第36話・王妃の告白

「アリアンナ。やっと……会えた。生きている、あなたと」




 イザベラの瞳は涙で濡れていた。けれども、私のなかでは、この涙を信じてはいけない、イザベラは敵なのだ、という警鐘が鳴り続けている。




「席を外して頂けますか、エッチェル殿」




 口を開きかけた私を制して、まずイザベラはそう言った。ここでのやり取りを王の腹心に聞かれては、後々まずいと思ったのだろう。




「彼女の安全は保障しますよ、エッチェル殿。ほんの少しだけ、どうか」




 文句を言いかけたエッチェルをユーグさまが宥める。エッチェルは不満そうに私たちを見たが、ほんの少しですよと言い捨てて、部屋を出た。彼の足音が廊下を遠ざかるのを確認してユーグさまが頷いた。


 私はイザベラを睨み付けた。




「私は、会いたくなかったわ。会う筈もなかった。私はとっくに死んでいた筈だったもの。上着と靴下まで奪われて、裸足で樹に縛られて、たった一人、雪の中に埋もれて死ぬよう、あなたの夫が命じたのよ。あなたもあなたの夫も、私にとっては同じだわ」


「アリアンナ。王妃陛下のせいではないよ」




 イザベラに立つよう促されたユーグさまとリカルド。ユーグさまは私の物言いを咎めはしなかったけれど、リカルドはとりなすような口調でそう言った。大切な仲間であるリカルドのその言葉に、私の理性は容易く吹き飛びそうになってしまう。思えば、リカルドは、ジュリアンが私に行った非道には憤ってくれていたけれど、イザベラについてはあまり話の中で触れた事はなかった。




「何を言うの、リカルド! 話したでしょ、この女は、絶望して牢で自分と父の死を待っていた私を嘲ったのよ! 姉妹より堅い絆で結ばれている親友だと思っていたのに、そう思っていたのは私だけだった。この女は私と仲良くする振りをしながら、私を憎んでいたのよ! 今でもはっきり思い出せるわ。私は、この女が私を見下ろして言ったこと、一字一句覚えてるわ!」




『可哀相なアリアンナ! ジュリアンさまは今は私だけを愛してくださっているのよ。立場逆転、ってわけ。あなた、今まで友人顔で私を見下していたでしょ? 私、ジュリアンさまに、あなたから散々嫌がらせをされてたって言ったの。ジュリアンさまはお怒りになられて、私の為にあなたを二度と帰って来られない遠い所へやってしまおうと仰ったわ!』




 あの言葉、あの表情、脳裏に甦るだけで私は怒りと屈辱、そして……悲しみに打ち震えてしまう。イザベラのせいじゃない、って? そんなの、わかってる。暗殺事件が起こりさえしなければ、私はあのままジュリアンと結婚し、イザベラは笑顔で寿いだだろう。イザベラがお父さまを殺した訳でも私を殺そうとした訳でもない、それくらいわかってる。でも……すべてに絶望していた時に、長年の親友の心の闇を、憎悪を突き付けられた苦しみは、誰にも想像出来るものじゃない。


 いくら「あの時はどうかしていた」と言ったって、全く心のうちになかった事をわざわざ言いに来た筈はない。信じていたイザベラは、私を妬み、憎んでいたのだ。




「アリアンナ。貴女にそう言われても仕方ないわ。許してくれなくても仕方ないわ。そう、確かにわたくしは貴女を妬んでいた。王太子の婚約者だったから、という訳じゃないわ。貴女は……温かい家庭を、愛してくれる父親を持っていたから」


「父親なら、あなたにだっているでしょう。あなたを王妃にする為なら、無実の者を死罪にする事も躊躇わないご立派な父親が!」


「それはわたくしの為じゃないわ。あの人の出世の為。あの人は、王の本性を知っていながらわたくしを差し出したのだもの。わたくしはあの人にも母親にも愛されたことなどなかった。だって……わたくしはあの人の本当の娘ではないから」


「え?」




 いきなりイザベラが何を言いだしたのか、すぐには飲み込みかねた。


 宰相の実の娘ではない? 長年の付き合いだったけど、そんな話は聞いた事がない。宰相の娘でないなら、誰の娘だというの? 王族でも高位貴族でもない血を持つ者を、もしも周囲を謀って王妃にさせたというなら、それはとんでもない罪だし、宰相もイザベラも重罪となるのは間違いない。




「あなた、いったい何を言いたいの。それがこの前、夢の中で言おうとした秘密? 時間がないのでしょ。はっきりわかりやすく言いなさいよ! 親子でジュリアンを騙しているの? 私の代わりに罪を負ってくれるとでも言うの? まさかね」


「ごめんなさい。貴女の代わりに罪を負えるならそうすべきかも知れないけれど、それは出来ない。だって、わたくしはわたくしだけの身体ではないから。わたくしは、王の子を身籠っているの」




 そう言って、イザベラは涙を流した。




 かつての婚約者の子を宿している、とかつての親友に言われても、私には殆ど、「だから何?」という気持ちしか起こらなかった。自分でも不思議なくらい、気持ちは引いている。そうか、ジュリアンの子を妊娠しているなら、少しくらい勝手な事をしたって平気よね。酷い暴力を受ける心配もないわね。咄嗟に思い浮かんだのは、そんな事くらいだった。




「あの、悪魔のようなひとの子どもを産むなんて怖い。でも、でも、この子にはなんの罪もない。なんの闇も抱えてないかもしれない。だったら、わたくしが護らなくちゃ……そんな風に思っているの。何よりも、お腹の子どもが愛しくて。でも、貴女を助けたいのも本当なの、アリアンナ! わたくしが犯した罪を償わなければ、この子は罪びとの両親を持ってしまう……」


「そんなのあなたの都合じゃない! 私が許すと言ったら、罪が消えるから、それで来た、って言う訳?」


「ちがう、言葉じゃなくて、貴女たちを救いたいの」




「……もう今はそれ位にしておかないか、アリアンナ」




 ユーグさまが言った。


 確かに、こんな言い争いは不毛だし、貴重な時間が無駄になるだけ、と私も心のどこかではわかっている。




「ユーグさま。私は冷静に彼女と話す事は出来ません。でも、彼女がわざわざやってきた理由は知らなければならない、ともわかっています。あとは、ユーグさまに任せます」




 そう言って私は、泣いているイザベラを睨みながら一歩下がった。




「王妃陛下。危険を顧みず、しかも常ならぬ御身体で我々の為においで下さったこと、本当に感謝の念に耐えません」




 ユーグさまが静かに言った。イザベラは顔を上げてユーグさまを見た。




「ああ、ユーグさま。あなたさまは、子どもの頃に存じ上げていた朗らかで優しいユーグさまのように見えますわ。でも、皆は未だ、あなたは氷の魔物になったのだと、噂しています。ユーグさま、わたくしのこと、覚えていらっしゃいますか? アリアンナと一緒に、よくお話を聞かせて頂きました。楽しい他国の祭りの話や、おとぎ話の冒険の話……」


「もちろん、今は思い出す事が出来ます。アリアンナのお友達のイザベラ嬢、愛らしくてはにかみ屋の、宰相の愛娘」


「前王陛下の即位十五年のお祝いの晩を覚えていらして? 花火の下で物話を聞かせて下さって」


「ええ、あれは、伝説の竜の国の竜王妃が、夫君の竜王と共に魔竜を退けた話でした」


「ああ……」




 イザベラはユーグさまの答えにそっと目じりを拭った。




「やっぱり、人のうわさなど当てにならないものですね。ユーグさま、あなたは何もお変わりになってない」


「いえ、しかし、氷の魔物になったつもりはありませんが、ひとたびは心と記憶が凍りつき、死ぬところだったのは本当です。アリアンナが氷を溶かしてくれなければ、わたしは今頃死んで氷の塊になっていた事でしょう」


「アリアンナは、あんなにあなたにお熱だったのに、あなたが大怪我を負ったと言われた頃から途端に、本当にあなたの事を忘れてしまったように見えました。わたくしはどう考えてよいかわからず、あなたの話は一切しなくなったのです。でも、彼女はジュリアン殿下と婚約して、とても幸せそうに見えました。なのにやっぱり……こうして、あなた方は救い合い、結ばれる運命だった、という訳ですね」




 ユーグさまは真面目な顔で頷いたけれど、私は何だか嫌みを言われているような気がして苛々してしまう。他の人が言ったなら、そこまで思わなかったかも知れないけれど。でも、口を挟まないと決めたので何とか我慢して黙っていた。


 イザベラはいったい、これまでの、そして今の私たちの状況を、どれくらい知っているのだろう? 過去を覚えているか、ユーグさまを試したりして、そこにも腹が立ったけれど、とにかく彼女の目的を見極めなければならない。


 ――ほんとうに、私を助けたいだけ、なんてことが、あるだろうか?




「王妃陛下。今申し上げたように、数奇な運命がわたしとアリアンナを再会させ、わたしは救われました。でも、そうでなければ、わたしは田舎の領地で儚く凍って死んでいたさだめでしたし、それを受け入れていました。アリアンナがわたしの領地で処刑される事になるなど、わたしには想像出来ようもありませんでした。わたしには何の野心もなく、ただ、アリアンナが次期王妃として幸せになってくれることだけを願っていたのです。朽ち果てていくさだめの身が、アンベール侯と共に前王陛下暗殺を謀るなど、想像した事もない。ジュリアン陛下は、それをお解り下さるでしょうか?」


「わかっている……と思いますわ」




 時間は限られている。


 少しは心を解いたように見えたイザベラに対し、いきなり核心を突いたユーグさまの問いに、彼女は涙ぐんで喘ぐように答えた。




「でも……真実がどうなのかは、関係ありません。あのひとは、あのひとに都合のいい真実を創り出すだけです」


「都合のいい真実、とは?」


「噂の通りです。前王陛下の代、二人の王子に次ぐ王位継承権を持っていたラトゥーリエ公爵は、ご両親が賊によって惨死なされた事で精神を病み、呪術に傾倒してその身に氷の悪魔を宿し、乗っ取られた、と。悪魔の欲望のまま、下僕のアンベール侯を操って前王陛下父子を皆殺しにし、王位簒奪を目論んだのだ、という事です」


「王妃陛下は、その話をどう思われているのですか?」


「アンベール侯とアリアンナが突然投獄されて、わたくしは訳がわからず、そんな訳がない、冤罪だ、と父宰相に何度も訴えました。けれど父は、機嫌が良ければ笑って聞き流し、悪ければ私を打って黙れと言い、そうして言ったのです……『おまえはなんにもわかっていない。しかし、おまえにはおまえの役割がある。ジュリアンさまに嫁ぎ、濃い王家の血を引く子を、多く産む事だ』と」




 この時、突然がたんと大きな音が室内に響いた。別に危険なものではなく、リカルドの傍の小テーブルが倒れた音だった。リカルドが身動きしてぶつかって倒れたらしい。リカルドは話を遮った事を謝って、テーブルを元に戻した。イザベラもユーグさまも、気にしないように、と言った。




「父から何度も言われました。アリアンナはわたくしを見下していたし、その為に彼女に罰が下るのだと。最初は、そんな筈はないと思っていたけれど、そもそもわたくしにはアリアンナ以外に本音で話せる存在がなかったし、その彼女がいなくなってしまったので、次第にどう考えていいのかわからなくなった。そんな頃に、父から内々に、ジュリアンさまと二人きりになるよう、仕組まれた。そうしたら……そうしたら……ジュリアンさまは、優しい言葉を下さっていたけれど……しまいには……誰もわたくしの味方もないところで、わたくしを手ごめにしたのです……。人の気配はしていたけれど、わたくしがいくら助けを求めても誰も来てはくれなかった。ジュリアンさまは、『貴女は私の妃になるのだから、いいでしょう。気持ちを抑えきれなかった事は済まなかった』と仰いました。でも、わたくしは全くそんなつもりはなくて、ジュリアンさまはきっと結局アリアンナと結婚するに決まってる、と思っていたので、もう本当に死んでしまいたいくらい悲しくて」




 イザベラは泣きながら言った。




「でも、結局死ぬ勇気はなくて……だからわたくしはもう、ジュリアンさまと結婚するのはわたくしというのが運命だったのだ、という父の囁きを信じるしかない、と思い込むようにしたの。そして、その思いを正当化する為に、アリアンナが昔からわたくしを見下していたのだ、と信じて罵倒してしまったりしたの。ごめんなさい……!」




 咽び泣くイザベラに、暫し、誰もが、何と声をかけたものか、と迷っていた。

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