第6話 佐藤裕二(6)
ガチャン、と古臭いアパートの扉が閉まる音がした。玄関の明りを点けて、狭い廊下を通り抜ける。部屋に入ればそこは変わることのない現実で。散らかったいつも通りの風景があった。俺はソファの上の物を足で適当に床へと転がすと、孝也をソファに放り込んだ。
「はあ……疲れた」
久しく他人の立ち入っていない部屋は一人暮らし、30手前の男、というのを差し引いても汚くて、孝也の意識がほとんど無い状態なのが救いだった。どうでもいいかなと思いながらも、流石にこの部屋を見せるのは気が引けて、俺は床に散らばったものを適当に重ねて端っこへと寄せていく。
「そういえば、このクリスマスも終わればもう年末だな」
大掃除なんて最後にしたのはいつだろう。最後に誰かと正月を過ごしたのはいつだろう。床に缶ビールが転がりだすようになったのはいつだろう。
山になった洋服をどけると、下からバラバラと大量の原稿用紙が出てきた。俺はそれを手に取る。書き出しの数枚だけ文字が書かれていて、束になった用紙の大半は、真っ白の綺麗なマス目が並んでいた。書き出しの文章を読んでも、もうこれがいつ書いたものなのか記憶がない。少なくとも1年以上は前だろう。俺は何も見なかったことにして、原稿用紙の束をそっとクローゼットの隙間に押し込んだ。
俺は急に不安になってソファの孝也を窺った。その身体は窮屈そうに縮こまって、眉間に皺が寄ったまま、寝息を立てていた。
俺は仕方なく孝也のスーツの上着をえいえいと、無理やり脱がせ、ハンガーへと掛ける。それからネクタイをするりと丁寧に外して、第一ボタンを開けた。孝也の無防備な首筋が露わになる。
「あー……すまん、ありがと」
その時、急に孝也が声を発した。俺の心臓がドキリと跳ねる。なぜか途端に罪悪感めいたものが湧いてきた。
「……うん」
孝也はそれから、自身のベルトに手を掛けて外そうとした。しかし力が入らないのか、途中で諦めたように力尽きて、また静かに寝息を立てはじめた。
「……勘弁してくれ」
俺は仕方なく取れかけのベルトに手をかける。エアコンの静かな風音だけが聞こえる部屋で、カチャ、カチャというベルトの金属音が鳴り響く。心臓がやけにうるさかった。
俺はベルトを外し終えると、大きく息を吐き立ち上がった。
それから先ほどのクローゼットまで忍び足で歩き、扉をもう一度ゆっくり静かに開いた。隙間に押し込まれた原稿用紙が変な折り目をつけて、なんだか可哀そうに顔を覗かせていた。俺は一枚だけそっと、優しくそれを手に取った。
なぜだか申し訳なくなって、原稿用紙についた折り目をなんとか伸ばして綺麗に戻したくなった。紙を床に押し付けて、指の腹で折り目を丁寧になぞる。それでも何度なぞっても、折り目は元には戻らなかった。
幼い頃から物語を紡ぐのが好きだった。
自分の中にある世界を表現するのが好きだった。
好きだった。
俺の書いた物語を好きだ、と言ってくれた孝也が好きだった。
初めて人に物語を書いていることを話したあの日。
俺は孝也が好きになった。
小説家になりたいと思った。
バカな話だ。
大学時代、一度だけ賞を取った。
それに縋り付いて、この年までずっと夢を諦めきれずにいた。
いつか自分の出版した本が有名になって、君に知らずに届けばいいと願った。
今の仕事を続けているのも、小説を書く時間を残しておきたかったから。
そのはずだった。
————本当はもう全部わかっているんだ。
自分には、何もない、ということくらい。
もうずっと、ずっと原稿用紙は白紙のまま。
こんな下らない妄想だけを繰り広げているくらいには。
もうどうしようもないんだってことくらい。
「君を好きだったことなら、書けるのかな」
呟いた言葉はあまりに弱くて、どこにも行き場はなくて。
誰に届くこともなく、部屋のどこかへと消えていった。
あんな記憶、いっそ失くしてしまいたい。
でも。やっぱり。
無かったことにはしたくない。
たとえもう叶わなくても。
それは俺が夢を描いた理由になったから。
「もう孝也に会うのはやめよう」
俺はふと、そう思った。
あんなに苦しかったことを思い出すなんて、俺にとってはもう地獄でしかない。
“友達”で居る事を止めたあの瞬間から、俺の決意は始まっていたはずだったんだ。
———俺は今更、孝也に何を求めていたんだろう。
手元の原稿用紙をクシャリと握りしめる。
折り目の少し伸びた用紙は、再び皺になって影を落とした。
-佐藤裕二 編- END
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