第4話・悪役令嬢はナイフを握る

 王太子やイザベラをいくら殺したくても、今の私に出来る筈もない。でも、彼らは私が今頃山の中で息絶えていると思っているだろうけれど私はこうして生きている。生きてさえいれば、いつか復讐する機会が来るかも知れない。


 悪夢から意識が時折浮かび上がって来ると、私は、あの銀髪の男のことを思い出す。殺したい相手の中で、あの男だけは手の届く所にいる。この館はきっとあの男のものだから、同じ屋根の下のどこかにいる筈だ。ジュリアン達は私の持っていたもの殆ど全てを奪ったけれど、あの男は、それでも最後に私に残されて天の国まで持って行くつもりだったもの――誇りを奪った。あの男を殺す為に生きる、と私は言った。殺す事が出来れば私は生きて、他の復讐も果たすことが出来るかも知れない。


 夢うつつの中で、傍で女性が看病してくれ、身体をさすり、朦朧としている私にスープを飲ませようとしてくれるのを感じた。医師らしき人が、このまま何も飲まなければやがて私は衰弱して死ぬだろう、と言ったのもわかった。そのまま死ぬのも、生きてあの男を殺すのも、正直どちらでもいいと感じていたけれど、口元にスープを掬ったスプーンを近づけられると、私はそれを啜っていた。生きたいという気持ちが、死にたいという気持ちに僅かに勝ったのかも知れない。

 温かいスープが喉を通る回数が多くなる毎に、自分が回復していっているのがわかった。


 そうして、幾日が過ぎたのかはわからないけれど、ある時私は目を開けた。白く霞んでいた視界が、徐々に像を結んでくる。私は右手を持ち上げて、顔の上にかざした。随分細くなって肌の艶も褪せていたけれど、私の手だ。私の意志の通りに動く私の身体。私は、生き延びた。

 いつも誰かが傍についていたような気がするけれど、この時はたまたま席を外していたようで、部屋には誰もいなかった。ただ、最初に目を覚ました時と同じように、暖炉には赤い火が燃えている。私はゆっくりと身体を起こした。あちこちが強張っているけれど大丈夫だ。

 周囲に人の気配がないか探りながら、私はそろそろと足を伸ばして床に降りた。素足に石の床は冷たいけれど、あの雪山に比べればなんということはない。傍の椅子にかけられていた上掛けを羽織って、私は一歩ずつ確かめるような足取りで部屋を横切った。

 改めて見ると、立派な造りの客用の寝室だった。冷気を防ぐ為だろう分厚い織りのカーテンも古びているけどかなり上質の品だとわかる。急速に覚めてゆく私の意識は、あるひとつの推測に、目に見えるひとつひとつの事を結び付けつつあった。

 暖炉は燃え、部屋の端にはトレイに乗った水差しが置かれ、傍の籠の中には仕事途中の繕い物が無造作に放り込まれている。たった今まで誰かがいたようであるのに、まるで私が目覚めるのに合わせて人の存在を切り取ってしまったかのように辺りはしんとしていた。


 私は重たい扉を押して廊下に出た。今にも誰かが別の部屋から出て来てベッドに連れ戻されるのではと思ったけれどそうはならず、私は知らない館の中を、何かに導かれるように歩みを進めた。髪も梳かさず、寝着に上掛けを羽織っただけで寝室の外に出るなんて、淑女のする事ではない。だけど、散々悪夢に脅かされ、いまは目が覚めたとはいえ現実もまだ掴みどころのない状況で、そんな事に構ってはいられなかった。

 時代を感じさせる薄暗い廊下を進んでゆくと、小広間のようなところへ出た。誰もおらず、カーテンは閉め切られて薄暗く冷え切っていた。隅には大きなピアノがあるけれど、随分長いこと誰にも触れられていない風だった。調度品は立派なものだがやはり年代を感じさせる。ふと私は、本当は自分は死んで、人の住まない山奥の館を彷徨っているのでは、という妄想に囚われそうになった。

 でも、眠っていた部屋の暖炉の火は、決して幻ではなかったし、私の身体もきちんと熱を持っている。しゃんとしなければ……と首を振った時、壁にかかった肖像画に気付いた。

 黒髪の男性が描かれている。服装からかなり高位の貴族の肖像画だ。恐らく、この館の代々のあるじの誰かなのだろう。その男性は、少しだけジュリアンに似ていた。私は溜息をついて絵から目を逸らした。

 小広間から別の廊下に出た頃には、私の身体も足も冷え切っていた。この寒さでは、外は恐らく雪なのだろう。でも、私は何かに導かれるようにそのまま先に進む。自分でもどうしてそっちへ行くのかわからなかったけれど。

 そうして、奥へと進み、ひと際立派な装飾が施された重々しい木製の扉の前に私は立った。鍵はかかっておらず、扉はその重さが嘘のように音を立てずに開いた。私は迷わずに室内に入った。


 最初、間違えたかと思った。

 不思議な確信に導かれて来たけれど、その部屋は、人がいるには寒すぎたのだ。カーテンの隙間から外の明りは射しこんでいるけれど、人の声も物音もない。きちんと整えられた文机と椅子、キャビネット……女性の部屋ではない。奥の、陽の射さないところに、立派な寝台があった。


(……いた)


 寝台にあの銀の髪の男が横たわっていた。背筋がぞっとする程寒い部屋なのに、何故か薄掛け一枚で眠っているようだった。端正な顔には、やはり血の気というものがないように見える。死んでいるのかと一瞬思ったけれど、その胸は規則正しく上下していた。

 こんな部屋で平気で眠りに就いているなんて、やはりこれは魔物なのではないだろうか。わからない。魔物なんておとぎ話でしか知らないので、確かめようはない。

 魔物に犯されたら魔物になってしまうのだろうか? 私は、これから人を殺そうとしている事に何の躊躇いも感じていない自分に少し驚いていた。『黄金の薔薇』、未来の王太子妃だったアリアンナが、冷たい氷の館で魔物と化して魔物を殺そうとしているなんて、いったい誰が想像するだろう?

 男の枕元には椅子と小テーブルが置いてあり、誰かがそこで林檎を剥いたらしい。林檎の籠と、ナフキンに包まれたナイフがテーブルに乗っていた。

 私はナイフを手に取った。男が目を覚ます様子はない。果物用のナイフとはいえ、喉に突き立てたら大の男でも命はないだろう。本当に魔物ならわからないけれど……魔物を確実に殺す方法なんて知らない。柄を右手でぎゅっと握った。男を殺してそのあとどうなるのかなんて、この時はまったく考えていなかった。重苦しい静寂に背中を押されるように、私は男の傍へ寄った。


『おまえを死なせない!』

『おまえが生きてくれるのが俺の望み』


 いったいどういうつもりであんな事を言ったのだろう。でも、


『言葉になどしなくても、おまえはもう俺のものだ』


 そして、塞がれた唇の感触。無理やりに、押さえつけられて。

 与えられた屈辱は、返さなければならない。それに、もしも私の想像が当たっているならば、この男は……。

 私は息を呑み、ナイフの柄を両手でしっかりと握る。


「――」


 でも、身動きもせずに無防備に眠っている相手にナイフを振り下ろすなんて、本当に許されることなのだろうか。男の顔を見ていると、急に弱気が襲って来る。男の顔は、私になにか遠い記憶の彼方から呼びかけるものを揺り動かしてくる気もする。

 今しか好機はない。男が目を覚ませば、あっという間に私はナイフを取り上げられ、組み敷かれてしまうだろう。魔物だろうと人間だろうと、とにかく一般的な男性の腕力があることはわかっている。そして、組み敷かれてまたなにかされてしまうかも知れない……。

 けれど、だからと言って、これは卑怯ではないのか。卑怯な手段で手を血で汚しては、もう天の国でお父さまと会えないのではないだろうか。

 様々な思い、憎しみと躊躇いがせめぎ合う。

 その時……。


「どうした。やらないのか」


 私ははっとして思わず声を上げそうになった。

 男は瞼を開けて、アイスブルーの目をじっと私に向けていたのだった。


「き……気が、ついて」

「おまえが入って来た時から気が付いていた」


 男は静かな声で言う。変わらず無防備な姿勢のままだ。ただ、首を傾けて私を見ているのがさっきと違うだけだ。


「気が付いていた? ならどうして。私が躊躇わなかったらどうするつもりだったの」

「言ったろう、おまえになら殺されてもかまわない、と。おまえの苦しみを少しでも癒せるならば、俺の命などどう使ってもかまわないんだ。本当はもっと長くおまえと居たかったが、おまえを助けてここに連れて来てひとときを共に過ごせた、それだけで充分満足だ。俺の願いは叶った。だから、おまえが決心するまで黙っていようかとも思ったが、おまえが迷っているようだったので、これでいいのか確認しようと思っただけだ」

「……これでいいのか、とはどういう意味」

「おまえは、俺を殺す事を生きる目的にする、と言った。なのにこんなに早々目的を果たしてしまっては、おまえが生きる目的を失ってしまうのではないかと、心配になって」

「……」


 この男は何を言っているのだろう? 私は本当に、もう少しで喉を掻き切ろうとしたのに、その私が、自分を殺した後に生き甲斐を失わないか心配、ですって? いくら厚かましい人間でも、ここまで偽善が過ぎた事を真顔で言えるものだろうか? 


「心配して頂かなくても、他にも殺したい相手はいるわ」

「そうか。ならいいんだ。じゃあ、おまえの気の済むようにすればいい」


 男は僅かに唇を動かした。……まさか、笑った……?


「おまえがこの館で何をしても絶対に邪魔をしたり咎めたりするなと皆には言ってあるから、後の事は心配しなくていい。俺の代わりと思って仕えろとも命じてる。おまえは安全だ」

「……」

「ひとつだけ、願いがあるんだが」

「……」

「おまえがナイフを刺すまで、おまえの顔を見ていていいか。刺されたらさすがに目を開けていられなくなるかも知れない。すぐに死ぬだろうし。でも、俺はずっとおまえに会いたかったから。もう会えないだろうと思っていたのに、会えたのだから、少しでも長くおまえを見ていたい」


 私はもう何も言えなかった。男は全くなんの企みもない顔で私をじっと見つめている。


「……なんで。なんでそんな事言うの」

「なんでって? 思った事を言っているだけだが」

「……」

「あ、もしや、俺はまたおまえの気に障る事を言ってしまったか? 済まない、俺は時々物言いがおかしいらしくてな。悪気はないのだと思ってもらいたいのだが」


 私の手から、ナイフが滑り落ちた。


「おい、落としたぞ」

「……」

「拾ってやろうか? 医師からは、まだ起き上がるなと言われてはいるが」

「……死ぬというのに、医者の言う事を気にするの?」

「ああ、そうか。もうバロー先生に会う事はないんだった。昨日、もっときちんと今までの礼を言っておくべきだったな」


 そう言って男は起き上がろうとしたけれど、私はそれより先にナイフを拾った。そして、言った。


「あなたの名前を聞いてなかったわ」

「そう言えば。俺は、ユーグ・ラトゥーリエ。ラトゥーリエ公爵家の当主だ」


 ――ああ、やっぱりそうなのか。

 私は、私が捨てられる山が、ラトゥーリエ公爵の領地だと聞いていた。まさか公爵の方で私に会おうとするとは想像していなかったけれど、領主なら私が刑を受ける時間や場所もおおよそ知っていた筈だ。

 この館は明らかに、かなり格の高い地方領主の住まいだと思われた。この館の中で、私に自由にしていいといったこの男は、この地方の領主、即ち、ラトゥーリエ公爵、冷血公爵ではないのか、と私は部屋の様子や館の中を見ながら思っていたのだった。

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