第14章 戦艦の最期
一九四五年七月二八日。
その日は、真夏を感じさせる猛暑日だった。早くも鳴き始めたセミの声が、このうだるような暑さに一層拍車をかける。
「お母さん、行って来まーす」
玄関を元気よく飛び出した江美は、麦わら帽子を片手で押さえ、キラキラと太陽が反射する海辺を眩しそうに目を細め眺める。
江美の暮らす家は、呉の軍港と鎮守府が一望出来る高台にあった。
軍港には沢山の軍艦が停泊しているが、殆ど燃料枯渇で出航できないものばかり。近頃頻繁に行われるようになった空襲により、その中の幾つかは既に損傷していた。
「お父さんのふねは、まだ帰ってこーへん……いつになったら新しいおうちに帰ってくるんやろ」
停泊中の艦をひと通り見渡すと、江美が寂しそうに肩を落とす。
港を右手に見下ろしながらゆっくり坂を下って行くと、その途中に高地を利用した横穴式の防空壕が幾つか掘られている。
「ここは、暗くてこわいから大きらい」
つい先日も空襲が起きた際に、母親とふたりで逃げ込んだが、暗く狭い壕の中に響く爆撃の音と振動が恐ろしく、泣き声を押し殺しながら母親にしがみついていた。
少しばかり裕福な引っ越してきたばかりの他所者に、周囲の人たちの風当りは冷たかった。
泣き声が敵に聴かれ居場所が知れる訳でもないのに、うるさいと白い目で見られ、挙げ句の果てには壕から出て行けと叱られる。
爆撃の度に土壁がパラパラと落ち、今にも壕ごと崩れて生き埋めになりそうな恐怖に震えながら、土埃と湿気、そして時に血の匂いが充満し大人たちが殺伐とする横穴は、江美にとって大嫌いな場所でしかなかった。
江美は入り口を見ないように、プイッと顔を逸らし足早に前を通り過ぎた。
坂道を下りきって、しばらく道なりに進むと繁華街へと繋がる。
四〇万人が暮らす軍工廠の街は、かつての面影を完全に失っていた。
路面電車は止まり、劇場や料亭に限らず数多くの商店が戦禍によってその姿を消し、まるで廃墟のように静まり返っていた。
確かこの辺だと、江美は一角をキョロキョロと見渡す。
あの日に直美と一緒に行ったお気に入りの人形店を見つけると、自然と吸い寄せられるように江美の足が向かう。
「やっぱ、はなよめさんきれいやなぁ、江美も大きくなったら、こんなはなよめさんになるねん」
ガラス窓に顔と手をベッタリくっ付け、花嫁人形を眺め溜息をついては独り言を繰り返す。
「はぁ……でも、お姉ちゃんのほうが先におよめさんに行くやろな? きっときれいやろなぁ……早よお姉ちゃんのはなよめさん見たいな」
するとさっきまで澄み切っていた夏の空に、急に流れの早い入道雲が差したのか、足元に大きな大きな黒い影が現れる。
辺りが一瞬にして暗転したその時。
「ゴゴゴゴ…………………………」
と地面を揺らす轟音に気付き空を見上げると、数十機の爆撃機B二九が暗く空を染め覆い尽くしていた。
同時に、けたたましいサイレンの音が呉の街中に鳴り響く。
「空襲警報! 空襲警報!」
日本有数の軍港である呉は、アメリカ軍の格好の軍事標的だった。
連日に渡り直接航空機による空襲を容易に実行される程、太平洋前線の防衛ラインは機能しておらず、いよいよ本土決戦を覚悟しなくてはならないところまで、日本は窮地に追い込まれていたのだ。
「た、大変や……また、くうしゅうや! 早よお姉ちゃんと、ぼうくうごう行かんと」
次の角を曲がればすぐに直美の家である心白の酒蔵がある。煙を吐いてる姿は一度も見たことはないが、いつも目印にしている高い煙突はもう目の前に見えていた。
今から引き返して急な坂道を登り江美の自宅に戻るより、このまま直美のいる酒蔵へ向かった方が近くて早い。
江美は意を決し大きく頷くと、直美の元へと走った。
黒く覆われた空からは、バラバラと無数の焼夷弾がまるで黒い雨のように降ってくる。
容赦無く市街地にも激しく降り注ぐ黒くて大きな雨は、家屋の瓦を突き破り「ブオォォォォォッ」と言う不気味な音を立て炎柱をあげ、木造の家屋を次々と燃やして行く。
「きゃーーーーっ! あかん、怖いよぉ……怖いよぉ……お母さん」
火の着いた焼夷弾がカランと音を立て道を跳ね、立ち竦み震える江美の行く手を阻んだ。
――一方、港では数え切れない程の艦戦機が空を縦横無尽に舞い、反撃態勢のとれない軍艦にとどめの爆撃を見舞う。
その中に総員で攻撃に抗う、戦艦榛名の姿があった。
燃料が枯渇した海軍は止むなく、榛名を洋上から呉鎮守府の警備艦として配備した。しかし陸上防衛を考慮し、副砲や対空火器の殆どを艦から撤去していたのだった。
艦橋の一番高い防空指揮所から身を乗り出し、弾薬を運び込む兵員たちに大声で指示を送る中井の姿がそこにあった。
「撃てる者は、攻撃に回れ!」
「中井艦長、後部甲板より火災発生」
対艦用の爆撃をまともに受け、榛名のあらゆる場所から火の手があがる。
「被害甚大であります」
「艦長、キリがありません! 目の前を飛ぶハエを小銃で撃つようなもんです。次から次へやって来て手に負えません」
辛うじて残しておいた数台の高角砲の仰角を九〇度まで上げて、真上を飛ぶ艦戦機を狙い撃つ。
撃つ者が倒れたらまた別の撃つ者が変わり、またその倒れた屍の上に幾人もが覆い被さり、次から次へと銃口を敵機に向ける。
艦戦機からの機銃掃射で身体を撃ち抜かれる者、破損した落下物で身体ごと潰される者、爆撃の衝撃で手足や臓物は飛び散り、艦上は血の海と呼ぶに相応しい地獄絵図と化した。
「高射長、聞こえるか! 艦戦機の迎撃は任せた!」
しかし白石のその声を制止すると、中井は爆音に負けじと伝声管を通して有らん限りの大声で指示を繰り返す。
「これ以上の応戦は無理だ! 救助活動を最優先し、手が空いてる者は消火と救命作業に当たれ」
その声を聞いて再び白石が大きく手を振りながら高射長に告げる。
「攻撃止め! 直ちに救命作業に移れ! 攻撃止め!」
その一方で矢継ぎ早に運び込まれる救護室での治療も熾烈を極め、そこでは生命の選択が行われる。助かりそうな者から順番に手当てされ、再び戦地へと運び出される。重篤な者は治療すら受けることなく死を待つ他なかった。
「中井艦長っ! 今や榛名は、航行出来る状況ですらなく、対空指揮装置を取り外された状態では防戦一方。いつまで凌げるかわかりません」
そう必死に救護活動を続けながら叫ぶのは、中井が八木から榛名を引き継いだ後も側で支え続けてきた石尾と佐野であった。
日本軍の戦闘機が応戦するも爆撃の轟音は止まる事は無く、停泊する殆どの軍艦が黒煙を上げ目の前で沈没していった。
「中井艦長っ! またしても着弾です……持ち堪えれません、もうダメです! このままでは着底します」
側近である宮路少佐の悲壮な声に、中井は力なく微笑んだ。ゆっくりと白い海軍帽を脱ぐと、防空指揮所を降り艦橋の司令室へと向かう。
そこに集まったひとりひとり目を合わせると、落ち着いた面持ちで穏やかに話し始めた。
「総員に告ぐ、今まで榛名と共によく戦ってくれた……感謝する。これをもって総員退艦命令とし、本艦より直ちに離脱せよ。これは命令だ……皆の武運を祈っている」
天皇陛下より預かった軍艦、その指揮官は自艦と運命を共にするのが不文律であった。
指令室に中井ひとりを残し、生存している乗組員たちを全員退艦させると、最後まで甲板に残った白石と宮路、石尾、佐野が、黒煙を吐きながら傾き行く艦橋を見上げ敬礼する。
窓越しから眼下に小さく見える四人に気がついた中井は、ピンと伸ばした指先を雄祐とこめかみに当てると、最期の敬礼に応えた。
その後、四人が海に飛び込むのを見届けると、軍靴の音を廊下に響かせ艦長室へと向かい静かに扉を閉め、ガチャンと内側から錠を下ろす。
「お待たせしました……少し遅れましたが、私もようやく靖国へと向かえそうです。三宅少将がご英霊になられてから、辻岡さんは寂しそうでしたけど……このあとの日本は、彼が上手い事やってくれる筈です。そちらでは、年中桜が咲いておるのでしょうか? 先に逝った連中も交え、桜でも眺めながら先日の宴の続きでもやりましょう……こちらはまだまだ暑い夏ですからね――」
最期にそう独り言を呟くと、一瞬の躊躇いも無く持っていた軍刀で腹を斬り、自害し果てた。
中井徹大佐、戦死。
大日本帝國海軍戦艦榛名、一九四五年の夏、呉軍港にて大破着底。
その一年前である一九四四年の十月。聯合艦隊旗艦である戦艦武蔵は、レイテ沖海戦に臨むもシブヤン海にて轟沈した。世界最強の攻撃力と言われた四六センチ主砲を三基も備え、世界最強の防御力と言われた四〇センチもの厚さの装甲板は無敵を誇り、それを破る事が出来るのは世界中を探しても武蔵の主砲以外に無く、まさに世界最強の戦艦と謳われた。
しかしその武蔵と戦ったのは、戦艦ではなく航空機であった。
そのため戦闘で主砲を撃つ機会がなかった武蔵には、大量の弾薬が艦内に残されていた。その火薬に敵航空機から放たれた魚雷が引火し大爆発を起こすと、最強の戦艦はバラバラに砕け散った。
「ついに不徳のため、全国民に絶大の期待をかけられたる本艦を失うこと、誠に申し訳なし。対空戦闘の威力を発揮しえざりしこと自責の念に堪えず。本日も相当数の戦死者を出しあり、これら英霊を慰めてやりたし。どうかこれからの日本が日本人の誇りを持ち、祖国が永劫に幸あらんことを祈る」
艦長である三宅一郎少将は、そう遺書を残し武蔵と共に壮絶な最期を遂げた。
開戦のきっかけとなった、あの真珠湾攻撃で日本が見せた華麗なまでの航空戦術。皮肉にもその航空戦術によって武蔵をはじめ殆どの戦艦を失い、これを機に帝国海軍が拘り続けた、大艦巨砲主義は終焉を迎える事となる。
辻岡が危惧していた通り、時流を読むことが出来なかった日本の戦況は悪化の一途を辿り、このまま日本は敗戦真っ只中へと突き進んで行くのだった。
――アメリカ軍による空襲は、軍港だけに留まらず市街地にも戦略的に行われた。
空を覆い尽くす焼夷弾の雨は、瞬時にして慣れ親しんだ呉の街並みを火の海へと変えてしまった。
まだ六歳の江美には、目の前の耐え難い光景はあまりに残酷過ぎた。ただただ成す術もなく呆然と立ち竦み、今にも泣き崩れそうだった。
そんな江美の脳裏に、聞き慣れた優しい声が浮かぶ。
『江美……泣いたらアカンで。見てみぃ……べっぴんの顔が台無しやないか』
艦長という忙しい身でありながらも、帰って来てはいつも優しく可愛がり、泣き虫な江美を励ましてくれた大好きなお父さん。
そのお父さんの声を思い出して、グッと下唇を噛み涙を堪える江美だった。
「お母さん、お父さん……直美お姉ちゃんに会いたい」
その切実な思いが、小さな心に勇気の火を灯した。
しかし、その小さな勇気の火は「ゴォゴォ」と音を立て、家屋を燃やし渦を巻く大きな紅蓮の炎に、瞬く間に飲み込まれ消えてしまうのだった。
力が抜けた様に、へなへなと崩れ落ちる江美。
すると肌を焼くような熱風と、視界を遮るほどに立ち込める黒い煙のその奥から、こちらに向かって一直線に近付いて来る黒い影が見えた……
「ワンワンッ」
その影の正体は、ドドであった。
「あっ! ドドーーーーッ」
ハァハァと息を切らし駆け寄ると、周りをグルっとひと廻りして嬉しそうに江美に擦り寄り、何度も煤だらけの顔を舐めた。
「ワンッ」
腰を抜かしてヘタリ込む江美を励ますように再び大きくひと吠えすると、ドドは江美のシャツを噛んで引っ張る。
「ドド、無事やったんやね。よかったぁ、江美ね……江美ね……こ、怖かったよぉ」
ドドに会えた安堵から、張り詰めた緊張が解け一気に涙が溢れ出した。
クシャクシャになった江美の顔を心配そうに覗き込むと、涙をペロッとひと舐めしてドドは再び江美の袖をグイグイと引っ張る。
どうやら直美の家へ連れて行こうとしているようだ。
「わかったよドド、お姉ちゃんの家に行こう」
そう言って立ち上がると今度は脇目も振らずドドの後姿だけを追い、火の粉舞う呉の街を再び無我夢中に走り出した。
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