第10話・王都からの影

「アリアンナさま。大変ご不自由かと思いますが、今日から明日の昼ほどまでご自分のお部屋から出ないで欲しい、とユーグさまから伝言を承っておりますわ」


 ある朝、侍女のマリーがそんな事を言った。


「え、どうして?」


 私に与えられている部屋には洗面室も浴室も備わっている。数日間籠っていたって、食事さえ運んでもらえるのなら別段不自由ということはない。

 けれど私は今日、シャモーヌ村の子どもに歌を教える約束をしていた。


―――


 シルヴァンの館に迎え入れられてもうすぐ三か月になる。

 この間に王都では、色々とごたごたがあった後にジュリアン王子は即位して王となった。前王陛下があまりに急な崩御だったとはいえ、王太子の即位までに日を要したのは表には出せない様々な思惑が働いたようだ、とは王都に暫く滞在していたリカルドの話。交流相手がろくにいないシルヴァンにとって、リカルドは常に貴重な情報提供者なのだ。彼の話では、私の刑執行の後にも幾人かの大臣や貴族が、内容のはっきりしない反逆罪で粛清されたという。

 このような状況で私は暫くは館に引き籠って息を潜めていたのだけれど、シルヴァンやリカルドは、ここは本当に田舎なので土地の者以外が居ればあっという間に知られてしまうし、近隣の村人は皆、領主のラトゥーリエ公爵に対して絶大な忠誠心を持っているから危険はない筈だと言った。

 確かに私も何週間も館に閉じこもっていると、いい加減息が詰まりそうだったので、念の為に鬘を被って変装し、ラトゥーリエ公爵の親類の娘だという触れ込みでリカルドに村へ連れて行って貰った。

 シャモーヌ村は本当に素朴な村で、役人以下村人は皆、土地を愛して土地と共に生きる人々で、領主の客である私の事を王都に密告しようだなんて誰も思い付きもしないのだと、すぐに私にも確信出来た。王都で生まれ育った私には村の暮らしは何もかもが新鮮で面白く感じた。皆は、この辺りはラトゥーリエ公爵のおかげで、税も軽くて治安も良いので、気候は厳しくてもよそに比べて生きるのが楽なのだと言う。そして、生きるのが楽だから欲は出ないし助け合ってやっていけるのだ、と笑っていた。

 私はすぐに村に馴染んで、子どもたちの面倒を見たりするのも楽しんだ。今までの、王太子の婚約者としての生活では考えられない事だったけれど、過去の私はもう死んで新しいアリアンナがここで生きて行くのならば、なんだってやってみようと思ったのだ。


―――


「村の子には使いを出しておきますわ。それから、外からのお客に決して余計な事を言わないように、とも。まあ、お客が村の子どもに声をかけるなんてあり得ませんけれども」

「お客?」

「はい……王都からの、ジュリアン新王陛下からのお使いだそうです。今夜はこの館に滞在されるそうで……お客様をお通しする棟は別棟ですから、こちらから出向きでもしない限りお嬢様がお客の目に留まる事は絶対にないと存じますけれども」


 ジュリアンの使い!

 私は一気に冷水を被せられた気分になった。変わり者の公爵との単調で穏やかな日々は、私の心の傷を表面上癒してくれているようだった。でも、見えにくくなったとしても、この傷は決して消えない傷なのだ。ジュリアンの名を聞くだけで私の心は容易く、繋がれていた牢屋や裸足で捨てられた雪山に舞い戻ってしまう。

 それなのに、ジュリアンの使いが今日、この館に滞在するのだと言う! 私は自分が蒼白になったのがわかった。


「お嬢様、大丈夫ですよ、ユーグさまがちゃんと守って下さいます」

「でも、マリー……怖いわ、私。使い、って何の為なの? まさか私を探しに……」

「いえ、ユーグさまが新王陛下のご即位の際になさった贈り物のお礼だと伺っておりますよ」

「そう……」

「お嬢様がこうして無事に生きていらっしゃるなんて、王都では誰一人思っていない、とリカルドさまも仰っていたではありませんか。お客は明日にはお帰りになりますし、絶対こちらの棟には近づけないように致しますからね」

「……ええ。ありがとう」


 一度は死んだと思った命なのに、王都から使者が来ると聞いただけでこんなに恐ろしくなるなんて。父が亡くなり、もう大事なものなんてなんにもない。いつ死んだってべつにいいのだ、と確かに暫くは思っていた筈なのに、子どもと遊んだりしているうちに私は弱くなってしまった……。


「入るぞ」


 声がして、ノックと同時に部屋の扉が開いた。たったそれだけで私は飛び上がりそうになってしまう。


「俺だ、アリアンナ」

「ああ、シルヴァン……」


 声でわかってはいたけれど、銀の髪と彫像のようないつもの貌を見て、やっとほっとする。


「顔色が悪い。マリーから話を聞いたか。済まないが、一晩だけ我慢して欲しい」

「もちろん我慢するけれど……使者ってだれなの」


 シルヴァンは私の向かい側の椅子に座った。相変わらず、彼が入って来ると部屋の温度が下がるみたいだった。

 彼は唇の端に嫌悪感を浮かべたようだった。


「いやな奴だ。回りくどい言い方で、へつらいながらも俺を田舎者と見下しているのが伝わってくる。べつにあんな奴に見下されたって痛くもかゆくもないが」

「誰なの」


 彼にしては珍しく、私の問いに直接答えない。いつも、彼との会話は時に言葉の選び方のせいで難解になってしまう事もあるけれども、はぐらかされるような事は滅多にないのに。常に彼は、私の欲しい答えをくれようと考えてくれているのを私は知っている。なのに、何故……。


「会う事はないんだ、アリアンナ」

「誰なの!」

「……オドマン伯」


 私は悲鳴を上げそうになる。

 私をここまで連れて来た執行人。私に外套や靴下を脱がさせ、情人になれと迫った男。私を吹雪の中、鎖で樹に縛りつけた男。旅の途中でも、何度もいやらしい目で私を見ていた事にも気づいていた。全ての忌まわしい記憶を代弁する為のような存在。


「いや! いやよ、あの男はいやっ!」

「アリアンナ、落ち着いてくれ。俺だってあんな奴をこの館に入れたくない。だが、万一にも疑いをかけられるような事は避けなければならない。あいつはこれまでにも何度か王都から派遣されて来たが、いつもここで迎えていた。だから変える訳にはいかないんだ。おまえを辛い目に遭わせたあの男を、おまえの為に斬り捨てるだけの力がない俺を許してくれ」

「……シルヴァン、あなた……」


 彼は泣き叫ぶ私の腕を捕まえて、真摯な声で言った。掴まれたところが冷やっとして、彼はすぐにそれに気づいて手を離す。でも、私が驚いたのは彼の手の冷たさではない。

 今まで、彼がこんなに感情の入った物言いをしたのを聞いた事がなかったからだ。おまえの為に死ぬだとか色々な事を言われたけれど、いつもどうしてそこまで言われるのかがわからなくて、あまりぴんと来てはいなかった。でも、今の言葉は、本気で私を案じ、私を怯えさせるものを拒めない自身への苛立ちが感じられた。国王からの使者を斬り捨てるなんて、誰にも不可能な事なのに。

 驚きが、私にいくばくか冷静さを取り戻してくれた。


「贈り物のお礼、だって聞いたわ。でも、少し時間が経っていない? 書状は来たのでしょう?」

「ああ。それに、本当は、贈り物なんて大して有り難がられてはいない筈だ。何しろ、俺は国王の近親者として即位式に出席すべき身であるのに、代理人を立ててしまったからな。本当にどうしても、俺の身体が温暖な王都やそこで暖められた室内に長居する事に耐えられないからなのだが、普段通りに領地で執務をこなしているのに、そんな事が出来ない程病が酷いとは誰も信じていない筈だ。たぶん、俺の様子を確認する意図があるんだろう。それと……もうひとつ」

「もうひとつ……?」

「オドマンは、おまえを置き去りにしたあの場所に行って、死体を確認したいと言って来ている」

「――!!」


 今度こそ私は倒れてしまうのではと思った。そんな恐ろしい事が――では私が生きている事が知られてしまう――。


「アリアンナ! あの辺りには熊が出るから、死体なんて残っていない筈だと申し送っている。それでも念の為、あの鎖はあのままにして、おまえがあの時着ていたドレスの切れ端や動物の骨を持って行き、偽装する準備をしている。恐らく、大丈夫な筈だ。何故なら、あいつはおまえがちゃんと死んでいるか疑って確認したいと言っているのではないからだ」

「じゃ、じゃあなんのために?!」

「死体か遺物があれば回収したいと。そして王都の墓地に葬りたいと言って来ている」

「わけがわからないわ。なんで今更?」


 シルヴァンは小さく溜息のようなものをついた。


「俺にもわからなかったが、リカルドが言うにはこういうことらしい。おまえをきちんと墓所に葬りたいと言い出したのは王妃なのだと……ジュリアン王子が即位すると共に王妃になった、おまえの昔の友だち、イザベラ妃。イザベラ妃は暫くはおまえを悪く言い続けていたそうだが、おまえは追放されただけで死んだとは思っていなかったらしい。おまえから地位を奪った形で王妃になった彼女は、おまえの鎮魂をする事で罪の意識から解放されたいんじゃないか、と」

「イザベラが」


 なるほど、確かにありそうな事だった。鎮魂に、そして、美談にもなるだろう。大逆人ではあっても、私自身が手を汚した訳ではない。家族の罪に連座させられたかつての親友を偲んで、せめて生まれ育った王都に眠らせてあげよう、という心優しい王妃。


(迷惑よ。私は、絶対に許さないんだから)


 牢屋に面会に来て、縋るような思いだった私の手を振り払い、憎しみを露わにして罵り笑ったイザベラ。仮に今は私の死を悼んでいるとしても、それで許せる筈もない。おまけに、余計な発案をしたせいで、私は危ない事になっている。オドマンは抜け目のない男だ。もしも偽装がばれたら、どうなってしまうだろう。私を匿っているのがばれたら、シルヴァンはどうなってしまうだろう……。


「動物の骨だなんて、かえって疑いを持つ材料になるのではないかしら」

「だが、なにもないというのも」

「これを……」


 私は、テーブルの上の果物ナイフを手に取った。


「アリアンナ、なにを」


 ナイフで私は自分の髪を一掴み、出来るだけ長く切り取った。


「血糊でこれを樹に貼りつけておいたらどうかしら……もしもイザベラが見るなら、私の髪だとわかるかも知れないわ。黄金の薔薇と呼ばれていた私のこの髪は、ありふれてはいないもの」

「アリアンナ……済まない」

「なにを済まながるの。あなたに面倒を抱え込ませてしまって、申し訳ないのは私よ」

「だが……」


 シルヴァンは、躊躇うようにゆっくりと、私の切り取った髪の房に触れた。


「女にとって髪は大事なのだろう。済まない。もしも万が一怪しまれたら、その時はあいつを殺しておまえを安全な土地に送るから、不安がらないでくれ」

「ばかね、そんな事をしたらいくらあなたが公爵でもおしまいよ! 私はどこへも行かないわ。あなたに護られてここにいるわ。だって……」

「だって?」

「まだ、約束の半年が経っていないもの」


 何故咄嗟にそんな事を言ってしまったのか、自分でもよくわからなかった。そう言えばシルヴァンが、オドマンを殺すなんて無謀な事を止めるだろうと思ったから、だろうか。半年経ったらここから離れるなんて、もう既に私には考えられない事になっていたのに。

 でも、シルヴァンはその言葉を聞いて、そうか、と微かな笑みを漏らして、


「俺が命に代えても護るから……期限まで居てくれるならば嬉しい」


 と言ったのだった。

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