第15章 呉大空襲

「ワンワン、ワンワン!」

「ワンワン!」


 敷地の奥から共鳴するように激しく吠える声が聞こえる。


「ミミの声だっ!」

 江美とドドは急いで酒蔵の横を通り抜け、直美たちのいる母屋へと向かう。


 空から落とされた焼夷弾が突き破った屋根の瓦は崩れ落ち、貯蔵してあるアルコールに引火しては所々に激しく火柱が立つ。同時に酒粕の燃えた何とも表現し難い異臭と黒煙が辺りに充満し、江美は思わずむせ返り顔をしかめる。


 大きなタンクが倒れ込み、塞いだ道の下をドドがすり抜ける。身を低く屈めその隙間を潜り抜けては、また走り出す。先を急ぐも、今度は日本酒を入れる筈だった空の一升瓶が割れ、沢山のガラスの破片が散乱し江美たちの往く手を阻もうとする。


「もうすぐだ!」

 出来るだけ迫りくる炎を見ないよう地面だけをしっかりと見据え、ミミの声のする方へと向かった。


 しかし、目の前に待っていたのは信じられない惨状だった。


 倒れた家屋に下半身を潰され、身動きが取れない直美の母親。

 その手を直美が懸命に引っ張り、泣きながら必死に助けようとするが母親の身体はビクともしない。


「お母さーん……お母さーん……」


 メラメラと辺りは炎に焼き尽くされ、燃え朽ちた廃材が次々に音を立てて崩れ落ちる。


「お……おばちゃん? お姉ちゃん――」


 眼前の惨劇を把握出来ず傍観していた江美は状況を理解すると、大きく顔を歪め涙を撒き散らし、ありったけの大声で叫ぶ。


「おばちゃーーーーーーーーーん!」


 その大きな声に気付いた直美が振り返る。

「え、江美ちゃん……?」


 もう既に、どれくらいここにいるのだろう……

 直美の顔は涙と灰と土埃でぐちゃぐちゃになり、何も出来ない非力な自分に絶望しうな垂れ、目の前の母親の表情は観念のほぞを固め、既に体力を使い切り憔悴しきっていた。


「江美ちゃん、お母さん……お母さんが……」


 そんな大好きなお姉ちゃんの悲愴な声に、江美自身も何も為す術がなく助ける事も出来ない……

 ただ出来る事は、必死に名前を泣き叫ぶこと。


「直美お姉ちゃーーーーーーーーん!」


 母親は瓦礫に身体を挟まれながらも、江美の無事な姿を確認して安心したのかニッコリと微笑んだ。

 そして自分の最期を悟ったであろう、懸命に引っ張ろうと繋いだ直美の手を強く握り返し、娘の顔をしっかりと見据えこう言った。


「直美……あんたは何がなんでも生き抜きんさい! そして必ず江美ちゃんを守ってあげるんよ……」


「お母さん、お母さん……嫌や。お母さんと一緒やないと、直美……」


 まるで駄々を捏ねる幼子の様に泣きながら、母親の手を一層強く握り返し離そうとしない。


「あんたは小さい時から泣き虫やね? でもよう我慢してくれたね……」


 そんな直美を母性に満ちた表情で優しく微笑んだ後、目を閉じスーッと大きく息を吸い込む。


「バカタレッ! 何、ボーッとしとんね! 早く行きんさいっ!」

 そう激しく叱咤すると、その手を無理矢理に力いっぱい振りほどいた。


 カッと目を見開き、これが最期であろう愛する娘の姿を見つめる母親の顔は慈愛に満ち、何処かしらやり遂げた安堵の表情にも見えた。

 そんな母親の作る精一杯の笑顔を目に焼き付け、全てを悟った直美は黙ってコクリと頷いた。



「お母さん……………………大好き」


 最後にそう言って直美は、座り込む江美の手を掴んで立ち上がらせると、クルリと母親に背を向け走り出した。


「ドド、ミミ……行くよっ!」


 江美の手を更にしっかり握ると、直美は表の通りまで振り返る事なく下を向いたまま、崩れ落ちそうな酒蔵の脇を駆け抜けた。


 地面を這うように忍び寄る炎に、挟まれて身動きの取れない足を焼かれ、母親は一瞬悲鳴を上げるが、直美に聞かれまいと自分の手を噛んで漏れる声を必死に堪える。その手からは血が滴り流れるも、堪え難い熱傷に我慢できず声にならない断末魔をあげる。

 そのつんざく声に耳を塞ぎ、直美は防空壕のある高台へと向かった。


 途中何度も足が絡まり転びそうになる江美を引っ張り起こし励ましながら、ただひたすら……ただひたすら懸命に走った。


 燃え狂う火の音、砲撃の音、何かが崩れ落ちる音、人々の泣き叫ぶ声、聞いた事もない人の悲鳴……辺りを取り巻く炎の熱気で、吸い込む息でさえ喉の奥が火傷しそうだった。

 電柱からは途切れてぶら下る電線を伝い、火がまるで水のように滴り落ちる。それが地面を這う火と混じり更に高く火柱が上がる。火が火を呑み込みうねりながら大きさを増し、あらゆる道を塞いでいく。

 きっと地獄絵図とは、こう言う場所の事を言うのだろう。直美はそう思いながら走った。


 通い慣れた商店街は変わり果て、在るべき姿を留めておらず、そこが何処かさえわからなかった。

 ふたりがお気に入りの人形店さえも気付かぬまま通り過ぎ、とうとう坂の入口まで辿り着いた。


「この坂を上がれば――」

 そう見上げた空に「キュゥゥゥゥン」と甲高い音をたて、こちらに向かい急降下して来る紺色の戦闘機と目が合う。


「江美ちゃん!」


 それは一瞬の出来事だった。


 身を屈め小さくしゃがんだ江美を庇う様に、直美は身体ごと覆い被さった。

「パッパッパッパッ……」という音と共に機銃掃射が火を吹き、地面に伏せたふたりの目の前に幾つもの砂煙があがる。


 しばらく身を強ばらせ固まっていたが、戦闘機の音がしなくなったので江美が起き上がろうとする。

「お姉ちゃん、もう行ったで……」


 しかし起き上がろうにも、直美の身体が重く上手く起きれない。

「ちょっと……重いよ……お姉ちゃん?」


 ドサッと音を立て、グッタリと地面に転がった直美の胸部は鮮血に染まっており、次から次へと血が噴き出す。額からも血を流し目は虚ろに開いたまま、何か江美に伝えようと口をパクパクと動かす。


「あれ? おかしいな……お姉ちゃん……なんでやろ? 血が止まらへん……どうしたん」


 起き上がることの出来ない直美の頭部を小さな膝に乗せ、とめどなく流れる血を止めようと必死に小さな手で押さえるも、脈打つ度にピュッピュッと指の隙間から噴き出す。

 異変に気付いたドドとミミは、動かなくなった直美の顔を何度も舐め「クゥゥーン」と身体を寄せ寂しそうに鳴く。


 江美が何か言いたげな直美の口元に耳を近付けると、直美の血塗れの手が小さな手をギュッと握る。

 声は絶え絶えになりながらも、最期の力を懸命に振り絞る直美。


「江美ちゃん……江美ちゃんは、生きて……生きてお姉ちゃんの……出来なかったことを代わりにして欲しいんよ……」


 その手を強く握り返して、江美は何度も何度も頷く。


「春に咲く……満開の桜……夏の夜に咲く大輪の花火……友達と飲む初めてのお酒……そして焦がれるような初めての恋……この世界は……素晴らしいの」


 直美の瞳孔は、開ききったまま宙を泳ぐ。おそらくもう、その視界は何も捉えていないのだろう。

 きっと彼女の瞳の裏側には、未だ見ぬ楽しそうな光景が映っていたに違いない。

 直美の瞼から、一線の涙が頬を伝い零れ落ちる。


「ごめんね……江美……ちゃん……お姉ちゃん、花嫁さん……見せてあげ……れ……ん……」


 そう言い終えないうちに握っていた手は力なく解け、江美の小さな手を擦り抜けて落ちていった。


「お姉ちゃん……? お姉ちゃん、あかんよ。江美、お姉ちゃんの言うこと何でも聞くから……しんだら、しんだらあかんよ……」


 揺り起こすも直美には反応はなく、傷口からとめどなく噴き出し続けていた大量の血は、いつしか止まり鮮血が地面を濡らす。


 ドドとミミも直美の隣に添い寝するように、しばらく傍から離れようとしない。二匹は直美の死と、その母親の死をも理解していたのだろう。

 その様子をただ呆然と眺めていた江美は、幼いながらにきっとこれが最期の別れであることを自覚した。


「なんで……? なんで、お姉ちゃんまで死ななあかんの……おばちゃんが、お姉ちゃんが何した言うん? せんそうなんか……せんそうなんか……大きらいやーーーっ」


 泣くまい、泣くまい……と必死に堪えてきた感情が、目の前の大好きな直美の変わり果てた姿よって脆くも崩壊した。


「もう、ぜんぶ。なんもかんも、いややーーーーーーーーっ!」


 しかし世界は残酷で残忍だった……。その幼い悲痛な叫びは天に届くことはなく、無情にも再び「ブゥゥゥゥン」と言う低い音と共に、新たな戦闘機が江美を目掛け高度を下げ向かって来る。


「お姉ちゃんを、かえして……」


 小さな身体で直美の骸を抱えたまま江美は、向かって来る戦闘機を鋭く睨みつける。


「お姉ちゃんを、かえせーーーーーーーっ!」

 そう戦闘機に向かって叫んだ視界の少し先に人影が見えた。


「あ、だれかおる……あぶない!」

 よく目を凝らすとそれは、いつしか人形店で出会ったあの少女と少年だった。


「あっ、あの子たちや! 無事やったんや……でも、あかん……あぶないっ! 来たらあかーーーん」


 戦闘機は唸るような低い音をたて更に高度を下げ、機銃掃射の射程距離にまで迫り来る。

 僅か十メートルほど向こうにいるふたりに、江美は必死に大声で呼びかけるがプロペラの轟音に掻き消され、その声は届かない。


「来たらあかーーーん! にげてーーーーっ!」


 何度も何度も大声をあげる江美の思いが届いたのか否か、偶然にもふたりがこちらに振り向いた。

 しかし、もう既に背後の戦闘機から「タッタッタッタッ!」と地面を薙ぎ払い直美を死に至らしめた、あの機銃掃射の音が迫っていたのだった。


「死んじゃだめーーーーーーっ! おねがい、にげてーーーーっ!」



 その弱く幼き者の心の声は、果たして届いたのだろうか?

 力の限り精一杯、江美がそう叫んだ刹那……


 爆風と爆音、そして焼ける様な熱風が身体を包んだと同時に、目、耳、そして……ありとあらゆる江美の全ての感覚が途絶えた――


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