第8話 江口孝也(2)

「痛って……」


 ガンガンと鳴る重い頭をなんとか持ち上げて、身体を起こす。起こすために力を入れた手は柔らかな弾力に跳ね返された。起き上がった場所は知らないソファの上で、フワフワの毛布が一枚掛けられていた。

 それから、昨日あったはずの出来事を順番に思い出していった。裕二に会えたことが嬉しくて、話せたことが嬉しくて、いつもよりお酒を飲んだ。こんなはずじゃなかったのに。


 見上げれば、ベッドでは丸まった裕二がすやすやと寝息を立ててまだ寝ていた。その寝顔を少しだけのぞき込む。穏やかな寝顔に俺の心は少しだけ温かくなる。

 そういえば教室でも机に突っ伏してよく一人で寝ていたな。裕二の顔はあの時と変わらない、高校生の時の寝顔そのままだった。


 壁に掛けられた時計を見れば、時刻はまだ朝の7時半。裕二は今日は夕方からの夜勤だと言っていた。起こすには流石にまだ早すぎるだろう。俺は床に転がっていた携帯電話を拾い上げて起動する。日時は「12月25日」、クリスマス当日だった。


「本当にバカだな俺は……」

 

 ドラッグストアで本当に10年振りの再会をしたあの日。身をボロボロにして働いていた頃。あの時、俺は本当に得たかったはずのもの、そして失ってしまったものに気付いてしまった。何のためにここまで頑張ってきたんだと怒りが湧いた。だから、俺は自分の気持ちに素直に生きよう。そう思ったんだ。まず初めに会社を辞めた。

 そして俺はクリスマスイヴの前日。偶然を装って裕二に声を掛けた。

 その日のために2人分の店の予約は事前に入れて、準備は万端だった。クリスマスイヴなんてどの店も入れないんじゃないか、と思っていたから。そもそも、わざわざクリスマスイヴの日に誘ったのには理由がある。

 それは賭けをしたかったから。クリスマスイヴの日には予定がある、と裕二に断られてしまえば、もう今更俺の出る幕なんてないんだと思った。だが裕二は来てくれた。天にも昇る思いだった。


 俺は悪いと思いながら、部屋の中を少しだけ見回す。最低限の物は片付けられているが、キッチンには缶ビールが沢山転がっていて、およそまともな食生活をしていないように伺えた。それから枕は一つで、歯ブラシは一つで。俺はそんなものをチェックしてしまう。裕二が他に暮らしている相手がいないようだとわかって、俺は胸を撫でおろした。


 ベッドの脇に座ると、もう一度、裕二の寝顔を見つめる。


 触れたい。


 その頬に。その額に、唇に。

 触れたくてしょうがない。

 

 そう思った時、自分で抱いていた感情がやはり間違いでなかったと気づいた。だがその気持ちはストンと心に落ちる。裕二を思う気持ちが強すぎて、たとえこの気持ちが好きだったのだとしても、俺は不思議なことではないと思った。

 

 目の前には裕二の安らかな寝顔がある。俺と裕二の間に隔てられた壁を感じて、胸がどうしようもなく苦しくなった。

 俺は布団からはみ出た裕二の右手にそっと両手で触れた。その皮膚はすべすべとして柔らかな肌の感触がした。指の一つ、一つ、が愛おしくて堪らなかった。

 今更許されないのだ、と分かっていた。行き場のない感情を何とか押し殺そうとした。どうしたら。どうしたら、裕二の心に、もう一度触れられるのだろうか。


「そうか」


 裕二はこんな想いで俺と友達でいてくれていたのだろうか。いつも見せてくれた笑顔の裏で、裕二はこんな感情と闘っていたのだろうか。

 

 今でも覚えている。

 俺を「好きだ」と言ってくれたあの日。

 裕二ははっきりと俺に、”拒絶”されたがっていた。

 苦しいのだと全身が訴えていた。


 それでも、俺は "裕二を" 拒絶できなかった。

 あまりにも裕二が大切で、拒絶することなんて、できなかった。

 これが優しさだと嘘をついて、裕二の言葉を無かったことにした。


 だから裕二は "俺を" 拒絶した。

 裕二に二度も苦しい思いをさせたんだ。


「ごめん、ごめんな」


 10年も経った今になって、俺に何ができるというのだろう。俺の事なんて、もう裕二は忘れたであろう、少なくとも忘れたかったに決まっている。今更俺は何をしてあげられるんだろう。また君を苦しめるだけなんじゃないだろうか。そう思うと、俺はいますぐこの部屋から逃げ出したい気持ちになった。

 握っていた手のひらをそっと離すと、俺はベッドの脇から立ち上がった。

 するとその時、俺は『あるもの』が目についた。


「これ……」


 そこには身の覚えのあるガラスの鳥の置物があった。俺はそれをそっと手に取ると、よく観察する。持ち上げると鳥は朝日を反射して、キラキラと光り出した。

 間違えるはずがなかった。鳥が好きだという裕二の誕生日に、俺が当時プレゼントしたものだった。

 

「そっか……。そっ……か」


 漏れる笑みを止められなかった。この気持ちは裕二が好きだという気持ち以外、何者でもなかった。勘違いかもしれない、ただこの置物が好きなだけかもしれない。それでも裕二は俺を忘れてしまったわけではない、そんな風に感じた。

 

 俺は自身の手帳を一枚破ると、メモ書きを残すことにした。書き残すメッセージを何にしよう、と悩む。その時、未だに現在の連絡先を交換していなかったことに気付いた。携帯の電話番号を書こうとして、その手を止めた。そうしてしまったら、なんとなく裕二はもう連絡をくれない気がした。もう一度、何気ない風を装って、あのドラッグストアを訪れてみよう。


『昨日はありがとう。メリークリスマス、また会おうな。裕二』


 俺はメモをテーブルの上にそっと置くと、裕二を起こさないように荷物をまとめた。冷たい廊下を抜けると、靴をそっと履いた。

 玄関の扉を開く。冬の空気が火照った顔をひやりとなぞった。扉の閉まるガチャリとした音がした。その音がどこか懐かしく聞こえて、俺は誰に見られるでもないのに、首に巻いたマフラーで口元を覆い隠した。

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