らず、必死に日本を救おうとして本当にバカみたいだね……でも仕方ないよ戦争に負けたんだから……でも、救う方法があるとすれば君はどうする?』


「救う方法だって?」


『そう。日本は負けて、何もかもを失ったんだよ。アメリカにコントロールされ、牙を抜かれ、豊かさの代わりに人間としての正しい心さえもね……例えば、あの戦争をやり直して勝つ事が出来たとしたら、古き良き日本のまま、もっと強い日本でいられるとしたら、きっと未来は変わるんじゃないかな? そうすれば彼女をあんな目に遭わす事だって……そうだろ?』


 知樹の言葉を思い出すと、西森は目をぎらつかせ、強くこぶしを握る。


「その力が、あのふたりにはある……」


「そうです。ふたりの力を以てすれば、それが可能であると知りました。この時代に私たちふたりが存在するように、再びあの時代に戻って間違いだらけの戦争史をやり直す事が出来れば……未来が変わる」


 その言葉を聞いて、西森は握っていたこぶしを解き、横井の手を掴むと不敵な笑みを覗かせた。


「そう、横井君。君に目的があるのと同じように、私にも同じ目的がある……そう、この日本の歴史を塗り替える事」


 握り返す横井の手を更に強く握り返し、西森は笑みを浮かべたまま続ける。


「横井君……この話には続きがあってね。一介の海軍の開発者であった私に、あの少女は有り余る新たな知識を授けた、それは不思議なものだったよ。今まで学んだ事もない原子、量子力学の知識がみるみる大脳から溢れ出してくるんだ……おかげでNARSはあそこまで成長を遂げる事が出来た」


「えぇ、ご活躍は存じ上げております。ただ、それが今回の件とどのように……」


 西森が言う新たなる知識が意味するものは何なのか、何を目論んでいるのか、横井にはさっぱり見当がつかなかった。


「それはね、横井君……」


 西森が話そうとすると、確かに誰もいない筈の店内から……それも横井の真後ろの席から声がする。

「男のお喋りは、モテないわよ」


 亜樹の声だった。


「い、いつの間にっ!」


 振り向くと亜樹と知樹が向かい合わせに座り、美味しそうにクリームソーダを飲んでいた。


「前もそうだったろ? 君の口が軽いせいで、計画に勘付いた当時の海上自衛隊の偉い人が要らぬ詮索をするもんだから、死んじゃったじゃないか……少しは反省しなよ?」


 横井はハッと何かに気付くと知樹を睨む。

「西澤海将補の事かっ!」


「そう、僕が殺したんだ。ゼリーみたいに溶けちゃったよ。ヒューマンイズデッド……なんてねっ」

 知樹は緑色に染った舌を出して戯けて見せる。それから悪びれる事もなく、クリームソーダの底に溜まったアイスを取るのに再び夢中になる。


「時がくれば全て教えてあげるわ。そして、同時に貴方たちが望む未来も見せてあげる……でも、もう少しだけ時間が必要よ」


 亜樹も同じように、必死にクリームソーダのグラスの中でスプーンを回しては、逃げるアイスと格闘していた。


「君たちの目的は、いったい……」


 一旦、コーヒーを手に取り再び後ろを向く。すると既にふたりの姿はなく、氷だけ残して汗をかいたクリームソーダーのグラスだけがテーブルにふたつ置かれていた。

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