世界で一番

姫路 りしゅう

第1話

「世界で一番面白い物語って、ハッピーエンドだと思う? バッドエンドだと思う?」

 葵のその問いかけにわたしは数秒考えて、「世界で一番面白い物語って誰にとって?」と言った。

 うわ、めんどくさ! という顔とともに葵はわたしのほうを向く。淵にうっすらと緑がかった綺麗な黒目とばっちり目が合う。彼女は呆れたようにつぶやいた。

「そういうとこだよ、澄香」

「ん、好きなところ?」

「めんどくさいところ!」

 そういいながら葵は今まで読んでいた文庫本をわたしに突きつける。表紙には可愛い女の子のイラストが描かれていて、一見するとライトノベルのようだったけれどレーベルは一般のものだった。ここ五年くらいで一気に一般書籍にも萌えイラストが進出してきたように思う。萌えイラストの小説を持っているだけで迫害の対象となる時代を生きてきた古のオタクであるわたし的には、最近の動向が少し不気味だ。SFの巨匠が書いた小難しい小説にも新鋭作家が書く本格ホラー小説にも表紙には可愛い女の子が佇んでいることがある。最近の子はこういう本を持っていて何も言われないのだろうか。

 などとうだうだ考えていると、葵が口を開いた。

「ここに世界で一番面白い物語があります」

「へえ、その小説そんなに面白いんだ。今度貸してね」

「あー、ちがくて!」

 小柄な体をばたばたと揺らす。放課後の図書室には図書委員以外わたしたちしかいないので多少騒いでも何も言われない。

「これが世界一面白い物語だと仮定するんだよ」

「うーん。うん、わかった。で、それは誰にとって?」

 わたしははじめと同じ疑問を投げかける。

「この世に生きる人間全員にとって」

 葵も端的に返答した。

 この世に生きる人間全員にとって一番面白い物語。

「……そんなもの、あるわけなくない?」

 部活動もせず放課後図書室に残って一緒にいるほど仲がいいわたしと葵ですら、好きな小説は違う。

 もちろん「面白い」が一致することは多い。直木賞を受賞したあの本も、本屋大賞をとったこの本も、二人とも徹夜して読み切るほど没入したし、三日間会話内容がその本の感想だけになった作品もある。

 けれど、やっぱり好みには時々ズレを感じるし、人間である以上それは仕方のないことだと思っている。

 というより、ちょっと好みがズレているからこそ会話が続くし関係が続いていくんじゃないかな。

 本題に戻ろう。同じ高校で二年間同じクラスのわたしたちですら好みがズレるのだ。クラスメイトのサッカー部の彼や、同じ中学だったけど高校に行かなかった彼女。世代の違う両親や近所のおばちゃん。国境を越えた違う言語で違う人種のあの人。

 うまれや育ちが全く違うそれら全員にとって一番面白い物語というものは存在しないだろう。

「澄香の言いたいことはよくわかる。フツーに考えたらあり得ないよ。でも思考ゲームだと思って。もし世界で一番面白い物語が存在するとしたら、それってハッピーエンドだと思う? バッドエンドだと思う?」

 ようやく葵の質問の趣旨を理解した。

 完全無欠な物語は幸せな最期を迎えるのか胸糞悪い最期を迎えるのか。確かに面白い質問だ。

「面白い、っていうのは全員が笑顔で楽しめる物語、じゃなくて心が揺さぶられるっていう意味でいい?」

「そうだね。それだとハッピーエンドしかありえなくなっちゃう。ここでは面白いを心が揺さぶられる、だと仮定しよう。そうじゃないとホラー小説の立つ瀬がないしね」

「ふうむ」

 わたしは顎に手を当てて考えてみる。

「面白い、の定義すら人々の中で変わってくるから中々難しい話だけれど、思考のために一回発行部数を考えてみていいかな?」

「世界で一番売れている飲み物はコーラらしいけど、澄香はコーラが一番おいしい飲み物だと思うタイプ?」

「世界で一番おいしい飲み物はファミレスのドリンクバーにあるメロンソーダだが?」

「なんであれって一般流通してないのかな……」

 すごい売れている小説としてぱっと思いつくのはドン・キホーテとハリーポッターだけれど、確かドン・キホーテって悲しい終わり方だったような。

 ハリーポッターは悲しい展開もあるけれど最期は結局ハッピーエンドでいいと思う。

「余計わからなくなったよ」

「大切なものはお金じゃないってことだね」

「それはそうだけど今ここで言うのは違うと思う」

「そもそも澄香はハッピーエンドとバッドエンドどっちが好きなの?」

 うーん、とわたしはまた考え込む。

「メリーバッドエンド?」

「うっわ、好きそう」

「なんか失礼だよ!」

 メリーバッドエンドは、インターネットで生まれた概念なので時代によって意味がじわじわと変化していっているけれど、ここでのわたしたちは「物語の主人公的には幸せな終わりだが、周囲や読み手からはそう思えないようなエンディング」を指して話している。主人公が望みを果たしたうえで犠牲になって世界が救われる物語があったとして、彼は望みを果たして満足して死んでいくので幸せだ。でも彼を好きだったヒロインや読み手からするとどうだろう?

 わたしはこういう読み終わった後になんかもやもやする、受け取り方次第でハッピーエンドにもバッドエンドにもなる物語が好きです。

「そういう葵はどうなの?」

「どっちも好きだけど、中途半端にご都合主義なハッピーエンドを迎えるくらいなら超どんでん返しのあるバッドエンドのほうが好みだなあ」

「あ、それはすごい分かる。なんやかんやで元通り、すべてがうまくいって幸せ! な話は萎える」

「きっとハッピーエンドは作るのが難しいんだよ。話に起伏をつけるためにトラブルを起こす必要はあるけど、トラブルって全部解決しても幸せにならないことのほうが多いじゃん。なんというか、起きた時点でマイナスだからそれがゼロに戻ったとしてもゼロに戻すための労力分マイナス、みたいな。人が死んでそれを乗り越えたとしても、よっぽどうまくしないと人が死んでる時点でマイナス、みたいな」

「ああー、納得した。だから下手に人を殺すくらいならいっそ猟奇的な連続殺人からの胸糞悪いエンディングのほうが読んでて面白いんだ」

 その時、右の方でガタン、と何かの落ちる音がした。

 物の落下音にしては鈍く、重いなと思いながら反射的にわたしたちは音の方を向く。

 しかし何かが散乱しているなどの変わった点は見られなかった。

「なんの音だろ」

「んね」

 図書室の入り口付近、貸出テーブルの当たりから音がしたと思ったけど、テーブルの上にはパソコンと何冊かのお勧めの本がきれいに並べられているし、その周辺の本棚にも変わった様子はない。他には何も見えないのでわたしは再び葵のほうに向きなおった。

「……葵?」

 葵はまだ呆然とした表情で貸出テーブルの方を見ている。そのまま立ち上がり、恐る恐る貸出テーブルへと近づいていく。

「澄香、図書委員は?」

 それを聞いてわたしも葵の考えを察する。

 テーブル付近には何も見えなかった。でもおかしい。そこには図書委員がいるはずなのだから。

 つまり今の落下音は図書委員が椅子から落ちた音で、まだ姿が見えないということはテーブルの陰に倒れているということ。

 わたしも慌てて立ち上がり、少し駆け足になりながらテーブルのほうに向かう。

 倒れている図書委員の姿を見てわたしは唖然とした。

「これは……」

「し……死んで」

「澄香! 物騒なことを言わないの」

 そういう葵の声と足も震えていた。きっとわたしの足も震えているだろう。

 倒れている図書委員の女の子は、とても綺麗な顔をしていた。

 とても、満足そうな顔をしていた。

 その顔があまりにも美しかったから、わたしたちは彼女が小さく呼吸をしていることになかなか気付かなかった。

「ねえ、この子、息してない?」

「たしかに! そもそも外傷もないし」

 わたしは図書委員の頬をぺちぺちと叩いたり腕をつねってみたりする。それでもまったく目が覚める気配がなくて途方に暮れてしまった。

「えー、寝不足がすごかったのかなあ」

 葵が言うけれど、いくら寝不足がすごくても椅子から倒れても目が覚めないなんてこと、あり得るだろうか?

「どうする? 先生よぼっか」

「そうだね。ん、ちょっと待って?」

 わたしは図書委員が手に抱えている文庫本が気になった。直前まで読んでいた本だろうか、気絶して倒れているのに本は手放さないなんて図書委員の鑑だな、と思いながらその本を手に取る。

表紙には『アルキラージュ』というタイトルが印刷されていて、作者は外国人のようだった。不思議なことに、見たことのない出版社の本だった。わたしはそこそこの読書家だと自負していて、本屋さんにもよく足を運ぶので日本のレーベルで知らないものがあるとは思いもよらなかった。背表紙の下に小さく印字されている社名もピンとこない。

「葵、この出版社知ってる?」

「んー? ん? んー、しらにゃいな」

「だよね、わたしも葵も知らないってどういうこと?」

 裏側にはあらすじも何も書いていなくて、本の内容は全く分からなかった。貸して、と葵に言われるので大人しく本を渡す。そろそろ先生を呼びに行ったほうがいいなあと思ったので「先生呼んでくるからちょっとそこにいてね。現場保存に勤めてくれ給え」と言い残して教室を出る。背中越しに「現場保存はすでにできてないよー」と言葉を投げかけられたけど無視して図書室を出た。

 図書室は四階にあって、職員室は同じ建物の二階にあるのでそのまま階段を早足で降りていく。

 放課後、五時半。夏は絶対下校が七時なのでまだ生徒の姿がちらほら見える。先生もまだ多く職員室に残っているだろう。ノックを三回して失礼します。扉を開けてから失礼しますなのか、扉を開ける前に失礼しますなのかいつもわからなくなる。

「あら、どうしたの?」

「図書室で図書委員の女の子が倒れているので来ていただけませんか?」

 淡々とそう告げると職員室中の時間が一瞬停止する。そのあとガタンと全員が勢いよく立ち上がってわたしのほうを向いた。

 全員が立ち上がったのを見て一安心。教師陣もまだまだ捨てたものじゃないね、なんて。「どこだ! 早く案内しろ」って体の大きな体育教師が言うけどわたししっかり図書室って言った気がするよ。

 五人くらいの教師と一緒に階段を駆け上がって扉を開ける。

 葵はしっかり現場保存の責を果たしていたようで、出ていった時と寸分違わない位置に図書委員が倒れていて、葵はそのすぐ近くの椅子に座って『アルキラージュ』を読んでいる。

 息をしているとはいえ倒れている同じ学校の生徒の隣でよく本を読めるね、まあいいけど。

「葵、お待たせ」と言ってから先生に「この子です」と案内する。葵は返事もせずに本を読み続けていた。感じ悪。

先生陣もわたしと同じように呼吸の確認やら揺さぶるやらしていたけれど諦めて救急車を呼んだ。心臓もしっかり動作しているので救急救命士的な医療処置が必要かどうか図りかねているようだった。

ほどなくしてタンカが図書室に運び込まれる。名前も知らない図書委員の女の子はそのまま救急車へと運ばれていった。

葵はその間ずぅっと本を読み続けている。

「葵、あーおーい!」

 よっぽど集中しているのか、耳元で叫ぶと鬱陶しそうに顔を手で弾かれた。痛いなあ。

「今集中してるから邪魔しないで」

 短く吐き捨てられる。普段の葵からは想像もできないくらい冷たい声だったのでわたしはたじろいだ。

 図書委員が倒れた下りに事件性はなく、彼女が救急車に乗せられた後は先生たちも職員室に戻っていったので必然この部屋にはわたしと葵だけになった。

 でも葵はずっと本に集中している。つまんないな。でも邪魔するなと言われたら大人しくする外はない。今が六時前で、一時間後には下校しなければならない。葵は本を読むのが早いうえに『アルキラージュ』はそこまで長くない文庫本だ。彼女は読み終わるまでここを離れないだろう。

 仕方なくわたしも鞄から読みかけの小説を取り出してページを開く。

 無言の時間が流れる。

 わたしたちはお互いに読書好きで、読書に限らず映画や音楽などの創作物が好きでつるんでいる。でも二人で一緒にいるときは会話をすることが多いので、こういったお互いに何もしない時間は意外と稀だ。

 たまにはこんな時間も悪くないか、とさっきの冷たい葵の声を振り払うかのように咳払いをした。

 しばらく経ち、そろそろ時間かな、と思いながらふと時計を見ると、六時五十分だった。絶対下校まであと十分。図書委員の代わりに鍵を返すことを考えるとそろそろ帰りの支度をしなくちゃならない。集中して本を読んでいる葵には悪いけど、読書を中断してもらおう。

 そう思って振り返った瞬間、鈍く、重い音が響いた。

 わたしの目には、葵がゆっくりと椅子から落ちていく映像がしっかりと映っていたけれど、わたしの脳がその情報を読み込むのには少しだけ時間がかかった。

 耳に嫌な音だけが残る。

 さっき、図書委員の女の子が倒れたときと同じ音。

 人間が倒れる音。

「葵!」

 後頭部からひっくり返った葵は、とても満足そうな顔で目を閉じ、「世界で一番、面白かった」と小さく呟いた。

 そこからは規則正しい呼吸の音だけが聞こえて、どれだけ揺さぶっても、どれだけ叩いても、葵は二度と目を開かなかった。

 巡回の先生が来るまで、わたしはただ葵の整った顔をぼうっと眺めていた。

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