第84話 高級娼館 黒猫(2) ~ナイマンのソフィア~
今日も今日とてフリードリヒは
今日は前から気になっていることを聞いてみようと思っていた。
「こんばんは」
ソフィアがフリードリヒの横に座る。
「君のドイツ語には少しだがなまりがある。君は帝国の人間ではないね」
「それは…」
「別にそのことを責めようということではないんだ。君がどこの出身だろうと嫌いになったりはしない。約束しよう。ただ、君のことが知りたいだけなんだ」
「わかりました。私は中央アジアのナイマンという部族の傘下にある小さなオアシス国家の姫でした」
「ナイマン? モンゴル系の有力な遊牧民族の一つだね」
「なぜフリードリヒ様がそんなことをご存知で?」
「いや。そのくらい常識だろう」
「帝国では常識じゃありません」
「まあいい。とにかく続きを聞かせて」
「はい。それで…」
◆
13~14世紀。
ユーラシア大陸を
モンゴルの首長となるチンギス・ハーンは、青年時代の名前をテムジンといい、ボルチギン・モンゴル族の支族、キウト部の首領イエスガイの長男として生まれた。
若い頃は少数で砂漠に追いやられ、生存の苦しみと戦いながら青年戦士を集めて小部族を結成する。そして軍事的才能を発揮し始めたテムジンは実力でキウト部の首領となる。
そして彼を砂漠に追いやったタルグタイを反撃して撃破・処刑すると、ボルジギン・モンゴル族の首領(ハーン)となる。
その威容に圧倒されたタタール部と東部モンゴルはチンギス・ハーンに編合される。やがて東部・中部モンゴルを統一するが、ケレイト部とナイマン部族の厳しい圧迫を受ける。
いよいよ全モンゴルの
◆
ソフィアはナイマン部族の傘下にある砂漠の小さなオアシス国家の王家の娘として生まれた。
母はそのころに中央アジアまで進出していたヨーロッパ系の民族出身で金髪碧眼の容姿を持ち、ネストリウス派キリスト教の信者だったが、ソフィアの父の側室となりソフィアが生まれた。
父は東洋系の民族だったのでソフィアは東と西のハーフになる訳だ。フリードリヒがソフィアを見ると親近感を覚えるのも、そのことが一因かもしれない。
ソフィアには兄がおり、後継ぎは決まっていたので、ソフィアはのびのびと育てられたが、将来的には有力部族の嫁として出さねばならない。それにふさわしい教育は当然受けていた。
また、ソフィアは母の影響を受けてネストリウス派キリスト教を信仰していた。
ソフィア母子には、アリエルという少女の護衛が常に従っていた。彼女もまたソフィアの母と同じ民族出身の騎士の
ソフィアが9歳になったとき、ナイマン部族はチンギス・ハーンと雌雄を決することになった。
戦いの時期は刻一刻と迫ってくる。ソフィアの父は自由に動けるソフィアだけでも逃がすことを決めた。
ナイマン部族の多くのものは新参者のハーンに遅れをとるものかと息巻いているが、ソフィアの父は違った。チンギス・ハーンは天才的な軍事的才能の持ち主だと見抜いていた。でなければ、こんなに短期間にモンゴルをまとめ上げることができるはずがない。
「ソフィア。おまえだけでもアリエルと一緒に逃げるのだ」
「お父様はどうするの?」
「私は王として逃げる訳にはいかない。おまえだけはなんとかして生き延びるのだ。そして幸せにおなり」
アリエルは泣きじゃくるソフィアを無理やり馬に乗せると
アリエルは馬の疲れがピークになったとみると馬を降り、休ませる。そしてしばらくこの地で後続を待ってみることにした。
自分たち以外にも国を逃れてくる者がいるかもしれない。
もしいれば、これから先、力を合わせて生き延びることができる。
丸1日まっても後続は現れなかった。
もうあきらめかけたその時、こちらに向けてトボトボと歩いてくる馬がいる。
アリエルは馬を駆って近づくと
「誰だ!」
「おお。アリエルではないか」
「これはハク・リー老師!?」
ハク・リーは漢民族系の学者で、中国の四書五経や多種多様な言語などに通じていた。また、ソフィアの家庭教師でもあった。
モンゴル族には知識人や技術者が少ない。このためモンゴル族は都市を占領するとこれらを優先して
ハク・リーはこれを嫌って真っ先に逃げ出したのである。
それにハク・リーは言語学者でもある。この先有用であると思われるペルシャ語やラテン語の読み書きもある程度マスターしていた。これは大きな味方となりえる。
そして3人は次の議題を議論していた。
これから逃走するに当たり、2つの選択肢がある。
一つはこのまま西へ向かいヨーロッパの国を頼る方法。
もう一つは南下して中東のイスラム勢力を頼る方法である。
旅のしやすさを考えると南下した方がシルクロードのルートが使えるので旅はしやすい。逆に西は道が開発されていない。
だがイスラム教は他の宗教に寛容ではなく、キリスト教徒であるソフィアたちは迫害されるリスクがある。逆に西はキリスト教国が多いため、そのようなデメリットは少ない。
議論は決定打を欠いた。
「それならば姫様に決めていただきましょう」とハク・リーは言った。
ソフィアの考えは決まっていた。
「お母さまの一族はもともとヨーロッパから移動してきたと聞いています。ならばその故地であるヨーロッパを一目見てみたいです」
これで方針は決まった。
一同は一路ヨーロッパを目指して西進する。
嬉しい誤算は、教会の対応である。
ソフィアたちがキリスト教徒と知ると泊る場所や食料などの援助をしてくれた。宗派は違うとはいえ、ネストリウス派と対立する派閥はなく順調だった。
また、大きな教会にはおおかたラテン語を話す神父が配属されていた。
ヨーロッパの言語はラテン語と文法等は似ているとはいえ、習熟には時間を要する。その際に神父に教えを乞えるのは大きなアドバンテージとなった。
特にソフィアは9歳という年齢からか、語学の習得が早かった。
冒険者の制度も役に立った。
路銀がなくなってくるとアリエルがクエストを請けて金を貯め、また出発するという日々が続いた。
一方で、ハク・リーによるソフィアの家庭教師活動も順調に進んでいた。東洋の知識がヨーロッパでどの程度有用か未知数ではあるが、何も教養がないよりはずっとましだ。
一行はキエフ(ロシア)公国を通り、ポーランド王国へ達した。
いちおうもうヨーロッパと言えばヨーロッパだ。
もう既に3年が経過しソフィアは12歳になっていた。
ハク・リーは訪ねる。
「姫様。最終目的地はどこにしますかな」
「ヨーロッパで一番大きい国はどこなの?」
「単に大きさということでしたら神聖帝国ですかな」
「わかった。そこにする。神聖帝国の首都に向かいましょう」
一行は神聖帝国に入ると、一路アウクスブルグを目指した。
併せてドイツ語の特訓も開始するが、もう何か国語もマスターしているソフィアには苦痛でもなんでもなかった。
アウクスブルグに着く。
まずはどうやって生計を立てていくか考えていかなければならない。
当面は冒険者ギルトでアリエルがクエストをこなしながら町の情報を収集していく。
アリエルが冒険者ギルドで情報を仕入れてきた。
「ツェーリンゲン卿という者が『ショッカク』というものを集めているらしい」
ハク・リーが答える
「『ショッカク』とは
3人は翌日。フリードリヒの食客館へ向かった。
まず、門を守っているタロスの威容が心を打った。
「あれは動くのか?」とアリエルは門番に尋ねる。
「食客館の
アリエルが訪ねる・
「実は
「何か一芸を持っていることが証明できれば入るのは簡単だ」
「あんたは何ができる」
「私は槍術が得意だ」
「なら。カロリーナの
「そっちの爺さんは何なんだ?」
「わしは学者じゃ」
「ならタンバヤ商会からフィリーネの
「そっちの子供は…ちょっと
アリエルはあっという間に合格した。
カロリーナは、「久しぶりにこんな剛の者に会ったよ。期待しているから頑張りなさい」と声をかけてくれた。
ハク・リーの方はフィリーネと相談した結果、タンバヤ情報部の人間に語学を教えることになった。語学は各国で情報取集するための基本だからだ。
ひとり取り残されたソフィアはアウクスブルグの公園をブラブラしていた。
すると吟遊詩人が人を集めて歌っている。
ソフィアは思わず聞き入り、感動した。
「感動しました。素晴らしかったです。もしよかったらなんですが、私に歌を教えてもらえませんか?」
「ああ。そういう勘違いちゃんはよくいるんだよね。僕は弟子は取らない主義なんだ。
しかし、ソフィアはあきらめなかった。
来る日も来る日も吟遊詩人の後を付いて回り、その歌を一生懸命復唱している。これが良く聞いてみるととても
吟遊詩人はついに折れた。
「わかったよ。弟子にしてやる。そのかわり覚えたらすぐにやめるんだぞ」
「はい。ありがとうございます」
ソフィアの歌の能力は段違いだった。
あっという間に歌を覚えてしまう。
「おまえさんにはもう教えることはないな…」
「わかりました。短い間でしたが、ありがとうございました」
ソフィアは次の吟遊詩人を探しては歌を覚えていく。
じきにソフィアのレパートリーは100曲を超えた。
◆
アウクスブルグでの生活も軌道に乗ってきたと思われた時、トラブルが起こった。
アリエルがクエストで大怪我をしてしまったのだ。
破傷風を発症し、高熱が続いている。このままでは命の危険がある。
「リー老師。何とかならないの?」
「今の医療技術では、あとは本人の体力次第としか…
いや。タンバヤ商会で開発されたという最新の薬を使えばあるいは…ダメだ」
「リー老師。その薬を使えば治るんじゃないの?」
「その薬は開発されたばかりで生産量が少なくとても高額なのです。とても我々では…」
「お金がないから買えないということ?」
「そういうことですじゃ」
「私なんでもするわ。私を今まで助けてくれたアリエルを助けたいの。今度は私が助ける番よ」
リー老師はしばらく考え込むとおもむろに口を開いた。
「一つだけ方法がないではありませぬ」
「何でもするわ。教えて!」
「アウクスブルグには
「身受けって、私の身柄を売るって言うこと?」
「そういうことですが、姫様には体を売るお覚悟がおありですかな?」
「体を売るって?」
「春を売るということですじゃ」
「…………?」
「姫様は風呂屋にいったことがありますな」
「ええ」
「そこにおりますじゃろ。春を売る女が…」
ソフィアにはようやく理解できた。
「春を売る」とは男と性行為をして代金を受け取ることだと…
「理解はしたわ。でも…」
「やはりこればかりは、わしからはお勧めできませぬ」
しばらくの間、
「やるわ。私が姫のプライドなんかにこだわっても、アリエルが死んでしまったら絶対に
「姫様…」
リー老師の目には涙がうかんでいた。
◆
ぱっと見はそういう店に見えない。
意を決して店に入ると従僕らしき少年が出てきた。ソフィアの様子を見て察したらしく「身売りですか?」と聞いてきた。
「は、はい…」
「わかりました。
ほどなくして、妖艶な美女が出てきた。歳は30代くらいだろうか。
「この娘かい。身売りしたいっていうのは?」
「はい」
「ほう。なかなかの器量じゃないかい。歳はいくつだい?」
「12歳です」
「なら体は売れるね」
さも当然というその物言いにソフィアはドキリとした。
「字は書けるのかい?」
「はい」
「じゃあ即興で詩を作ってみな。もちろん恋の詩だよ」
ソフィアは意外な要求に驚いたが、普段リー老師からも
「ほう。これは面白い。東洋風の詩だね」
「ええ。私、そういうものしか書けなくて…」
「いや。これはこれで十分なセールスポイントになる。
歌はどうなんだい?」
「吟遊詩人に習った歌なら歌えます」
「ここで歌ってみな。もちろん恋の歌だよ」
と言われても、吟遊詩人から習った歌は大半が恋の歌だった。
そのうちから最もポピュラーなものを歌う。
(これはいける)と思った。久しぶりの上玉だ。
「最後に聞くよ。あんた処女だね」
「もちろんです」
「よし決めた。あんたは体を売らない高級娼婦ということで行く。そのかわり、接客と詩と歌はみっちりしごくからね。覚悟しておきな」
「はい」
体を売らないと聞いて
「身売りの代金はこれだけだ。文句はないだろ」
女将はリー老師に金額を提示する。ソフィアたちの年収の10倍以上の金額だった。アリエルの薬代としては十分だ。
「それで結構です」
「これでこの娘はうちのものだ。あんた名前は?」
「ソフィアです」
「じゃあ、ソフィア。早速今日から修行だよ」
「えっ! 今日から…」
「何言ってるんだい。帰しちまって、そのままとんずらされたらこっちの商売あがったりだ」
ソフィアとリー老師は顔を見合わせた。
「リー老師。あとはよろしくお願いいたします」
「わかりました。後はわしにおまかせください」
結局、アリエルはタンバヤ商会の薬のおかげで命をとりとめた。
◆
「…という訳で、わたしは
「そうか。そんなに長い旅を…苦労したんだね。ソフィアは」
「そんな。みんなアリエルやリー老師のおかげです」
「いや。君の詩や歌の才能もたいしたものだ。そこはもっと自信をもってもいい」
──芸は身を助けるとは、まさにこのことだな…
「確かに
しかし、アリエルも水臭いな。言ってくれれば薬などいくらでもあげたものを…」
「えっ!」
「言っていなかったかな。私はタンバヤ商会の会長でもあるんだ」
「なんだ、そうだったんですね。そうすると私の身売りって…」
「そこは深く考えても仕方がない。結果オーライということで良いではないか」
「それもそうですね」
その帰り、フリードリヒはふと思いついて
「ソフィアを身受けするとしたらいくらだ?」
「そうさねえ…」
提示された金額はとんでもないものだった。
「これでは
「ソフィアには相当芸を仕込んでいるからね。その手間賃も込みさ」
「それはわからないではないが…」
──さすがに思いつきでする買い物ではないな。しばらくはペンディングか…
◆
ナンツィヒに拠点を移したフリードリヒは悩んでいた。
もう長い間、ソフィアに会っていない。
ごっこ遊びの疑似恋愛と
これはもう身受けするしかないか…
しかし、フリードリヒは別なことも考えていた。
男というものは女の前ではとかく
これは情報収集の道具として使えるはずだ。
どうせ金を出すなら店ごと買ってしまおう。
そして、商会のハント氏に
こうして高級娼館
貴族や大商人の裏情報がどっさりと報告されてくる。
本当に男とはしょうもない生き物だと思い知らされた。
◆
ソフィアをナンツィヒに連れてくることにしたフリードリヒはその扱いをどうするか考えた。
異国といえども姫なのだから
結婚式はナンツィヒの大聖堂で行った。
宗派は違えども同じキリスト教徒なので大きな問題にはならなかった。
しかし、いざ結婚してみると世間では評判になっていた。
「ロートリンゲン大公は、異国であっても皇族であれば側室に迎え入れる」
(決めた時は深く考えていなかったが、世間的には大きな決断と映るのだな)と少し意外に思うフリードリヒだった。
そしてこの
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