第5話・冷血公爵は悪役令嬢を護りたい

 目にして来た色んなものから、銀の髪の男が、会いもしないままに恨んでいたラトゥーリエ公爵……冷血公爵ではないかと感じてはいた。

 小広間にあった、ジュリアンに似た肖像画……あれは、ジュリアンの叔父、前ラトゥーリエ公爵ではないだろうか。

 それに、もし彼がそうであるなら、雪山に薄着で捨てられた私を助けたことに理由は思いついた。自らの罪の隠蔽に私の父を利用したのであれば、何も知らないままに無惨に処刑されたた父に対して幾ばくかは後ろめたい気持ちがあるだろう。だからせめてと、自分の領地で刑死する事になった娘の私を助け、自分のものとして館の中での自由を与える――命は助かっても、そこに私の意思が介在する余地がない辺り、冷血公爵にもあり得る行動ではないだろうか。


 ――でも。

 そうまでして、王位を手に入れる事が公爵の目的であるなら、いったいどうして、私に殺されてもかまわない、なんて言う訳があるだろうか? いまも公爵は無防備なままだ。私を騙して油断させる芝居? そんな事をする必要はどこにもない。地位を失い不名誉を被った私には騙す価値なんかない。その気になればいつだって公爵は私を思うように出来る。……そもそも、べつに私が気を失っていなくたって、力ずくで私を襲ったところで助けてくれる人などいる訳がないのだ。ここは公爵の館なのだから。


 改めて私は公爵の顔をじっと見た。

 私がすぐにこの人がラトゥーリエ公爵かも知れないと考えなかったのは、この珍しい髪の色のせいだ。他国にはこういう髪もあるそうで、外交使節の人に見た事はあるけれど、我が国生粋の人間にはない色だ。王家の人は皆黒髪で、ジュリアン王子も先王陛下も勿論そうだった。先王陛下の甥であるラトゥーリエ公爵に、他国の血が混じっている筈がない。冷血公爵は当然黒髪だと、誰もが思っている。

 でも、その先入観を取り払えば、公爵の顔立ちは、美男子揃いと讃えられている王族の特徴を備えていた。


「……足」


 と公爵は呟いた。


「え?」

「この部屋はおまえには寒いだろう。素足では足を冷やしてしまう」


 確かに、まったく暖気のない部屋で私の足はかじかんでいた。


「まだ何もせずにそこにいるつもりなら、座ったらどうだ。向こうに膝掛けがあるだろう」

「……」

「べつに俺は逃げたりしないぞ」

「そんなこと心配してるんじゃないわ。どうしてそんなに親切にするのだろう、と思って」

「おまえだからだ。俺は誰にでも親切な訳じゃない」

「どうして、私なの? 知りもしない相手なのに」

「おまえにとっては、そうだったな」


 不思議な言葉に私は困惑した。私にとっては、とはどういう意味だろう。公爵は私が気付かないうちに私をどこかで見たのだろうか?


「あなたは、私の父を知っていたの?」

「……まさかアンベール侯があんな事になるなんて。知っていたら俺は出来る限りの事をして助けたのに。しかし、俺が状況を知った時には、既に手遅れだった。王都からもたらされる情報は操作されていた」

「……嘘。あなたは、父を見殺しにしたのでしょう」

「俺が? 何故そう思う? 俺にとっても、侯は父親みたいなものだったのに」


 そう言うと公爵は身体を起こした。


「起きていいの?」

「もう寝ているのには飽き飽きしていたところだ。おまえが刺しやすいようにと考えていたが、すぐにそうする気はなさそうだから」


 銀の髪がはらりと広がり、公爵は面倒くさそうに傍にあった紐で長い髪を結わえた。そして自分が使っていた上掛けを私の肩に羽織らせる。


「少しは寒さがましになるだろう」


 男性が身に付けていたものをいきなり掛けられて、私はまた失礼なと怒りそうになったけれど、相手はあくまで善意のつもりらしいので、文句は飲み込んだ。本当は寒くてたまらなかったので、話を続ける為に私は上掛けを羽織り、言われた通りに膝掛けを持って来て座って足をくるんだ。


「おまえは、俺がアンベール侯を見殺しにしたと思ったから、俺を殺したかったのか?」

「……いいえ。あの時は、あなたがラトゥーリエ公爵だと気づかなかったもの」

「では、何故?」

「本当にわからないの? 訳もわからないままに、殺されてもいいと思っていたの? あなたこそ、死にたかったの?」

「俺は死にたくない。出来れば当たり前に歳をとるまで生きていられたらと思っている」


 公爵の返事はやや意外だった。命が大事でないから、私に殺されてもいいような事を言っているのかと思っていた。

 公爵との会話は、私を落ち着かない気分にさせた。私は私を凌辱した銀の髪の男を殺したい一心でこの部屋まで来たのに。私はラトゥーリエ公爵が父を陥れた張本人だと思い込み憎んでいたのに。話していると、私の憎しみと怒りは、なんだか空回りしているような気になって来る。


(信じちゃ駄目よ。もっとずっと親しく思ってきた人たちに散々裏切られてきたではないの。会ったばかりの男の言う事なんて――)


 でも、私は最後に面会した時の父の言葉を思い出した。


『アリアンナ。人を、信じる気持ちを忘れてはいけないよ』

『お父さま! こんな事になって、いったい誰を信じる事が出来ると仰るの。もう私は、絶対に誰も信じないわ』

『人を疑うだけでは、きみも人から疑われるだけの人間になってしまうよ。私はかつてきみに、迂闊に誰でも信用してはいけないと教えた事があったね。それは、きみがいずれ王妃になるのだから、良からぬ企みを持って近づく者もいるだろうと心配したからだ。しかし、』


 そう言って父は苦し気に血を吐いた。拷問によって、元々頑健でない父の身体は、その時もう、元には戻らないまでに傷めつけられていた。でも、父は私の為に話し続けた。


『しかし、いま、王太子の婚約者ではなく、侯爵令嬢でさえない可哀相なアリアンナ、きみに残されているのは、きみのその気高く誇り高い心と、そして、人を信じる心……』

『お父さま。この期に及んで、ひとを信じる心なんて何の役に立ちましょうか。私たちは、その心をずたずたにされたばかりなのに』

『それでも……信じるべき時に信じる事が出来れば、きっときみは救われる……』


 もちろん、私は私を裏切った人々を二度と信じる事はない。この目で、耳で、はっきりと彼らの裏切りと悪意を知ったからだ。けれど、ラトゥーリエ公爵に関しては、父と公爵との繋がりのせいで父が疑いをかけられたと聞かされ、『きっと公爵が父を陥れた』と思い込んでいただけなのかも知れない。

 そして、銀の髪の男については? 

 唇を奪われたのは本当だ。でも、その前の事は?


「あなたは、私を、自分のものだ、と言ったわ。それは、どういう意味なの」


 いま、私にわかるのは、公爵はとにかく、浮世離れした感性の持ち主らしい、という事だ。だったら、はっきりと言葉にしない限り、わからないのかも知れない……。


「おまえはずっと、ジュリアン王子の婚約者だった。王子だけがおまえを愛して護る資格を持っているということだ。だが王子は自らその資格を投げ出し、おまえを傷つけた。だから、俺がおまえを助けた。いま、おまえを護ることが出来るのは俺だけだ。俺の傍に居て、俺に護られる者……それが、俺のもの、だと思った」

「――わかりにくいわ」


『俺のものになるなら助けてやろう』


 俺に護られる存在になるなら、という、意味――? そんなの、わかるわけないじゃない。直前に、同じ言葉で情人になれと言われたばかりで。

 でも。


「おまえを護りたい。出来れば生きて傍にいたい。だが、おまえが望むのなら、おまえの為に死のう」


 アイスブルーの瞳にはなんの嘘も混じっていないように思える。


(私を護りたい? そんなの、お父さま以外、誰も言ってくれなかった)


 助けてと伸ばした手は悉く撥ね付けられたのに、殺してやると言い放った相手だけが、私を護りたいと言う。


(信じて、いいのだろうか)


 私にとっては知らない相手だけれど、何故か私の事を知っているような口ぶり。


『アリアンナ。絶対、護るから』


 いつか、どこかで聞いた声――いつなのか、誰の声なのかはわからない、けれど、不意に蘇って。

 涙が零れた。

 疑う事にもう私は本当は疲れ果てていた。信じる事の代償が死であるとしても、既に一度死んだと思った身なのだから、かまわない、という気がした。

 でも、これだけは確かめておかなくては。


「気を失った私を、ここに連れて来てからどうしたの?」

「侍女のマリーに世話を頼んだ。信頼出来るやつだし、雪山で迷った者の手当てにも慣れている。マリーはずっとおまえの傍についていたが、ちょっと用をしに部屋を出て……女性の寝室に入ってはいけないと言われていたが、おまえの顔が見たくて俺は入ってしまった。ちょうどその時におまえが目を覚ました」


 そう答えてから公爵は初めて気づいたように、


「そうか。おまえは俺が勝手に寝室に入ったから怒ったのか?」


 などと言う。私はそれには答えずに重ねて問う。


「じゃあ、館に戻ってから私に触れてない、と?」

「触れる訳ないだろう。俺の手は冷たい。折角温まったおまえの手を冷やしてしまうからな」


 ――私の言う、触れる、の意味もわかっていないようだ。

 確かに、ラトゥーリエ公爵は、常人離れした変わり者であるようだった。


(信じていいのね、お父さま?)


 公爵は、父を、自分にとっても父親みたいなものだったと、出来るだけの事をして助けたかったと言った。それがほんとうならば、事件が起こって以来初めて……命が助かったと思った時よりもっと……うれしいことだ、と私は思った。

 私は、ゆっくりと握りしめていたナイフを元の場所に戻した。


「使わないのか?」

「もしもあなたの言う事に偽りがあれば、使うわ」

「おまえに偽りなんか言わない。何だかよく分からないが、じゃあ俺はまだおまえと居る事が出来るのだな」


 そう言って公爵は形のよい唇を僅かに動かした。

 笑った、のだろうか。きっとそうなのだろう、と思えた。

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